第二十四話 最後の巨人
フレヤは闇の中で気がつく。それは轟音をあげながら渦巻く、原初の闇であった。狂暴で破滅的な闇は、広大なスケールを持ってフヤの周囲で荒れ狂っている。
そして、それは宇宙そのものであるかのように巨大で果ての知れぬ闇であった。フレヤはその闇が何であるか、次第に理解し始める。
それは死であった。あるいは死の具現化というべきか。この世界の理の内側にいるものにとって決して理解したり、体験したりできぬもの。理解を拒絶する広大な無限。それがこのウロボロスの闇であり、また、ウロボロスの闇は自らが死であるが故に凶悪な負の思念を呼び寄せることになる。
死は常に暗黒の想念を招き寄せた。しかし、死そのものはいかなる邪悪さとも無縁な、思念を超越したものである。ウロボロスはまさに死そのものであり、ウロボロス本体にはいかなる邪悪な想念も存在していない。凶悪な思念は空を覆う暗雲のように、ウロボロスを包んでいるだけだ。荒れ狂う雷雲を突き抜けると、その遥か上方の空は常に静謐さに満たされているように、ウロボロスそのものは宇宙のように静かである。
フレヤがそのことを理解したのは、彼女自身が狂暴な荒れ狂う思念を抜け、ウロボロス本体に近付きつつあるからであった。フレヤは無限におもえる程の彼方に、螺旋を感じる。その螺旋こそ、邪竜とよばれるウロボロスの本体であった。
本来は無限に伸びてゆくはずの螺旋が、閉じている。それはフレヤには理解できない形であったが、その両端が結びつき閉じられていることは理解できた。
閉ざされた螺旋。フレヤはゆっくりとその身噛みの蛇が形成する輪の中へと入り込んでゆく。
フレヤは狂暴な思念の渦巻く闇を抜けきった。そして無限に広がりながらも閉ざされた輪であるウロボロスの領域へと入り込んでゆく。
◆ ◆
フレヤは薄闇の中で目覚めた。身を起こすとあたりを見回す。そこは古代の遺跡のように巨大な石で築かれた建物の内部を思わせる空間である。
フレヤは立ち上がった。あらためてあたりを見てみる。闇に馴れたせいか、次第にものが見え始めた。
頭上を覆う半球形の天蓋に、一個所窓があいている。そこが唯一の光源らしい。フレヤはその天窓の下へ歩み寄る。
天窓の向こうに輝くのは青く光る月であった。しかし、フレヤはそれがおそらく月と呼ばれるのに相応しい星ではないと感じた。それはおそらく。
「それは、おまえが思っている通りの星だよ」
フレヤは振り返る。気配は感じなかったが、さほど驚くことはなかった。出会うであろうと予期した人間であったためだ。その輝く瞳をもった男は、ラフレールである。
「それは地球だ」
「ここはどこだ」
フレヤの問いにラフレールは怪訝な顔をした。
「自分がどこにいるのか判っていないのか。ここは、月とよばれる場所。あるいは星船とも呼ばれるものだ」
ラフレールは輝く瞳でフレヤを見つめている。
「おまえは、自ら望んでここへ来たのでは無いのか」
「星船にくるのは、望みではあった。しかし」
フレヤは薄く笑う。
「ここへ招いたのは、おまえだろう」
「待て。混乱があるようだな。おまえは私が誰か知っているのか」
「魔導師ラフレールだろう」
ラフレールは不思議なものを見るようにフレヤを見つめる。
「どうやらおまえは、別の次元界での私とであったらしい。私はおまえを知らない」
フレヤはあることにようやく気がついた。目の前にいるラフレールは黄金の林檎を身につけていない。
「私はどうやら過去に辿り着いたようだな。私の出会ったラフレールはおそらく未来のおまえだ」
ラフレールは頷く。どうやらフレヤと同じ結論に達したらしい。
「未来の私は、おまえにこれから私がすることを見せたかったようだな」
「何をするつもりだ」
「巨人を目覚めさせるつもりだ」
「巨人だと?」
ラフレールは強烈な意志を秘めた瞳でフレヤを見る。フレヤは冷めた瞳で見つめ返す。
「おまえは、自分だけが巨人族の生き残りだと思っているのか」
「私は記憶を失った存在だ」
「まあいい。私の考えを説明しておこう。私はかつて地球は巨人族のものであったと考えている」
「地球を巨人が支配していたというのか」
「そうだ。先史時代の遺跡を調べると、明かに巨人が使用していたと思われる建物等が顕れてくる。むろん、そう断言するには数が少ないが。しかし私は確信している。地球はかつて巨人のものであり、神々は後からそこに訪れたのだと」
「では人間は」
「かつて巨人であった者だ。神々と呼ばれる存在が巨人を変化させ、人間を造った。
巨人はむしろ人間の本来の姿だと思う」
「しかし、それは神話と矛盾している」
「神話は所詮、神話に過ぎない。事実を模倣したものだよ」
フレヤは首を振る。
「神話は事実だ。魔族や竜たちに聞いてみるがいい」
「神話が事実に基づいたものであることに異論はない。ただ、それは断片的な事実を反映したに過ぎない。人間はもともと魔族や神々の支配する次元界と別の次元界に属していたのだ。人間の世界に神々が訪れたというよりは、神々の世界へ人間が引き込まれたというべきかな」
「何のためだ」
「いうまでもない。賭けのためだよ」
ラフレールは皮肉な笑みを見せた。
「神々は自分たちが直接戦うことの危険性に気がついた。そのため別の次元界から人間という便利な生命体を招きよせることを考えたのだ。神々でさえ未来を決定できない不安定な時間流に生きる脆弱な存在こそ神々の代理戦争を戦うに相応しい」
「待て」
フレヤの瞳には苛立ちがあった。
「ラフレールよ、おまえの説明は一応、判る。それではしかし、神話の巨人が何者であるかは説明していない。巨人が人間の元の姿であるのなら、グーヌが造り出した巨人とは一体何だ」
「そこだな」
ラフレールは頷く。
「私は二種類の巨人がいるのかと考えた。しかし、それはありえない。グーヌが造り出した巨人と人間の元型である巨人は同じ者でなければならない」
「ではどう説明するのだ」
「仮説ではあるが、こう考えている。神話の通りグーヌは巨人を造った。そして星船に乗って金星よりこの地球へ訪れる。そしてこの地球上でグーヌの巨人と人間の融合が行われた」
「融合だと?」
「そうだ。グーヌの造り上げた巨人は実体の無い、神霊的な存在だと私は考えている。つまり、精霊と魔族の中間的な存在だといえばいいだろうか」
フレヤは冷たく冴えわたる瞳で、ラフレールを見た。
「私は人間であると同時に、神霊的な存在だというのか?その両者が結びついてできた存在だと。そして、今の人間はグーヌの造り上げた巨人と融合しなかったものたちだという訳か?」
「それはおまえ自身がよく判っているのでは無いか。しかし、今言ったことはただの仮説だ。私はそれが真実だと思っている。その確証をとる為に、この星船で眠る巨人を目覚めさせたいと思っている」
ラフレールの顔は確信に満ちていた。フレヤは無表情でその顔を見つめている。
「おまえのいうグーヌが造り上げた巨人はこの星船の中に眠っているというのか」
「そうだ。巨人は人間と融合した。しかし、その本体は人間の中にとりこまれた訳では無く、この星船の中で眠っている。見ろ」
ラフレールはドームの中央のあたりを指差す。そこには昏く地下への入り口が開いていた。
「あそこからこの星船の地下へ下れば、眠る巨人に出会えるだろう。それは、おまえの本体でもあるはずだ」
ラフレールは真っすぐフレヤを見る。
「おまえも私とともに来るか」
フレヤは頷いた。
「ここに私の本体があるというのなら、ここにこそ私の望むものがあるのだろう」
ラフレールは、眼差しでフレヤについてくるように示す。フレヤはラフレールに導かれるまま、地下への入り口へと向かう。
そこにあるのは、暗黒へと下ってゆく螺旋階段であった。ラフレールは濃厚な液体を思わせる闇の中へと下ってゆく。輝くように純白の鎧を身につけたフレヤも漆黒の闇へ足を踏み入れた。
螺旋の階段は果てしなく続く。フレヤは星船の中心部に辿り着くのではないかと思うほど、深くその螺旋階段を下って行った。
次第にフレヤは方向感覚を無くしてゆく。上に向かっているのか、下に向かっているのか判らなくなっていた。ただ闇の中を螺旋を飛ぶように通りすぎてゆく。
唐突に光の中へフレヤは出た。先に螺旋階段を抜けていたラフレールは、光の中で待っている。光に目が慣れはじめると、そこがどのような場所であるか判ってきた。
頭上はとてつもなく高く、光の柱が何本も立っており空のような輝きは見えるがそれがなんであるのかはよく判らない。足元は切り立った崖であり、一本の橋が前方に伸びている。ラフレールはその橋の上にいた。
石のような材質でできているらしい橋はかすかに放物曲線を描いているようだ。その僅かな曲線を描き上ってゆく橋の下には、海があった。
海というのが正確な表現であるのかは、フレヤにはよく判らない。それは蒼い光を仄かに放つ不思議な液体である。いや、液体ですら無いのかもしれない。ただ、その表面は海が波打つように微かに蠕動しているように思えた。
ラフレールはまた、目でついてくるようにと示す。フレヤは、幅が1メートル程しか無いと思える橋を上っていった。
その放物線状の曲線を描く橋の頂点のところで、ラフレールは立ち止まる。そこで蒼く輝く海を見下ろしていた。傍らに立ったフレヤに向かい、ラフレールは足元を指差す。
「見ろ、あれが巨人だ」
フレヤは、その蒼く輝く海を見た。その奥底にまさしく巨人と呼ぶべき巨大な姿をした女性の姿を見る。その姿は、深海の底に沈んだ美貌の王妃の亡霊のように、気高く美しかったが死せるもののように生気が無かった。
「巨人は魂をおまえたち人間に宿し、本体はここで眠り続けている。おそらく神々が永劫ともいえる長き時をかけて戦いを始める前から」
フレヤは海の底で眠る美貌の巨人を見つめる。白く美しく輝くその裸体は海底に沈んだ真白き女神の船を思わせた。その全長は二十メートル程はあろうか。フレヤはその水底に沈んだ美貌の巨人を見つめる。その顔には見覚えがあった。それは間違いなく。
「その巨人はおまえだ」
フレヤは顔を上げてラフレールを見る。そこにいるラフレールはさっきまでのラフレールとは違った。その黄金に輝く瞳は、獰猛なまでの生気に充ち溢れている。
フレヤはそのラフレールは未来のラフレールであることを知った。その魔導師の体内からは黄金の林檎が放つ波動を感じる。
「過去のおまえはどうしたラフレールよ」
ラフレールは笑みを見せる。さっきまでの彼が見せることは無かった凶暴な笑みだ。
「地球へ送り返したよ。この場所でこれからおこることを、彼は見るべきではないからね」
フレヤは剣を抜く。おそらく役にはたたないのだろうが、本能的な動作だ。
「ここで決着をつけるということだな、魔導師よ」
ラフレールは人間よりは魔族に近い、気高く美しい顔を真っすぐフレヤへ向ける。
その様は狂暴で孤独な獣が、遠い空を見つめる様を思わせた。
「そう考えていいぞ、最後の巨人よ」
剣を振り上げ、踏み込もうとした巨人めがけてラフレールは左手をつきだす。その手のひらから金色の光がフレヤめがけて迸った。
「これは」
反射的にその光を右手で受け止めたフレヤは呟く。それは黄金の林檎であった。それはこの世にあらざるものに相応しい、不思議な光を放っている。その輝きは全てのものをまやかしに変えてしまうようだ。その光だけが真実であり、他の全ては真実の影であり幻に過ぎないような気になる。フレヤはその輝きに心を奪われ、目の前にいる魔導師のことを忘れて見つめ続けた。
「これで終わりだ。私の役目はここで終わる。フレヤよ、おまえも本来のおまえへと戻れ」
ラフレールは宣告を下すように語り終えると、一歩下がる。フレヤの足元の橋が崩れた。フレヤはとっさのことに何をすることもできず、輝く蒼い海へと墜ちてゆく。
落下がもたらす幻惑の中で、フレヤの意識は空白になっていった。目の前に蒼い輝きがある。それは揺らめき、波打ち、彼女を包み込んでいた。
フレヤは自分が蒼い海の中にいるのに気がつく。世界は凍り付いたようにゆっくりとした時間の流れの中にある。そして遠く頭上からもう一人の彼女、彼女自身の肉体であり閉ざされた意識を持つもう一つの人格が墜ちてくるのを感じていた。
フレヤは今は、巨大なものの一部となったような気がしている。いや、おそらくそれは正しく言い当てていない。元もと彼女の内側に隠されていたものがすべて開放され、自己のより深い部分へ自意識が辿り着いたというべきなのだろう。
彼女の心ははっきりと感じとることができた。死せる女神の存在を。そしてこの宇宙へ墜ちてきた理由を今こそはっきりと認識することができた。
彼女はこの宇宙を、孤独な閉ざされた狂った魂を救済するためにこの宇宙へと降りてきたのだ。しかし、今は無力である。彼女は殺され狂った世界と同化しているのだから。フレヤは心に悲しみが満ちていくのを感じる。全て失われた。救済はなされなかった。目的は果たされなかった。そして永遠に彼女の魂は癒されることなくこの海の中で、漂い続けるだろう。
その時フレヤは白い羽ばたきを見た。純白の鷲、妖精王の仮の姿。
フレヤの意識が戻る。フレヤは馴染みが無いもののように、純白の鎧につつまれた自分の体を見た。フレヤは巨大な白い鷲に両肩をつかまれ、蒼い海の上を飛んでいる。半ば崩れ墜ちた橋の上からラフレールがこちらを見つめていた。
「黄金の林檎は手に入れたのか」
白い鷲の背から声がする。黒衣の男、ロキであった。ロキは妖精王の化身である純白の鷲の背に跨っていた。
「林檎なら我が手にあるぞ、ロキよ」
フレヤは改めて自分の手を見る。左手には長剣、右手には光の林檎があった。
「それは重畳」
ロキは自らの使命であったものを手中にしたにしては、随分あっさりとした言葉を放つ。フレヤは少し苦笑しながら妖精王である鷲に語りかけた。
「ラフレールの上に落としてくれ。ここでけりをつけたい」
フレヤは自分の手にある黄金の林檎が、自分に大きな力が与えているのを感じる。
今ならばラフレールを斬れると思った。
白い鷲は旋回すると、フレヤを掴んだままラフレールの頭上へと舞い上がる。そして鷲はフレヤを放した。
フレヤは橋に向かって落下しながら、左手に持つ剣を振り降ろす。剣はラフレールの右の鎖骨から鼠蹊部へ向かってはしり抜けた。ラフレールの体は文字通り、両断される。
橋に降り立ったフレヤの足元で風が巻いた。風は意志を持つもののようにラフレールの両断された身体の上にとどまる。フレヤの背後でロキが叫んだ。
「気をつけろ、おまえが切ったやつの体はまやかしだ」
風が突然激しくなる。両断されたラフレールの胴に昏い暗黒が顕れた。そして暴風の渦巻くその暗黒の向こうからラフレールの真実の姿が現れる。
暴竜フレイニール。それがラフレールのもう一つの姿であった。フレイニールは黄金に輝く巨大な姿でフレヤを見下ろす。
「おまえは奇妙な存在だな、フレヤよ。なぜ同化しないのだ、死せる女神の化身たる巨人と」
「私は私だからだ、竜よ」
フレヤは傲岸に言い放った。
「私は生であり、真冬の雪原を渡る白き風だ。荒れた大地を焼き尽くす真夏の太陽だ。ここで眠りにつく存在ではない」
竜と化したラフレールは狂暴に笑った。
「おまえを封じるのは失敗したが、黄金の林檎を与えるつもりは無い」
疾風がフレヤを襲い、その体が宙に舞う。その両肩が鷲によって掴まれ、フレヤの体は風にのまれなかったが、金色の光が暴竜フレイニールの体へと吸い込まれてゆく。黄金の林檎はフレヤの手からラフレールへと戻った。
妖精王の背からロキが叫ぶ。
「ラフレールよ、いつまでその重荷を抱え込むつもりだ。それは人で無きものである私にまかせろ。人間としての生をまっとうするがいい、偉大なる魔導師」
「できぬな」
巨大な竜が答える。竜の回りには闇が出現しつつあった。狂暴な闇。飢えた獣のように狂った闇。それはウロボロスの闇であった。
「私も既に人間とはいえない存在になっている。これはウロボロスの輪の奥へ封じる。私自身とともに」
世界は闇に呑まれた。フレヤは再び、あのウロボロスの造り上げた神聖なる暗黒の空間にいる。そしてあの金色に輝く林檎が永遠の彼方へと墜ちてゆくのを感じた。
だれも触ることのできない宇宙の果て。
永遠よりも遠い宇宙の果て。思念のたどりつくことのできない、暗黒の彼方。そこへ向かって巨大な竜フレイニールは飛び続ける。
その両の翼を黄金に輝かせながら。




