第二十三話 金属の魔獣
バクヤは、想の意識を注意深く呼び覚ましていく。通常の意識より遥かに速い速度で流れる意識がバクヤの思念を覆っていった。
世界が凍り付いてゆく。空気の流れが目に見える気がするほどバクヤの意識は研ぎ澄まされていった。全ての動きをバクヤは把握している。ほんの僅かな木の葉の揺らぎ、宙を舞う花びら。そうしたものが全てバクヤの意識の中で明確に捕らえられ、ゆっくりと動いていく。
ティエンロウは、美しい彫像のように止まっている。それは何の動きも予感させないということだ。ティエンロウにはしかし、凄まじい緊張が漲っている。おそらくバクヤのどんな動きに対しても、静かな湖面が羽毛が落ちることによっても波紋を作るように、ティエンロウの動きを呼び覚ますことが予想された。
ティエンロウの武器を既にバクヤは理解している。一挙動で銃弾を放てる武器だ。間合いを詰めるのは困難だろう。どのような形でバクヤが動いたとしてもそれより速くティエンロウは銃弾を放てる。
ただ、バクヤにはメタルギミックスライムの腕があった。むろん、バクヤはその腕を完全に制御しきれる訳では無い為、ティエンロウの魔力を秘めた銃弾を受けるのはとても危険だ。その魔力が封印を破り、メタルギミックスライムが暴走するのは間違いない。
銃弾を躱し間合いを詰める。極めて困難なことだ。しかし、メタルギミックスライムを上手く制御すればできるかもしれない。その生きた金属の腕を操り鞭のように変形させることができれば、遠い間合いからティエンロウを攻撃できる。
銃を抜き撃つ。その間に間合いを詰め、鞭と化した腕でティエンロウを打つ。バクヤに可能な攻撃はそれだけであった。
バクヤは意識を研ぎ澄ませていく。世界は輝いているように思えた。光のスペクトルが見える。虹色となった光が自分の体やティエンロウの体を覆っている。
空気は、水晶でできているかのごとく澄んで冷たく乾いていた。バクヤは自分の心を空白にし、世界と同一化していく。限りなく速く、限りなく自然に動く為に。
そしてバクヤは動いた。風のように、陽炎がゆらめくように。
バクヤの意識の中で空気が恐ろしく重く感じられる。個体化したような空気が轟音と共に体の側を吹き抜けてゆく。
バクヤの狭まってゆく視野の中で、ティエンロウはゆっくりと手を銃へ伸ばす。本当は凄さまじい速度でその手は動いているはずだが、バクヤの思念の中では這うように見える。
バクヤの左手が変形していく。流れる水でできているかのごとく、滑らかに変わってゆき鞭の形態をとろうとする。
(間に合う。銃が抜かれた時には間合いへ入る)
バクヤは間合いの際まできた。その時ティエンロウは、ようやく銃把に手がかかったところである。抜かれた時には、ティエンロウは死んでいるはずだ。
ティエンロウは銃把を握る。その時、銃声が響いた。
バクヤは愕然として、その轟音を聞く。ティエンロウはホルスターに納められたままの状態で銃を撃ったのだ。考える暇は無かった。まさに魔法のように、目の前に6発の銃弾が出現した為だ。
想の意識の中にいたからこそ、その銃弾を把握できたが、そうでなければ頭を撃ち抜かれていた。それでも躱せる距離ではない。バクヤはメタルギミックスライムの腕を動かす。
一瞬にして元通りになった左腕で、6発の銃弾を掴む。それと同時にメタルギミックスライムの左手が弾けた。銃弾に込められた魔力の効果だ。左手は縦に裂け、無力化する。バクヤの頭の中で何かが壊れた。
既に弾倉の交換を終えたティエンロウは膝をつき放心状態のバクヤに向かい、銃口を突きつけ歩みよる。ティエンロウは白面の美貌に冷たい笑みを浮かべていた。
「拍子抜けだな、バクヤ・コーネリウス。もっとも」
ティエンロウは動けないバクヤの側に立ち止まる。
「こう、うまくいくとは思わなかった。簡単な術でね、魔操糸術と同じように魔道で開けた穴を通して銃弾を飛ばす。普通ならなんのこともない平凡な技だが、何しろウロボロスの影響下にある。うまくいくとは思えなかったが、どうやら低レベルの魔道は使えたようだ」
バクヤの耳にティエンロウの声は聞こえていなかった。何かがバクヤの頭の中で笑っている。狂った狂暴な笑い。それが津波のようにバクヤの心を覆ってゆく。抵抗する気力がもう、バクヤには残っていなかった。
「うう」
微かにバクヤが呻く。ティエンロウは怪訝そうにバクヤを見る。
「うう、ううううう」
バクヤの呻きは高まってゆく。
「うううう、ううぉ、ううおおおおおお」
バクヤは咆哮した。
「うるお、うるるるおおおおおお、うるおおおおおおお」
ティエンロウは反射的に引き金を引いていた。しかし、その銃弾はバクヤの全身を覆った金属の鎧に弾き飛ばされる。
バクヤの全身はメタルギミックスライムに覆われていた。その姿は魔獣である。
燃え上がる金属の炎がバクヤを包んでいるように見えた。炎が空へ伸びるかのごとくバクヤの背に幾本もの金属の角が生える。
狂暴な唸りをあげる金属の魔獣。黒い鉄の蛇が身を捩るように尾がのたうつ。
バクヤの意識は完全にメタルギミックスライムに乗っ取られていた。人間としての思考を失ったバクヤの脳裏に閃いていたのはめくるめく快楽である。
ティエンロウは後ずさる。しかし、遅かった。魔獣の腕の一振りで、ティエンロウの頭部が吹き飛んだ。漆黒の鋼の獣は心地好さそうな咆哮をあげる。
金属の魔獣は、神殿を見た。そして首の無い死体を後に残し、ゆっくりと神殿へ向かって歩き始める。
◆ ◆
ブラックソウルは、ホロン言語による思念を呼び覚まし始める。ユンクの元で学んだ高速の思考をもたらす言語。それは脳の内部にもうひとりの自分ができるのに似ている。通常の言語で思考を行う自分。その自分は、夢の中の出来事を見るようにホロン言語で思考するもう一人の自分を見つめていた。
ブラックソウルはただ茫然と世界が輝き始めるのを、見つめている。それは麻薬を吸引した時の感覚に似ていなくも無い。
光は虹のようにスペクトルに分解し、神々が降臨するその時のごとく晴れやかに空から降り注いでいる。空気中に浮遊する分子が、宝石を思わせる煌めきを見せながら漂っていくのを感じた。
宇宙との一体化とでもいうべき感覚がブラックソウルに訪れる。全てが理解でき、全ての動きが把握できるような感覚。例えば傍らにある木々の思考を読み取れるような気持ちになる。
ブラックソウルはそうしたものがある種のまやかしであることを、理解していた。そういう意味では、この感覚はまさに麻薬のもたらす夢と似ている。
ブラックソウルはエリウスを見つめた。この神話に生きる神の子を思わせる少年は、黄金の輝きを宿した瞳でこちらを見つめている。その思念はやはり同じように高速の世界にあるようだ。
ブラックソウルの手から四枚の闇水晶の刃が放たれる。死をもたらす凶悪な四枚の薄い羽。ブラックソウルは漆黒の水晶剣を片手で二枚ずつ操る。
その速度は通常の水晶剣を遥かに上回る速度で動いてゆく。おそらくブラックソウルはこれまで一人の人間相手にここまでの技をふるったことは無かった。
四枚の黒い死の羽は、優雅といってもいい程美しい動きを見せる。四人の黒い妖精が空中でダンスを踊っているようだ。
そして刃は四方よりエリウスを目指す。ブラックソウルは闇水晶を糸のコントロールから解き放ち、ホロン言語で捕らえうる速度を越えた速さを与える。四枚の闇水晶は四つの黒い閃光へと変化した。
その刹那。
透明に見える空気がほんのすこし揺らいだ。
黒い水晶の破片が風に飛ばされた花びらのように舞う。
エリウスは動いたようには見えない。しかし、少年のもつノウトゥングの剣は間違いなくブラックソウルの剣を砕いていた。
(勝った)
ブラックソウルは勝利を確信する。ブラックソウルの予想した通り、剣を振るう一瞬にのみエリウスには隙が生じた。その隙にブラックソウルは魔操糸術により、糸を放っていたのだ。
魔道により空に穿たれた微細な穴。その穴を通して糸はエリウスの体の側に出現する。エルフの紡いだ糸は、エリウスの首に巻き付いていた。
ブラックソウルは、微かに糸を引く。糸は確実に頸動脈を押さえていた。糸に圧迫され脳に送られる血液が一瞬途絶える。すとん、とエリウスは膝をつき意識を失った。
「命をとる必要は無いが」
ノウトゥングを持たせておくのは危険である。次に勝てるとは思えなかった。ブラックソウルは無造作にエリウスに向かって踏み出そうとする。
「違う」
ヴェリンダは叫ぶと、ブラックソウルを突き飛ばす。ブラックソウルを突き飛ばしたヴェリンダの左手が地に落ちる。金属質の輝きを持つ血がしぶいた。
意識を失ったはずのエリウスがノウトゥングを振るったのだ。ブラックソウルは反射的に糸を引いていたが、それも断たれている。ブラックソウルの口元に、苦笑が浮かんだ。
「あきれたものだ」
断たれた左手を再び繋いだヴェリンダが言った。
「この子どもは魔道によって操られている」
「魔道だって?しかし」
この世界はエルフの造り上げた閉鎖空間であり、なおかつ今はウロボロスの力によって現世との接触を断たれているはずだ。どのような魔道であったとしても、この世界との接触を保ち続けるのは不可能である。
「指輪だな」
ぽつりと、ヴェリンダが言った。
「指輪?」
「ああ。この子どもは不思議な指輪を持っている。私の知らないたぐいの魔道だ」
ブラックソウルは呆れ顔で笑う。
「おまえが知らないだと」
その時、エリウスが立ち上がる。その瞳には光が宿っていた。しかし、その瞳はブラックソウルたちを通り過ぎている。
「なんと愚かな」
エリウスの呟きを聞いて、ブラックソウルは思わず振り返る。そこにいたのは、鋼鉄の獣と化したバクヤであった。
漆黒の獣は咆哮する。ブラックソウルはヴェリンダを抱え飛んだ。宙に放った糸が魔操糸術により、神殿の先端に絡み付いている。その糸を使って、ブラックソウルは神殿の高窓に辿り着いた。そこから神殿の内部へと身を踊らせる。
後に残ったのはエリウスと金属の獣だった。二人は無言のまま、対峙する。




