第二十話 王の帰還
ヴェリンダは楽しげな笑みをペイルフレイムに投げかける。それは世界が色を失い昏く霞んでしまうほど強力な瘴気を伴うものであった。
「地を這いずる惨めな生き物たちよ、我が足元にひれ伏すがいい。かつてそうしていたようにな」
ペイルフレイムは、ヴェリンダの放った瘴気を春のそよ風ほどにも感じていないように、苦笑を浮かべる。凍てついた夜に輝く星を思わせる蒼い光を放つ瞳で、ペイルフレイムはヴェリンダを見つめた。
「まったく古きものよ、おまえたちの時間は止まっているのかといいたいね。世界は変わってゆくのだよ、惰眠を貪るしか能がない魔族たちの女王。いずれおまえたちの王国は人間どもに蹂躙されると思うがね。なにしろおまえは人間の僕に成り下がっているではないか。魔族が人間の家畜になり下がるのは、時間の問題だろうな」
ヴェリンダは天空を支配する月のように黄金色に輝く瞳で、ペイルフレイムを見つめている。その表情はひどく穏やかであった。
「誤解を解いておこうか、奴隷の長。私は人間の僕ではない。私は私だ。もうひとつ。我が力がおまえに及ばないとでも思っているのか。この世界で私以上に魔道の力を極めたものはもういない。それを教えてやろう」
ヴェリンダの瞳はさらに強い光を放つ。その力は周囲の空間を微かに歪ませ始める。魔道の力が発現されつつあった。ペイルフレイムはそのエルフ特有の神秘的な美しさを備えた顔に、冷ややかな笑みを浮かべる。
「古きものよ、代わり映えのしない召喚魔法を使うつもりか。やれやれだね。認めるべきだと思うな、おまえの魔道が通用しないことを。私は世界を旅し、人間の魔導師と言葉を交わしてきた。もう一度言っておくが、世界は変わっているのだよ。詫びをいれるのは今のうちだ、老いた女王。今なら赦してやってもいいよ、愚かしく恥じるべき行いを。馬鹿は自分が馬鹿だと気づかぬもの。人の助言は素直に聞きたまえ」
ヴェリンダは答えなかった。彼女の回りは、強大なハリケーンを思わせる魔道の力が荒れ狂っている。
嘲るような笑みを浮かべたエルフの王の前で、不可視の力が音なき咆哮をあげながら渦を巻いていた。その凶悪な力に満ちあふれたメエルシュトロオムの中心で、邪悪な気配が強まっていく。その中心は、地獄への扉を隠しているようだ。
ヴェリンダは肉食の獣が獲物を捕らえた時に浮かべるであろう笑みを見せる。
「全てを破壊しつくす。我が力を見よ、奴隷ども」
ゆっくりと破滅の太陽が荒野に昇るように、異界の生き物が姿を現し始める。エルフの城はその邪悪な気によって色あせていった。
それは巨大な闇色の球体である。その内部には、無数の血に飢えた獣たちが駆け回っているかのごとくごうごうと目に見えぬ風が吹いていた。
ペイルフレイムはぱんぱんと手を叩く。その口元は侮蔑の笑みで歪められていた。
「これはこれは。古き者に相応しい、お粗末な芸だ。エントロピーの怪物を私の王宮に出現させてくれるとはね。こんなレベルの低い出し物は、見るほうが恥ずかしいよ」
直径が5メートルはありそうな巨大な暗黒の球体は、触れる者を瞬時に狂気へ陥れる程強力な瘴気をふりまいている。それは魔物たちが狂乱の宴を繰り広げる呪われた夜を切り取って、この部屋へ置いたかのようだ。
エルフの王によってエントロピーの怪物と呼ばれた闇色の球体は、黒い糸のような触手をあたりに放つ。その触手に触れた植物は、瞬く間に萎れ枯れていった。その怪物は、妖精城に満ちあふれた生命力を吸い取り、飲み込んでいっているようだ。
漆黒の球体を中心に、亀裂が床に走る。巨大な暴風が妖精城を包み込んだかのごとく、城全体が軋みながら揺れていた。ヴェリンダはその言葉通りに、この城を廃墟とするつもりらしい。
ペイルフレイムは、嘲りの笑みを浮かべ右手をあげる。その手の平から金色の光が一筋、放たれた。それは生き物のように迷走する。
金色の光、それは金属の糸であった。夜明けの太陽が放つ光を帯びた鋼の糸は、螺旋を描きながら闇色の球体を覆ってゆく。
螺旋状に漆黒の怪物に巻き付いた黄金の糸は、急速に収縮していった。黒い球体は裁断され、影の固まりとなって地に墜ちる。
分断された黒い固まりは、日差しを浴びた影のように薄くなってゆき、消え去った。ヴェリンダは怪訝な顔で呟く。
「なぜ、」
「生きているからだ」
ヴェリンダの背後で、ブラックソウルが囁きかける。
「あの金属の糸は生きている。気をつけろヴェリンダ。あれはラヴレスの生み出した地上最強の生き物、ゴールドメタルギミックスライムだ。エントロピーの怪物を上回る生命力を持つ唯一の生き物だよ」
黄金の糸は、輝く蛇のように身を捩らせ、ヴェリンダへ迫る。ヴェリンダは破滅的な瘴気だけを身に纏っており、漆黒の女神のような裸身を誇らしげに晒していた。その裸身へと輝く鋼の糸が触れる。
一瞬、雷が放つ閃光のように素早い動きを、糸が見せた。次の瞬間には、ヴェリンダの左手が地に墜ちる。紅い血が床を濡らした。
「まずは、我が妻に行ったふるまいに対する礼といったところだな」
ペイルフレイムは静かにいった。なんの感情もこもらぬ声だ。
「ほう」
ヴェリンダは珍しいものを見るように、自分の左腕の傷口を見る。その真夏の太陽の輝きを宿した黄金の瞳は、むしろ楽しげだあった。
「ヴェリンダ」
ブラックソウルが苛立たしげな声をあげる。ヴェリンダが苦笑した。
「我が愛する者よ、心配するな。状況は理解しているよ」
黄金の糸はヴェリンダの目の前で、螺旋状に旋回している。再び糸は閃光のように素早い動きを見せた。黄金の糸がヴェリンダの黒い裸身を覆う。
すっとヴェリンダは右手を上げると、その手の中へ黄金の糸は吸い込まれていった。ペイルフレイムの手中からゴールドメタルギミックスライムの糸は失われ、ヴェリンダの右手の中に収まった。
ふわりと地に墜ちていた左手が宙に舞い上がり、元通り左腕に繋がる。ヴェリンダは新しいおもちゃを手にした子どものように、球状になった糸を見つめた。
「なるほど、人間は面白いものを作り出すものだな。それに」
ヴェリンダはエルフの王に酷薄な笑みをなげかける。
「この生き物は真の主が誰かが判るようだな、奴隷の王よ」
ペイルフレイムはくすくす笑った。
「今のあなたでは全く私に歯がたたないからね。ひとつくらいは武器をもたないと、戦いにならない」
「心遣いに感謝するといっておこうか」
ヴェリンダはそういうと、右手に持った黄金の球体を放りだす。宙に投げられたゴールドメタルギミックスライムは、ガラスの球が砕けるように空中で開き始めた。
黄金の鋼糸は複雑な動きを見せ、一つの形態をとろうとする。それは人の形であった。やがて、黄金の騎士が姿を現す。
そこに立ち上がったのは暁の輝く光を全身に受けているかのごとき、黄金の鎧を身につけた騎士であった。ゴールドメタルギミックスライムは、輝く金の鎧を自らの擬態の形態として選択したのだ。
黄金の戦士は、猛々しい光を放つ金色の剣を抜き放つと、ペイルフレイムにむかって歩き始める。それは決然とした、殺戮の意志をもった歩みであった。
ペイルフレイムは、優雅に笑う。
「古き者も、やればできるじゃないか。さっきの無様な怪物に比べると、ずっとエレガントだ。これで勝てれば完璧だけどね」
ペイルフレイムは笑い続ける。いつしかその笑みに嘲りの色が混じっていた。
「しかし、所詮は惰眠の中にいる者が作った戦闘機械だ。だめなものはだめだね」
エルフの王の瞳が、蒼い光を宿す。その真冬の星を思わせる輝きに答えるように、足元の影が動き始めた。
やがて影が立ち上がるかのごとく、黒い固まりが人の形態を持って出現する。立ち上がった影は、漆黒の鎧を着た騎士の姿をしていた。
黒い騎士は、黄金の騎士の前に立つ。それはあたかも黄金の鎧を身に纏った戦士が、自分自身の影に対面したかのような景色であった。
漆黒の騎士は黄金の騎士に呼応し、闇色の剣を抜く。
「ヴェリンダ、気をつけろ。あれは次元口の集合体だ」
「次元口だと?」
ブラックソウルの囁きに、ヴェリンダが答える。
「クワーヌが作った黒鋼騎士と似ているが、もう少しやっかいだ。あの黒い体そのものが、別の次元界への入り口になっている」
黄金の戦士は輝く剣を振りかざす。と同時に、立ち上がった影のような黒い騎士もその動きに合わせて剣を構える。
剣は、ほぼ同時に振り降ろされた。漆黒の剣が、黄金の鎧に触れた瞬間、黄金の騎士は姿を消す。そこに残ったのは、闇色の騎士だけであった。
漆黒の戦士は、もう一度剣を振りかざす。
「やめろ、馬鹿!」
ブラックソウルが叫ぶと同時に、剣が振り降ろされる。その瞬間、剣の切っ先が消えていた。その闇色の剣の先端は、ヴェリンダのそばに出現している。
その切っ先だけ出現した黒い剣は、黒い騎士の動きに合わせてヴェリンダの胴を薙ぎ払う。それと同時に、ヴェリンダの下半身がかき消すように消えた。
ヴェリンダの上半身が地に墜ちる。床が血がひろがり、紅い海が出現した。
「愚かな」
ブラックソウルは呆然と呟く。
「遊ばしておいてやればよかった。なぜ怒らせる」
「私が怒っているからさ」
ペイルフレイムは冷たい怒りを湛えた瞳で、ブラックソウルを見る。
下半身を失ったヴェリンダは、完全に周囲の状況を意識していない。黄金に輝く瞳は魔族の邪悪な本性を出現させていた。
ヴェリンダの体が宙に浮く。飛び散った血が浮き上がり、ヴェリンダの体へと戻っていった。それと同時に、失われた下半身も出現する。
ヴェリンダはこの世の終わりを宣告する天使のように、呟いた。
「望み通り、全てを破壊してやろう」
ヴェリンダがそう言い終えると同時に、凄さまじい轟音が妖精城を包む。妖精城が巨大な竜巻にのみこまれたように思える音だ。無数の獣たちが宙を乱舞し妖精城のまわりを飛び回っているかのごとく、ごうごうと巨大な音が渦を巻いている。
空間は安定性を失い、急速に捻れてゆく。ヴェリンダの前に立っていた漆黒の戦士は、引き裂かれるように細かい断片になってゆき、消えた。全ての魔法が効力を失い、消えてゆくのを感じる。
ペイルフレイムは何が起こったのかを理解し、蒼ざめた。
「そんなことを」
ペイルフレイムは呆然として呟いた。
「そんなことを、なぜできる」
ペイルフレイムは理解できぬものを見つめるように、茫洋とヴェリンダを眺めた。
「一度封印したウロボロスを再度解き放つということが、どういうことか判っているのか。妖精城が破壊されるだけでは無い。この地球自体に影響をおよぼすのだぞ。全ての魔法の安定性がなくなれば魔族とて滅ぶかもしれない。なぜだ、いくらおまえでも」
哄笑が響き渡る。ブラックソウルだった。終末を迎えようとしている妖精城の中で、あいかわらず野に棲む獣の笑いを浮かべている。
「おれたちには世界とその運命はそれほど重要なものでは無いのさ。行こう、ヴェリンダ、ティエンロウ。ここにもう用は無い」
ブラックソウルは立ち去り、その後ろにヴェリンダとティエンロウが続く。ペイルフレイムは立ち尽くし、何もすることはできなかった。




