第十六話 闇の左手
鋭い金色の爪のような月が夜空に輝いている。バクヤとエリウスは、深い闇に包まれた森の中を歩いていた。
エリウスは昏い夜の生き物たちが蠢く密度の濃い闇の中を、明るい昼間の太陽の下であるかのように歩いてゆく。バクヤはついて行くのでやっとだ。
「本当にこの道であってるんか」
バクヤの問いに、エリウスは振り向きもせずに答える。
「こっちだよ」
そういわれても、バクヤにはどっちなのかよく判らない。おそらくユンクに妖精城への道を教わっても、彼女一人では到底辿り着くことはできなかっただろう。エリウスはまるで森に棲む獣のように道なき道をゆく。
いつのまにか、あたりに霧がたちこめ始めた。霧は蒼白く光を放っているようだ。
その生き物を思わせる霧が、静かに森を覆う。
エリウスは全く気にしている様子はないが、バクヤはその霧に魔道の力を感じる。それは異界への扉が開かれつつある感覚だった。
(どうやら間違ってなかったようやな)
バクヤは改めてエリウスの能力に感心する。本能だけで歩いているような少年だが、めざす所へは間違いなく辿り着いたようだ。いつのまにかあたりは白い闇につつまれた。
バクヤはまるきり方向感覚を失ってしまっている。ただ、先を歩いている灰色のマントを纏うエリウスだけが進むべき道を示していた。バクヤはもう自分がどちらに向かって歩いているのか、どれほどの距離を歩いているのか判らなくなっている。
それはまるで白い広大な海の中を漂っているような感覚だった。静かで淀んだ空気が、白い海流のようにゆっくりと流れてゆく。
やがて潮が引いてゆくように、ゆっくりと蒼白く輝く霧が晴れていった。空のもっとも高い部分が銀色に輝きながら現れてゆく。黄金色に輝く三日月が統べる夜空は黒曜石のような闇と女神の胸飾りのように銀色に輝く雲が混然一体となっていた。
バクヤは目の前に開けていく異形の風景に、思わずため息をつく。霧は首の下くらいまで晴れてきている。その蒼白く輝く海原を思わせる霧の上に、銀の木々が突き出していた。銀の木は鉱物に類似した幾何学的形態を持っており、異国のトーテムポールを思わせる。
エリウスは、何も感じないように平然とその銀の森を歩いてゆく。霧の晴れてゆく速度はどんどん速くなり、銀色の森の姿はすっかりバクヤたちの目の前に現された。バクヤは駆け足でエリウスを追うと話しかける。
「これが、エルフの国なんか?」
「うーん、そうみたいだね」
霧は完全に晴れ、足元の輝く銀色の草原まで見えるようになった。それは輝く銀と黒の世界である。それは生命の気配を感じさせない人工的な銀細工の世界にみえるが、同時に自然のもつ無形の意志のようなものを内に秘めた世界でもあった。
渦巻くように銀色の雲が流れてゆく漆黒の空は限りなく高く、煌めく銀色の草原はどこまでも広がっているようだ。その果てしないように見える銀の世界を、特に感慨もないようにエリウスは歩いてゆく。
「もうすぐだね」
唐突なエリウスの言葉に、バクヤは思わず聞きかえす。
「え、なにが」
「妖精城だよ」
「なんで、判るんや」
「んー、なんとなく」
エリウスがそう言い終えると同時に、まるで夢の中のできごとのように突然目の前の地面が傾斜し始める。それは緩やかな丘陵であった。バクヤとエリウスはそのいきなり現れたように思える丘を登ってゆく。
丘の頂上付近は案外急な傾斜であった。その丘を先に登りきったエリウスは、丘の向こう側を指し示す。
「ほら、妖精城だよ」
バクヤは丘を駆けのぼり、エリウスと並んだ。丘の向こう側には湿地帯が広がっている。まるで青空をはめ込んだような水を湛えた沼地の中心に、透明のドームが聳えていた。そのドームを中心にして、放射状に木の根のようなものが沼地を這い回っている。そこは銀色の草原と違い、生命の気配を感じさせた。
突然、エリウスが腰につけた剣に手をかける。黒く塗られた木の鞘に収められているその剣は、ノウトゥングという名らしい。
バクヤはエリウスの視線を追った。その先に幻覚かと思えるような唐突さで、白銀の防具を身につけ槍を手にした白衣の戦士が三人現れる。尖った耳や華奢に見えるがしなやかな身体を持った戦士たちは、エルフの衛士のようであった。
「心配するな人間よ、おまえたちに害意がなければ我々も攻撃しない」
エルフの言葉に、エリウスは剣の柄から手をはなす。
「うん、そうだね」
「なあ、あんたらエルフなんか」
バクヤの問いにエルフは笑みをみせる。
「問いを発するならまず、名乗ってはどうか。ここは我々の領土でありおまえたちは招かれざる客であることを忘れるな」
エリウスは天使を思わせる美貌に笑みを浮かべて言った。
「僕はエリウス、この娘はバクヤだよ。僕たちバクヤの腕をもらいに来たんだ」
エルフの戦士たちは戸惑ったように互いに顔を見合わせる。やがて最初に彼らへ語りかけたエルフが口を開いた。
「では三千年以上前に我々と協定を結んだ王の末裔だというのか、おまえは」
エリウスは言葉を返すわけでもなく、黙ってほほ笑み続けている。
「我々についてこい、エリウス。おまえたちをどう扱うかは、シルバーシャドウ様にまかせることにする」
そう言い終えると、エルフの戦士は湿地帯にむかって歩きだす。体はほとんど動いているように見えないが、宙を飛ぶようなその歩みについてゆくエリウスとバクヤは小走りになっていった。
エルフたちは湿地帯の上を這う木の根の道を軽い足どりで歩む。その自然が造り上げた緩やかなカーブを描く橋を、エリウスたちも渡っていった。
湿地帯は、幻想の太古が甦ったような場所である。地上では決して見ることのできないような獣たちが、半ば微睡んでいるかのような瞳でエリウスたちを見送っていた。
やがて巨大な半透明のドームが目前に迫ってくる。その幻想的な光景に、バクヤは眩暈を感じた。それは巨大な生き物のような塔であり、夢の中にのみありえるような神秘的風景である。
エルフたちに続いて半透明のドームの中に入ったバクヤは、そのあまりに鮮やかな色彩に埋め尽くされた景色にため息をついた。麻薬の幻覚に現れてくるような実物以上にリアリティを持つ花々。そんな眩惑的な質感を纏った花々の咲き乱れる空間に、バクヤは酩酊したような感覚の混乱を感じる。
ここは、人間のくる場所では無い。バクヤはそう思った。ここはあまりに美しく、あまりに幻想的である。このままここに居続ければ、まちがいなく狂気が自分の心を犯すだろう。そんな戦慄がバクヤを襲う。
「何してるの、行くよ」
バクヤはエリウスに声をかけられ、我に帰る。その最も古い王国の美しい王子は、すっかりまわりの景色に溶けこんでいた。極彩色の雨のように花弁が降り注ぐその場所で、白衣のエルフと並んで立つ黒髪の少年は神々の夢に現れるかのごとき美貌に笑みを浮かべ、自分の庭に立っているのと同じくらい平然としている。
この甘美な世界に立つエリウスの姿は、もう何年も前からここに暮らしていたといわれても疑問を感じないほど、違和感が無い。むしろここが、この少年が本来属すべき世界なのだろう。
バクヤは深いため息をつくと纏つくような眩惑を振り払い、エルフとエリウスに向かって歩み出す。彼女にはなすべきことがあった。ここで立ち止まっている暇は無い。
エメラルドの塔を螺旋上に登ってゆく市街は、バクヤには城の内部というよりは庭園に感じられた。咲き乱れる花々、歌う色鮮やかな鳥たち、銀の装飾品を身につけた美しいエルフたちの行き交う街は苦痛や汚れを知らぬ快楽の夢の風景を思わせる。その夢の中だけにありうるはずの美しい庭園を、バクヤは通り抜けていった。
バクヤとエリウスの行きついたのは、エメラルドの塔の頂点にある壮麗な空中庭園である。空に浮かぶ巨大な花園は、その乱舞する色彩と甘い香りでバクヤの心をかき乱した。復讐の想念にとりつかれた自分がここにいることが、酷く場違いな気がする。
エリウスはあいかわらず夢見心地の笑顔をみせ、特に感慨もないふうにその聳える花園を見つめていた。二人はエルフに導かれ、その空中庭園に踏み込んでゆく。
二人の案内されたのは、色とりどりの花々と物言わずに佇む彫像に囲まれたテラスである。明るく優しい光に満ちたそのテラスには、一人の女性のエルフがいた。
軽くエリウスに会釈するとそのエルフは名乗る。
「始めまして、かわいい王子とお嬢さん。私はシルバーシャドウ。ここの女王です」
バクヤはどう名乗るべきか躊躇ってしまったが、エリウスはごく自然に答える。
「僕はエリウスだよ。この娘はバクヤ。お願いがあって僕らは来たんだ」
シルバーシャドウは年を経た古き者にふさわしい叡知につつまれた笑みを、月光の精のように美しい顔に浮かべる。バクヤは改めて自分の目の前にいる相手が人間でないことを認識した。
「お願いですって。なんでしょう、王子」
「腕をもらいたいんだ」
「腕ですって?」
バクヤは言葉を継ぎ足す。
「ラヴレスの作ったメタルギミックスライムの義肢や。ここにあると聞いた」
シルバーシャドウは笑みを浮かべたまま、バクヤを見る。
「確かに私たちが人間から預かっています。あれをどうなさるつもり?」
「おれの腕にするんや」
シルバーシャドウは表情を変えない。その瞳の奥にある真意がどのようなものであるか、バクヤには見当もつかなった。
「あれはあなたたち人間からの預かりもの。それを人間のあなたが使われるというのであれば、私たちがとやかく言う話しではない。差し上げましょう。ただひとつ忠告しておきます」
バクヤは笑みをみせる。それは獣の笑みだった。
「いいたいことは判る。もしも、おれがその腕を制御できなかったらおれを殺すというのやろ」
シルバーシャドウは頷く。
「あなたの心の中には血まみれの獣が棲んでいます。おそらくあなたにはあの腕を使いこなせないでしょう。あなたは魔道により作られた闇の生き物となります。その時には私たちはあなたを消去します」
バクヤは怪訝な顔で聞く。
「消去?」
「この次元界から消えてもらうということです」
シルバーシャドウは立ち上がった。おそらくエルフにとって百年にも満たない寿命の人間は、不完全な存在に見えるのだろうとバクヤは想像する。
エルフの女王はバクヤとの関わりを最低限のものにとどめたいようだ。シルバーシャドウの眼差しはエリウスに向けられている。闇の産んだ天使のような黒髪を持つ美貌の王子。その美しさはエルフさえ魅了しているようだ。
シルバーシャドウはバクヤたちを誘う。
「では、ラヴレス殿が作った腕のあるところまで案内しましょう。それと王子、あなたに会わせたいものたちもいます」
エリウスは相変わらず心がどこかを漂っているかのような、ぼんやりした調子で問いかける。
「へえ、誰なの?」
「来ていただければ判ります」
エルフの女王は、重さによって地上に縛られているとはとても思えない歩調で空中庭園の中を進む。配置されている人工物は最小限のものにとどめられているが、テラスを繋ぐ回廊や階段は極彩色の炎が燃え立つような花々に彩られており、人間の王が築いたいかなる宮殿よりも豪華なものに思えた。
気候も完全にエルフの魔法によって制御されているらしく、空気はとても心地好くバクヤたちを包んでいる。ここには雨風をしのぐ為の壁も天井も不要であり、あらゆる生き物が何ものにも縛られずその生を謳歌できる場所になっているようだ。
シルバーシャドウに連れられてきたその場所は、背の高い木に囲まれた円形の広場である。木の枝や生い茂る葉に覆われている為、薄暗く緑色の光がさすそこは神秘的な雰囲気につつまれていた。どことなく祭儀場を思わせる。
その広場の中央に丸いテーブルが置かれていた。そのテーブルにある円筒形のガラスケースをエルフの女王は指し示す。
「ごらんなさい、あそこにあなたの望むものがあります」
バクヤは思わず駆け寄る。そのガラスケースの中には漆黒の腕が立てられていた。
テーブルから生えている実体化した影のようなその腕は間違いなく金属の質感を持っており、バクヤはそれがラヴレスの作った義肢であると確信する。
「人間たちをこの城へ招いたのか」
振り向いたバクヤは新たにこの広場へ入ってきたものたちを見て、息をのむ。言葉を発したものは、容姿は人間に似ていた。むしろ人間以上に完璧な美貌を備えているその女性は、巨人である。身の丈はバクヤの倍以上はあるだろうか。その純白のマントに身を包んだ巨人は、傲岸な笑みをその女神のごとき美貌に浮かべ見下ろしていた。
その巨人の傍らに佇むのは、漆黒のマントに身を包んだ男である。その黒衣の男は仮面をつけているかのように無表情であり、エルフたちと同じような古きもの独特の雰囲気を持っていた。
黒衣の男は歩みよると、シルバーシャドウに問いかける。
「この者たちは?」
「最も古き人間の王国の王子、エリウス殿とバクヤ殿ですわ」
黒衣の男は跪き、礼をとった。
「始めまして王子。我が名はロキ。王国の守護者とも呼ばれます」
エリウスは茫洋とした眼差しでロキをみる。
「君は人間じゃないね」
ロキは表情を変えぬまま立ち上がり、改めてエリウスを見直す。
「あなたのいう通りだ。王子」
「僕はエリウスだよ」
ロキが人間であれば苦笑を浮かべたのだろうが、ロキは表情を変えずにただ頷く。
ロキの背後で巨人が笑い声をたてる。
「楽しい小僧だな、おまえは」
「あなたは、誰なの」
「私はフレヤ。黄金の林檎の探究者といっておこうか」
「ふーん」
エリウスは小首をかしげる。
「でも、それはあなたの中にあるんじゃないかな」
フレヤは驚いたように、エリウスを見る。エリウスは夢見る少女のようにあどけない笑みで、その真冬の空のごとく青い巨人の眼差しに答えた。
「何を相変わらずぼけ倒してるんや、エリウス」
苛立った声でバクヤが言った。
「ぼけ倒すって」
「いや、いい。とりあえず今はそれを、おいとこう。女王さん、この腕はどうやって取りだすんや」
一見、ガラスケースに見える腕を覆ったその透明の物体は、いくら動かしても取り外すことができない。しかも、まるで金剛石でてきているような硬さであり、到底割ることはできなさそうだ。
「その腕はこの次元界には存在しません。私たちですらその腕の発する妖気に無意識のうちに影響されてしまうので、位相をずらせています」
「あー、よく判らないけど、とりあえずここから出して欲しいのやけど」
その透明な覆いは、それこそ魔法のように消失した。漆黒の左腕は、鮮やかなリアリティを発し始める。それと同時に、真冬の凍てついた空気を思わせる強力な妖気が蠢いた。バクヤは、狂暴な笑みを浮かべる。
「へへ、ようやく会えたな、おれの左手」
闇色の腕は、バクヤの呼びかけに答えるように、音にならない声で低く歌い出す。
それはあたかも狂った獣があげる、欲望の呻きのようだ。
バクヤはその腕を右手で掴む。金属の刃で脳髄の中を掻き混ぜられるような強い魔力が、バクヤを襲った。バクヤはたまりかねたように、哄笑する。
「これこそおれの望むものや」
バクヤは、左手を傷跡に合わせる。バクヤは脳裏に呪術文様を想起した。その封じ込めの力をよびさます文様は、いつも黒砂蟲に対して力を発揮してきたように今回も力を発揮する。
それは、荒れ狂う馬を乗りこなすのに、似ていた。黒砂蟲を自在に操れる力を身につけたバクヤにとって、慣れた作業といってもいい。
バクヤはむしろ不気味さを感じた。黒砂蟲にあるのは、飢えの感情のみである。しかし、このメタルギミックスライムは精神を感じさせた。その精神は、バクヤに似た形へ自分を変えていっている。バクヤは、自分の中にもうひとりの自分が出現したように思う。
メタルギミックスライムの腕はついにバクヤの支配下へ入った。しかし、どちらかといえば、バクヤの精神の影に忍び込んで様子を伺っている感じである。
バクヤは、その左手を動かしてみた。闇色の腕はもう何年も前から彼女のものであったかのように、滑らかに動く。バクヤは満足げに笑った。
「どうや、おれにかかればこんなもんや」
シルバーシャドウは醒めた瞳で、バクヤを見つめている。
「これが始まりに過ぎないことは、あなた自信が一番よく判っているはず」
エルフの女王が言った言葉に、バクヤは苦笑する。
「まあな。ま、どうってことあらへん」




