第五話 月下の水晶剣
それから数日後、ユンクは所用で一週間の旅に出た。ユンクの下男はまだ見つかっていない為、ユンクの小屋の家事はエリウスが一通りこなしている。エリウスは、ユンクの飼っている家畜の世話や、ユンクの持つ畑の手入れをしながら師の帰りを待った。
明日、ユンクが帰るという日の昼下がり、一人の男が小屋を訪れる。その男は、ケインと名乗った。目つきが鋭く、荒削りの顔立ちをした男である。凛とした緊張感を、周りの空気に纏った男であった。
「そうか、先生は明日帰るのか」
ケインはそういうと、闇に咲く花のような美貌を持った少年を、感心して見つめた。昏い麻薬の夢の中にあらわれる、幻覚の妖花を思わせる美しさだ。
(この子供がエリウス王子か)
伝説の王の名を持つその少年は、茫洋と霞のかかったような瞳でこちらを見ており、なんとも捉え所がない。まるで美しさゆえ神の寵愛をうけ、すべての苦痛から解き放たれたような呑気さに見える。
「じゃあ、ここに泊めてもらって待たせてもらおうか」
エリウスは頷くと、部屋へケインを招きいれる。ケインのほうが心配になる程、警戒心がない少年だった。
客用の部屋へケインを案内すると、エリウスは出ていこうとする。それを、ケインは呼び止めた。
「なあ、王子」
エリウスは、首を振る。
「僕は、エリウスです」
ケインは苦笑する。
「じゃあ、エリウス。少し、話しをしないか」
エリウスは、困った顔をする。
「朝しかけておいた、罠の様子を見に行きたいんだけど。兎が掛かっているかもしれないし。罠にかかっていれば、今晩ごちそうできますよ」
ケインは中原で最も古い王国の王子に、晩御飯の支度をさせていいものかと一瞬考えた。結局、とやかくこだわらない事にする。
「判った、エリウス。それじゃあ、一緒に罠を見に行っていいかな」
エリウスが頷く。二人は一緒に罠を見にいくことと、なった。
◆ ◆
エリウスは、丘を下ったところにある森の中へ入って行く。エリウスは、道らしいものが無い森の茂みの中を、驚くような速さで進んで行った。ケインは、もしも一人とり残されたら、帰れる自身はないなと思う。
(一体この子は、何を目印にしているのやら)
ケインは人がとうてい通らぬような森の奥へ入っていくエリウスを見て、そう思った。ふと、ケインはいやな気配を、感じる。人の入らぬ森の奥には、古い魔族の遺跡などに、妖魔が棲家を作っていることがたまにあった。
そうした場所へ踏み込むと、魔法的生命体である妖魔に取り殺される事がある。
どうも、この気配はそんな感じだ。悪夢の中で出会う夢魔たちの、非現実的な恐怖と背徳の薫り。
突然、エリウスが立ち止まる。
「今日は、濃いな」
エリウスの呟きを聞いて、ケインはあきれた。
(こんな危なそうなところを、よく通っているのかよ)
しばらくして、薄く霧が出てくる。魔法によって生み出されたような、邪悪な意志を感じる霧だった。霧は異様な気配を内に秘め、景色から色を奪っていく。ケインは、手首につけた水晶剣を鞘から出し、手の中へ降ろした。
(剣が役にたつか、判らんが)
気配が、どんどん濃くなっていく。時空間が横滑りし、まるで夢の中のように非現実的な世界へと、足を踏み入れてしまった気分になる。無形で不可視の妖魔たちが、全身に絡みついているようだ。
やがて、女の子の笑い声が聞こえてきた。遠くで鈴の音が鳴るように、きらきらとした笑い声がする。
ケインは覚悟した。霧の奥で光が見える。その周囲に独特の異様な気配が漂う。
妖魔らしい。いわゆるダークフェアリーと呼ばれる種族だ。
光は、蒼く輝く軌跡を描きながら、高速で移動している。光の線が、一瞬現れ消えていく。あたかも白い宇宙を駆け抜ける、蒼ざめた流星のように。
ダークフェアリーは、体長十センチ程の虫である。ただ、その体は人間の少女に驚く程似ており、少女の笑い声のような音で鳴く。その全身はたいてい蒼く、発光している。
ダークフェアリーは魔法的生命であり、人を魔法的空間に迷い込ませ、歩き回らせて弱ったところで血を吸う。ただ、剣で斬ることにより、殺せた。もっとも、稲妻が走るようなそのスピードに、剣が追いつけばの話であるが。
(やるしかないか)
ケインは、高速世界の感覚を呼び覚まそうとする。ホロン言語によってもたらされる超速の世界。その世界に身を置いた時にこそ、ダークフェアリーを斬れるだろう。ただ、ユンクの一番弟子といわれるケインにしても、一か八かの賭であった。
ケインの周りの空気が、突然液体に変わったように重くなる。ケインの中で世界が変貌しつつあるその瞬間、エリウスの体から一瞬光が疾った。
(え?)
ケインは、我が目を疑った。エリウスの体から発せられ、白い霧に包まれた森の空気を、閃光となって貫いたそれは、まぎれもなく水晶剣である。白い霧を裂いて飛んだ、その紙より薄い水晶の刃は途轍もなく速かった。もしもケイン自身が超速の世界へ移行しつつある時でなければ、とてもその光は見えなかっただろう。
高速で移動していた蒼い光は突然途切れ、笑い声も消えた。エリウスの発した水晶剣が、ダークフェアリーを斬ったらしい。
霧が晴れていき、邪悪な気配が消えた。水槽から水が流れ出していくように、あたりから白い霧が消え、木々に色が戻ってくる。エリウスが何事もなかったように、歩きだす。散歩の途中でちょっと犬に吠えかけられた程度にしか、感じていないようだ。
(まいったな)
ケインは心の中で呟いた。エリウスもユンクの弟子であるから、水晶剣を使うのも不思議は無い。ただ、イリスに聞いたかぎりでは、弟子入りして、半月ほどのはずである。
(こいつの剣は、おれより速いかもしれねぇ)
もしも、そうであれば、怪物といってもいい。まさに、伝説の王の名に相応しい少年である。
(ブラックソウルを超えるかもしれないな)
ケインは、この少年を確かめて見たくなった。
◆ ◆
練習場で、ケインとエリウスは対面して立った。その右腕には、赤い布を巻いている。二人の間の距離は、5メートルといったところか。
ケインは、エリウスに説明する。
「いいか、水晶剣で、右腕につけた布を斬るんだ。速いほうが勝ちだ。簡単だろ。判ったかい」
少年は、夢見るような黒曜石の瞳でケインを見つめ、頷く。すでに陽は落ち、煌々と輝く満月が、練習場に黄金の光を落としている。その月の輝きの下で、最も偉大な王の名を持つ少年は、伝説の詩歌から抜け出したような美貌にあどけない笑みを浮かべ、佇んでいた。月は少年の黒く艶やかな髪を愛でるように、光で愛撫する。
ケインは、白い布を取り出した。
「この布が床に落ちた時から、始める」
ふわっ、と白い布が月の光を身に集め、宙に舞う。月光の中で真白き妖精が舞うように、布はゆっくりと落ちていく。ケインの意識の中で、その月の光で輝く布の動きが止まった。
世界がガラスでできた水で満たされたように、清冽で透明な空気に変わる。月光の粒子が、無数の砂金が降り注ぐように、ゆっくりと舞い落ちていく。影が蒼ざめた光を帯びたように、薄く輝いていた。
白い鳥がゆっくり舞い降りるように、布は床へ落ちる。ケインは海底にいるように、重たい左手を動かす。透明な光を凝固させたような水晶剣が、液体化したような空気を裂いて走る。
実際には、肉眼で捉えられぬ程の高速で移動している剣であるが、ケインの意識の中では這うような動きであった。そして、ケインはエリウスも同様に水晶の欠片を放ったのを見る。
エリウスの放った水晶剣は、月の光を跳ね散らし、凍った風のようにケインの右腕を目指して疾った。その速度はケインの剣より多少、速そうだ。
ケインは指を動かし、水晶剣の角度を変える。透明な刃は魚が身を翻すように、重い液状の空気の中で方向を変えた。
ケインの水晶剣は、エリウスの剣に繋がる糸を目指す。糸さえ斬ってしまえば、水晶の破片はコントロールを失い、彼方へと飛んでいく。
ケインの刃がエリウスの糸に触れようとした瞬間、エリウスの水晶剣も軌道を変えた。二振りの剣は、風の精霊が乱舞するように、煌めく月光の滴を跳ね散らしながら、練習場の中を飛び回る。
ケインは次第にエリウスを追いつめていく手応えを、感じていた。速度では多少落ちるかもしれないが、剣の扱いについてはケインのほうが上である。
ケインが糸を斬れると思った瞬間、エリウスの水晶剣はケインの想像を遥かに超える速さで身を翻す。水晶片は煌めく風となり、ケインの右腕へ向かった。
避けられる速さでは、無い。ケインの右腕につけた赤い布が血飛沫のように、ふわっと宙を舞う。ケインの意識は、通常の速度に戻っていく。
ケインはエリウスを見て、愕然とした。その瞳には、金色の光が宿っている。それは、断じて月の光を受けて輝いているのでは無く、魔族の魔法の力を秘めた輝きであった。
突然、その煌めきは消え、エリウスは元の平凡な少年に戻る。黒い瞳の中には、何もない。ケインは、白昼夢を見た気分になる。
(何かの間違いだったか)
心の中で呟くケインに向かって、エリウスは微笑みかける。
「僕の勝ちなの?」
ケインは放心したように、頷いた。




