第四話 伝説の剣士
イリスは、エリウスをつれ、師ユンクのもとを訪れた。ユンクの家は、小高い丘陵の頂上にある、雑木林に囲まれた小さな小屋である。そこから、トラウスの象徴ともいえる、大樹ユグドラシルが見えた。その木の頂きは、蒼く広がる空の高みの彼方へと溶け込んでいるように見えるほど、高い。そしてその枝の広がりも、それ自体が広大で鬱蒼とした森林となり、輝くばかりに蒼い春の空に暗緑の雲のように浮かび上がっていた。あたかも、天空に浮かぶ巨大な飛空島のようである。
円弧を描いて王都を囲む山稜を、超える高さで聳える巨大な大樹ユグドラシル。
それは、王国が建国される時に、黄金の林檎を祀った地の周りに、黄金の林檎を封じる結界を示す意味で植えた木が、結界から漏れる力を受け巨大化したものである。
山々の稜線を超え、空を支える巨人のように聳える木を見たものは、畏怖の念を持たずにはおれない。偶像を禁じるヌース教団は、ヌース神の神像も、聖画も持たないが、空を目指す聖樹はまさに教団の象徴であった。
小屋は蔦に覆われ、庭には花々が植えられている。その小屋の薄暗い部屋に入ったとたん、目を引くのは積み上げられた大量の本であった。王国が繁栄していた時期であればともかく、東西に王朝が分裂し戦乱の時代となった今、本は高価なものである。それが、無造作に置かれているのは、宝の山を放置しているのに等しい。
薄暗い部屋の中でそれらの本は、かつての王国の繁栄の時代を華麗なる夢として見ながら、そっと微睡んでいるようだ。
又、部屋の中には色々な魔法に関係しているのであろうと思われる、異国の彫像や図版が飾られている。諸国を放浪していた時代に蒐集したものであろうが、イリスの目から見てどれほど貴重なものか見当もつかない。それらの彫像や図版がもつ象徴的な神秘性が、この部屋を一つの異世界の小宇宙に変化させているかのようだ。
エリウスは、珍しげに部屋の中を見回している。ユンクは、陶器のティーセットを持って部屋へ入ってきた。白磁のシンプルなデザインの茶器を、木のテーブルに置く。この部屋の家具や小物は皆古く、様々な時代の臭いと使い込まれた物特有の落ち着きを持っており、あたかも持ち主の体の一部であるようだ。
灰色の長衣を纏った、長身の痩せた老人、それがユンクである。ユンクは豊かな髭を蓄えた顔に優しげな笑みを浮かべ、骨のように白い椀に茶をそそいだ。
「下男のジョーイに暇をやってな。儂のもてなしでは行き届かんが」
師に茶をつがせたイリスは恐縮して、詫びる。ユンクは、笑って楽しげに茶の支度を終えた。濃厚な茶の薫りが、優しく部屋を満たしていく。
ユンクは目つきこそ鋭いが、その佇まいは学者か魔道士に見える。ユンクは、興味深そうにエリウスを見た。
「それで、その王子を儂が預かるという事だね」
イリスは頷く。エリウスはにこにこと、ユンクを見ていた。ユンクと王テリオスは、親友と言われている。実際のところはともかくとして、ユンクが王の剣術指南役である事は間違いない。
その為、テリオスの息子たちは皆、ユンクに剣の指導を受けるのが習わしとなっている。テリオスの息子たちが、どの程度ユンクの技を使えるのかは、判らない。
ただ、ユンクに技を教わったいう事実が、ある種のブランドとして受け入れられるのも事実であった。
ユンクは穏やかに笑いながら、エリウスを見る。
「エリウスという名の王子を、儂が教えられるとも思えんが、まぁ、預かってみよう。王子よ、暫く共
に暮らすことになる。宜しくな」
エリウスという名は王国を建国した王の名であり、かってにつけられる名ではない。ヌース教団の神官の神託があった時に、その名が与えられる。
その最も偉大な王の名を持つ少年は、呑気な顔で微笑むばかりだ。イリスは、あきれ顔でため息をつく。神聖騎士としてエリウスの守り役となったものの、これほど利発さに縁の無い子供も珍しいと思っていた。たいていは、日向で微睡む猫のようにぼんやりとしており、声をかけても夢から呼び戻された時のような受け答えしかできない。オウランのいった通り、山羊の番をさせておくのが正解だったようだ。
「それでは、王子殿、さっそくだが練習に入ろうか」
ユンクは立ち上がる。イリスに促されたエリウスは、ユンクの後に続き部屋を出た。
そこは、しん、として広い部屋である。磨き上げられた木の床が、天窓から差し込む春の日差しを受け輝いていた。何も置かれていない、ただ広いだけのその部屋は、どうやら練習場らしい。
ユンクは、壁にかかっている木剣をとり茫洋と突っ立っているエリウスに、手渡した。エリウスは黒い宝石のような目で、木剣を見る。
「振ってごらん」
ユンクの言葉を受け、エリウスは無造作に剣を振る。ユンクはエリウスの手足をとり、素振りのしかたを教えた。
「まずは、筋肉をつけることから始めよう。左手と右手、それぞれ千回ずつ振りなさい」
エリウスは頷くと、せっせと振り始める。ユンクは目でイリスを促し、練習場を共に出た。
丘を下る坂道を、ユンクとイリスが共に歩む。春の風が豊満な女性の抱擁のように、柔らかく、暖かく、二人を包み込む。
「十五だったかね、王子は」
ユンクは、楽しげに言った。
「ええ、でも、頭の中は六つでしょうね」
イリスの言葉にユンクは、喉の奥で笑った。
「すみません、先生。悪い子ではないんですが」
「おまえが謝ることでは無い、イリス。儂は結構、興味を持っている。何しろエリウスという名を賜っておるのだからな。楽しみだよ」
イリスはため息をつく。
「それにしてもなぜ、オウラン様は王都へ戻られなかったのでしょう。あの子を一人にして不安でしょうに」
「正しい判断だよ。トラディショナル家は深い怨念を持っている。オウランが王妃として中央へ戻れば間違いなく、権力闘争の駒として、利用しようとするだろう。スターデイルに留まったのは英断といってもいい。
エリウスがあの様子では、トラディショナル家も扱いかねるだろう。ただ、オウランが中央にいれば、そうもいくまい」
イリスは肩を竦める。頭では判っても、気持ちで理解できない気がした。
「それよりも、オーラの様子はどうだね」
分裂したもう一方の王朝、クリスタル家のアリエス・クリスタル・アルクスル王を擁立した東の大国オーラは戦乱の中原を平定する為、西へと軍を進めている。
「もう、中原の三分の二はオーラに制圧されました。残りもオーラに逆らう力は、残っていません。時間の問題ですね。トラウスが落ちるのは」
「ブラックソウルも、いよいよ中原を制覇するか。しかし、それで奴が満たされるとも思えんがな」
イリスは寂しく笑う。師にとって気になるのは、王国の行く末ではなく、破門したかつての弟子のことのようだ。かつて一番弟子とよばれたブラックソウルとも、オーラの参謀となった今では、二度会うことは叶わぬであろうが。
「ああ、それと先生、ケイン・アルフィスが帰ってきます。ケインならもっと詳しい話をしてくれますよ。オーラの首都、クリスタル市にもいったそうですし」
「ほう、ケインがね」
今の一番弟子の名を聞き、ユンクは目を眩しげに細めた。
◆ ◆
イリスを送り終え、練習場に戻ったユンクは、エリウスを見てさすがに唸り声をあげた。十五の少年は、木剣を放り出し、春の女神の愛撫のような優しい日差しを受け、すやすやと寝息を立てている。
ユンクは木の床に大の字になったエリウスを、上から見下ろす。少年は口づけを待って微睡む王女のように、美しい。
ユンクの気配を感じてはっと目ざめたエリウスは、抱きしめたくなるくらい愛くるしい笑みを浮かべ、起きあがった。
「お帰りなさい、先生」
天使を描いた聖画から抜け出したようなエリウスの美しい瞳に見つめられ、ユンクは言葉につまった。
「その、素振りはどうしたのかな、王子。終わったとも思えんが」
「はい」
満面に笑みを浮かべて、エリウスが応える。
「途中で何回振ったのか判らなくなって、思い出そうと考えているうちに、寝てしまいました」
ユンクは、さすがに笑うしかなかった。ははは、と声がもれる。それに、エリウスが応えて笑う。ユンクは突然、馬鹿馬鹿しくなった。
「王子、剣の練習は、終わりにしよう。来なさい」
夢見心地の笑みを浮かべた少年は、ユンクの後に続く。
ユンクの部屋へ来た少年は、ユンクの前に腰を降ろす。その、汚れない黒曜石の瞳を持つ少年の前に、ユンクは一片の水晶のナイフを出した。
エリウスは三日月の形をした水晶片を、手に取る。蜻蛉の羽のように薄い刃は、触れただけで手を裂きそうだ。水晶は澄んだ湖の氷のように透明であり、真冬の月のように冷たい光を放つ。
一方の端に穴があり、蜘蛛の糸のように細い絹糸が通されていた。エリウスは月の光を手中に持ったようにそのナイフを持ち、黒い瞳で見つめる。
ユンクは、水晶に魅入られた少年に語りかけた。
「それが、水晶剣だ。儂の剣術はその剣を操る剣術なんだよ、王子。おまえの兄たちにも、その剣を与えてきた。儂のもとで練習を積み、儂の術を身につけた証しとしてな。
ただ、王子、おまえには今この場でその剣を与えよう」
エリウスは、嬉しそうにユンクを見る。
「もらっていいの?」
「ああ、おまえに、教えることはなさそうだからな。おまえを半年の間預かることになっている。王子、その間好きにすごせ。儂も好きにさせてもらう。ああ、この本も渡しておこう」
ユンクは一冊の革張りの本を、積み上げた山の中から見つけてきた。エリウスは、本を開いて見る。
そこにあるのは、一見無意味に並んだ様々な色の点であった。無数の彩色されたガラスの破片を、紙に撒き散らしたようだ。それをしばらく見つめているうちに、遠くのものを見つめているうちにだんだん焦点があってくる時のように、次第に画像が見えてくる。
「へぇ」
エリウスが思わず感嘆の声を漏らす。そこには、様々な曲線をからみつかせた螺旋体が立体的に浮かびあがっていた。無数の色彩が流れるように、その螺旋体を彩っている。それは、手を触れれば、さわれそうなほど、リアリティを持った虚像だった。そしてその複雑で幾何学的な螺旋体は、見つめれば見つめる程、緻密でリアルになっていく。エリウスの黒い瞳の凝視の下で、色は鮮やかさをまし、形は鋭さをましていった。
「それはな、儂がナーガルージュの元で修行していた時に見つけ出した、ホロンというアシュバータという国の言語だ。その言語で思考する事によって、別の時間流の中へと入れる」
「別の時間流?」
「そうだ。通常の言語では脳内の機能が十分に活用されない。ホロンは脳の機能を最大限引き出す為の、言語だ。図形のように見えるホロン言語一文字が、一冊の本に匹敵する程の情報を持っている。しかもその言語は、通常の言語のように意味されるものと分離していない」
エリウスは、不思議そうにユンクを見ている。ユンクは、苦笑した。
「王子、おまえにこんな事を教えてもしようがないのかも、しれん。ただ、おまえの兄たちと別扱いをするのもどうかと思うのでな。
たとえば、犬ということばは、『いぬ』という音が犬を指すという事を知らねば、ただの音と変わらない。そのことばに意味されるものを教えられて初めて、『いぬ』という音に意味が与えられる。
ホロンは脳に直接作用し、その映像を作り出す。例えば、犬を意味する図形に意識を集中していると、次第にその図形が細密になっていき、最後には犬の形をとる。
図形はそれが指す対象を要約したものであるが、対象そのもののデータを内包しているのだ。
おまえが見ているそのページには、一つの世界が内包されているといってもいい。
そこに立ち現れる図形には、膨大な情報が内包されている。又、一つのホロン言語を読むと、一つの世界が脳の内部へと展開されるといってもいいだろう。
つまり、ホロン言語を使用すると単位時間で処理される情報量が通常の言語と比べ、飛躍的に増大する。単位時間あたりの処理される情報量が増えるという事は、時間が早く流れるというのと同様の意味だ。
高速の思考を行う者が、通常の速度で思考を行う者と戦った場合、高速の思考を行う者が必ず勝利する。儂の剣術は、速さにおいて他を圧倒する」
ユンクは自らの与えた本を、じっと見入っているエリウスを不思議そうに見つめた。ホロン言語は、容易に理解できるものではない。ユンク自身、その無数の点から図形が見えるようになるまで、一年はかかっている。天才というべきブラックソウルは、数日で見えるようになったが。
「王子、おまえそこに画像が見えているのか」
本に見入ったまま、エリウスは頷く。ふと、エリウスは顔をあげると言った。
「先生、僕の名前は王子じゃなくて、エリウスだよ」
ユンクは苦笑した。
「判った。これからは、王子ではなく、エリウスと呼ぼう」




