第二十話 失われた記憶
フレヤは世界が崩壊する瞬間のような、巨大な白い光の流れの中へ放りだされた。
しかし、その光の流れは一瞬にして消え、再び黒い闇があたりを支配する。
フレヤはナイトフレイムの礼拝堂へ戻ったのかと、一瞬あたりを見回した。しかし、ただ闇が広がっているばかりで何も見ることはできない。
フレヤの白いマントを纏った姿は、暗黒の地底に降りた立った天使のように、闇の中で薄く輝いている。フレヤはゆっくりと、歩き始めた。どこへ向かうともなく。
やがて、視界の中に白いものが出現した。それに向かって、フレヤは進む。白いものは次第に形を整え始める。それは、僧衣であった。
フレヤの目の前に、白い僧衣をつけたクラウスが姿を現す。クラウスは哲学者のような瞳で、フレヤを見上げる。クラウスの背後には、硝子の扉があった。その扉の向こうはあたりの闇よりも、さらに濃くさらに深い闇に覆われている。
クラウスは、祈りをあげる僧侶のように静かに、そして厳かに言った。
「あなたの封印を解くことができなかったが、ここにあるのがあなたの封印だ、フレヤ殿」
フレヤは優しい笑みを見せて、言った。
「そこをどくがいい、死せる魔族よ」
クラウスは悟りを得たもののように、静かな笑みを浮かべて首を振る。
「やめたまえ、私にしか封印は解けぬ。しかし、私はすでに」
フレヤは無言でクラウスの体を、押し退けた。闇を閉じ込めながら水晶にも似た輝きを見せる扉の前に、フレヤは立つ。
「無理に破壊すれば、永遠に記憶が破壊されるぞ。無茶をするな、巨人よ」
フレヤは笑った。
「一度捨てた記憶ならば、二度と得る必要はない。我が望みは再び地上へ戻ることだ」
「馬鹿な」
クラウスが呆然と呟く。フレヤは、苦い笑みを浮かべた。今目の前にいるクラウスは、幻の魔導師にすぎない。ここは、自分の夢の中。抜け出すには、夢を喰い破る必要があった。
「消え去れ、古の幻」
フレヤは、硝子の扉に閉ざされた闇の奥を見つめる。
奇妙なものが、見えた。
扉の奥から、誰かが見つめている。その姿に、見覚えがあった。フレヤは、それが自分自身のように思える。なるほど、この奥に彼女の記憶が彼女の姿となって佇んでいるのか。
そう思いつつ、それを破壊せねばこの夢からは抜け出られないと本能的に悟った。
フレヤは拳を振り上げ、扉へ叩きつける。二度、三度と。
闇にひびが入り始めた。
フレヤは体ごと扉にぶつかる。甲高い音と共に、闇が砕け散った。光の奔流がフレヤを包む。フレヤの意識が薄らいだ。
フレヤは様々なものが、自分の中を駆け抜けるのを感じた。それは、自らの記憶の断片であると、判っている。多彩のイメージの切れ端が心の中に浮かんではては、消えてゆく。
深い地底の闇の中で、漆黒の肌に黄金に輝く瞳を持った神が、静かに自分を見おろしているのを感じる。そこは、次元渦流に閉ざされた金星の地下の牢獄であった。
黄金の瞳の神は、グーヌ神であり、そここそ、自分の産まれた場所であるとフレヤは理解した。
闇の底、その邪神の牢獄の中で、フレヤは何かとても大切なものを失ったような気がしている。彼女の傍らには、失ったはずのとても大切な人、唯一彼女に安らぎを与えるはずの人がいた。しかし、フレヤにはどうしてもそれが誰なのかを思い出すことができない。
金星の奥深く、次元渦流が荒れ狂う中、虹色に輝く星船がゆっくりと浮上してゆく。宇宙の最果てのような闇の色と、星々が誕生する瞬間のような原初の赤、太陽が死滅する時に発する光のように目映い白、それらの色がからみあい、捻れながら走り抜けてゆく。
フレヤ達巨人族は黄金の林檎の力に守られた星船の中でその様を眺めている。時折、次元のかなたの風景が垣間みえた。それは巨大な真紅の花であり、蒼ざめた世界を覆い尽くすような空であり、漆黒の肌をもち物憂げに微睡む竜の姿である。
フレヤたちは幻覚が乱舞するような、カレイドスコープの中に巻き起こった嵐のような次元渦動を突き抜けていく。そこを走り抜けていく光は様々な波紋を巻き起こし、神々の啓示を示すように荘厳な景色を演出する。
フレヤは、真っ白に天使達が覆い尽くした空を見上げている。それはグーヌ神とヌース神の、何億年も続いた戦いであった。ただ絶望だけが心を覆ってゆくような、長く不毛な戦いであった。
大地はただひたすらに、焼けただれた荒れ地が広がっている。その赤茶けた荒野のあちこちに、黒々としたぬかるみがあった。それらは、神々が戦いの中で流した血溜まりと言われている。
闇の生き物達が、周囲で身構える。魔族に呼び出された竜達が、戦いの雄叫びをあげていた。フレヤは静かに剣を振り上げる。
そして、灰色の雲から粉雪が降り落ちるのようにゆっくりと、破壊と殺戮の戦闘機械、天使達が地上へ降臨してゆく。凶悪な戦いの歌を歌いながら。
紅蓮の炎が渦巻く中、フレヤは微睡んでいた。大地の熱が巻き起こす炎を自らの寝床としたフレヤは、総てを焼き尽くす凶暴なマグマに身をゆだね、安らぎを憶えている。
その彼女を、眠りと忘却から引きずり出そうとするものがいた。遠い所から呼びかけて来る者が、いる。フレヤは紅く染まった世界から、水面のように澄んだ青空の見える地上へとゆっくり浮上していく。
炎の中で立ち上がったフレヤは、自分を見上げる青年を見た。青い瞳に金色の髪、そして白い肌の人間である。青年は問いかけるように、フレヤを見ていた。
(そうだな、)
フレヤは心の中で呟いた。
(私は人間の為に戦うと約束したのであったな、エリウスよ)
その青年こそ、古にアルクスル王国を築いた初代の王、エリウス・アレキサンドラ・アルクスルⅠ世であった。
フレヤの記憶はさらに目まぐるしく、かけぬけていく。
フレヤは何か広大な世界にいた。そこが彼女の心の中であることは、理解している。天上には自らの姿とそっくりの死体が浮かんでいた。その胸は空洞となっている。
(フライア神の死体か)
フレヤは直感的にそう悟った。フライア神は虚ろな死者の瞳で陰鬱な灰色の雲に覆われた空に浮かんでいる。それは、暗く沈んだ冬の海に浮かぶ、乙女の死体を思わせた。
淀んだ空は、底のほうでは激しく渦巻いているらしく、金色の閃光がときおり雲の切れ間を走り抜けていく。フライア神の姿は灰色の世界の中で唯一色を備えているように、鮮やかで美しい。フレヤはその姿を見つめるうちに、涙が溢れでて来るのを感じた。
「フレヤか」
突然、背後から声を掛けられ、フレヤは振り向く。そこには、漆黒の肌と金色に輝く髪を持つグーヌ神がいた。
この静寂と死滅の世界の中で、生そのものの混沌としたエネルギーを内包した神の姿は、凶暴なまでに、リアルである。フレヤは見上げようと巨大な神を前に、数歩後ずさった。
「次元界に混乱があるのか。私がお前をつくり出したのは、この時空間よりもう少し後だ。まあ、次元流に閉ざされたこの牢獄の中では、よくある事だがな」
フレヤは困ったように首をふる。
「私はただの夢だ、見捨てられた神よ」
「ほう」
グーヌはどこか皮肉な笑みを見せる。
「ここより遥か離れた地の戦いの中で、私の精神は歪んだ時空間の構成する迷宮の中へ入りこんでしまった。私は自らの記憶を破壊したが、それでも尚、戻るすべがない」
「いっておくがな、フレヤ、我が炎と光を纏う狂乱の娘よ。ここが夢で、戻ろうとする世界が真実だなどと思うのは誤りだぞ」
フレヤは天上に浮かぶ女神の死体と同じ美貌で、猛々しく笑った。
「私は私の戦いの場を真実と呼ぶ。ここは、死の統べる場所。私の居場所ではない」
グーヌは苦笑のようなものを浮かべる。
「私はおまえを産みだしたが、フレヤ、お前は、お前自身を造り上げたようだな」
グーヌは手を上げた。空から光の塊が落ちてくる。地上に、巨大な闇が口を開けた。
「もどれ、お前が真実と呼ぶ場所へ、我が光の娘、もう一度近いうちに会おう。今度は、夢としてではなくな」
暗黒の口からは、蒼ざめた気の流れが立ち昇ってくる。フレヤは優しく微笑むと、その闇の中へ身を投じた。
そして、様々なものがフレヤの心を駆け抜けた。
暴風がこころを震わせる中で、フレヤは無数の光景がこころを駆け抜けていくのを感じる。
その無限に煌めく無数の場面の中から、ひとつの景色をフレヤは見出す。
目の前に、巨大な硝子の扉があった。
扉の奥、ひとりの巨人が佇んでいる。
巨大な硝子の扉の中。
巨人はゆっくりと動く。
その様は、深海で海獣が身をよじる姿に似ていた。巨人はゆらりと拳を振り上げる。
その拳が硝子の扉に叩きつけられた。
一度。
二度と。
硝子に稲妻のような亀裂が生じる。
ついに、巨人の一撃の前に硝子が砕けた。破片がきらきらと輝きながら、あたりに流れ出してゆく。
巨人は煌めく光の中に立ちあがった。その姿は、まるで深い森の中にある湖の中から生まれ出でた精霊のように美しい。金色の髪は燃え盛る炎のように肩へかかり、その輝く瞳は冬の空の清冽な光を宿す。
フレヤのこころに、奇妙な思いが去来する。
私の見ているこれは、なんだろう。
私が、私を見つめている。
巨人は一歩踏み出した。どこかぎこちない、一歩。ゆっくりと踏み出す。
フレヤは、自分と巨人がひとつになろうとしているのを感じる。
フレヤは、意識が闇にのまれていくのを感じた。




