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ワルキューレ シリーズ  作者: ヒルナギ
第一章 雪原のワルキューレ

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第十四話 魔族の女王・ヴェリンダ

 ロキは、フレヤに向かって踏み出す。フレヤは神の声を聞くシャーマンのように、硬直した状態で直立している。両手を掲げたクリスも又、聖なる狂人のように体を凍りつかせたままだ。

 フレヤが魔導の技にかかったのは、明白である。次第にその存在が、希薄化しつつあった。完全に存在感が消え去った時、フレヤは別の時空へ送り込まれる。フレヤが留まっているのは、彼女の意識が一部、この時空間に残っている為だ。


「おいおい、ロキ殿どこへいく」


 ブラックソウルが、声を掛ける。ロキは、鉄鞭を抜く。彼の意図は、明白であった。聖壇上のクリスを倒す。術者が倒れれば、術も解ける。


「そうは、いかないよ」


 ロキの歩が止まった。


「エルフの絹糸か」


 ロキは、静かに言った。いつの間にか、ロキの体にエルフの紡いだ絹糸が、纏ついている。その糸は、虚空へと消え、そのもう一端がブラックソウルの手元にあった。ブラックソウルの手から放たれた糸は、時空の歪みを通り抜け、ロキの周囲に出現し、その体を縛りつけたのだ。


「魔繰糸術を身につけているとは、オーラの間者にしては上出来だ」


 ロキの落ちついた言葉に、ブラックソウルは苦笑する。


「ロキ殿、あんたは人間じゃないな。普通糸に斬られて、首が落ちているよ」


 ロキはブラックソウルを昏い瞳で見る。


「愚かなまねはやめろ、オーラの参謀殿。すでに戦いは終わった」

「ああ、巨人はもうすぐ術に堕ちる」

「違うな」


 ロキの言葉と同時に、聖壇の棺が、ごとりと動いた。


「逃げるなら今だ、オーラの参謀」


 それは、黒い虹が棺から立ち昇るのを、見るようであった。それ程強力で凄絶な瘴気と波動が、棺より立ち昇っている。そして、暗黒の太陽が世界の破滅を告げるように、ゆっくりと魔族最強の魔導師が立ち上がった。

 その長身の魔導師は、美と青春の若神のように美しい肢体を、晒す。奈落の果ての闇を思わす漆黒の肌は、闘争の為に生きる獣のような生命力に輝き、地上で人間が繰り広げたあらゆる虐殺より遥かに深い罪を宿した、真夜中の太陽のごとき金色の瞳が、神々しく、そして邪悪に輝く。

 西の地平へ消えゆく、太陽の最後の残照のように、金色に燃える髪を靡かせ、魔族の最も強大で邪悪な神官は、ゆっくり棺の中から歩みでた。骨のように白い僧衣を身につけ、魔界の王が謁見するように礼拝堂を眺める。

 ふと、珍しいものを見るように、クリスに目をとめ、手を触れた。その瞬間、クリスの体は弾け跳び、聖壇の下へ叩きつけられる。その様を満足げに見たクラウスは、ブラックソウルを見た。


「眠っているうちに、世界は変わったのだな」


 クラウスは凶星が煌めくように、陰惨な笑みを見せる。その笑みは、まともな人間であれば意識を失うほど、邪悪な瘴気を放っていた。


「我が寝所まで家畜が、迷い込むとはな」


 すっ、とクラウスは天使が宙を飛ぶように、聖壇から跳び降りた。クラウスは大地に一枚の黒い花びらが落ちるように、静かにブラックソウルの前へ立つ。


「畏れることをしらぬ、獣のようだな、黒い髪の家畜よ。名を聞いておこう」


 ブラックソウルは不遜な顔で、見下したように言った。


「我が名は、ブラックソウル。忘れられぬ名となるぞ、おまえが生き延びればな」


 クラウスは、楽しげに笑う。


「私の前で魔繰糸術とは、大胆というより、無謀だな」


 ロキを縛っていたエルフの絹糸は、ロキの戒めを解くと、虚空を通りクラウスの手の中へ来た。そしてその絹糸は、再び空間の歪みを通じ、ブラックソウルの体を縛る。

 クリスの術から抜けでたフレヤが、戒められたブラックソウルの後ろへ立った。

クラウスは、フレヤに微笑みかける。


「久しぶりだな、フレヤ殿。といっても、記憶は戻っていないようだな。封印を解かねばなるまい。しばしまってくれ、フレヤ殿」

「急ぎはしないさ」


 フレヤは笑みを返す。

 クラウスは邪悪な欲望に満ちた顔で、ブラックソウルを見つめる。


「ブラックソウル、このまま君の糸で、君の首を斬ってもいい。しかし、君には別の死を与えよう。魂の奥底まで昏い恐怖に侵される、崇高な死を与えてあげよう」


 そしてクラウスは、右手をブラックソウルの首へかけた。空間が歪むような、瘴気が立ち昇る。それは、揺れ動く死の海底の光景を、思わせた。

 歪んだグラスの中のような、邪悪な瘴気に閉じこめられたブラックソウルは、常人であれば、干涸らびた死体となったであろう。しかし、ブラックソウルは春の日差しを浴びているように、穏やかに微笑んだ。


「どうした、魔族最強の魔導師。おれを殺すんだろ」


 クラウスは無言である。闇色の炎が渦巻くように、凶暴なまでに激しい邪悪な波動が、ブラックソウルのまわりを、覆う。それは地底の奥底から甦った、暗黒時代の野獣達が身を捩らせながら、のたうちまわる様を思わせた。


「無駄だ、無駄!」


 ブラックソウルが叫ぶとともに、一瞬、左腕が揺れる。黒い炎のような色の剣が、稲妻のようにクラウスとブラックソウルの間を走った。

 ブラックソウルを縛っていた絹糸は、断ち切られ地に落ちる。ブラックソウルは平然と立ち、一歩退った。同時に、クラウスも後ずさる。その僧衣の右肩に、真紅の線が走っていた。血の染みである。

 とん、とクラウスの右腕が床に落ちた。何かを掴もうとするように、床に落ちた右手は手のひらを開いている。血が金属質の輝きを持って、迸った。白い僧衣が紅に染まってゆく。

 ブラックソウルは魔界の貴公子のように、微笑んだ。その笑みの影に潜む邪悪さは、魔族のクラウスの前ですら、歴然と感じとることができた。


「ほう、奇妙な人間だな、おまえ」


 フレヤが、呆れたように言う。クラウスは、ゆっくりとした動作で腕を拾うと、右肩にあてた。幾度か指先が痙攣し、やがて自由な動きを見せ始める。クラウスはふっと、ため息をついた。右手を、軽く動かす。


「やれやれ、驚いたよ。こんなことは、昔一度あったな」


 クラウスは美しい笑みを浮かべ、金色の瞳を遠くを見るように、そっと細めた。

その姿は美と青春の神を思わせたが、一瞬浮かんだ表情は、数億年以上生き続けている、魔族の魔導師にふさわしいものである。


「エリウス・アレクサンドラ・アルクスルⅠ世。彼の者もそうであったな。我らの力を受け付けぬ人間」

「そして、王家の血を受け継ぐ者に時として、同じ体質の者がいる。その者は常にエリウスと名付けられる。暗黒王ガルンを葬ったエリウスⅢ世も同様だ」


 ブラックソウルは、詠うように言った。


「では、貴様は王家の血筋か」


 クラウスは夢見る者のように、美しい金色の瞳でブラックソウルを見つめ、問いかける。


「さあな、おれは、おれの父親を知らない」


 ブラックソウルは、黒い宝石のように瞳を煌めかせ、言った。


「どうするんだ、古き者、旧時代の支配者。もう一度昔の夢に帰ったらどうだい」


 音も無く、空気の動きも無かったが、ブラックソウルはクラウスを中心に風が動いたのを、感じた。災いと死を乗せた、凶々しい黒い風である。

 世界は色を失い、地上の死を宣告するように、景色が醜く歪む。クラウスは真の魔導の力を解放しつつあった。


「私は、目覚めてしまった」


 その、地上のものに属しているとは思えない、人間には到底及ぶこともできない、完璧な美貌を微かに曇らせ、憂鬱げにクラウスは言った。


「目覚めてしまった以上は、地上に幾万もの人間の死体の山を築いた後でなければ、眠るつもりは無い」


 あたかも呪われた死霊達が、目覚めの喇叭を吹き鳴らし、天空を飛び回っているようであった。邪悪な気配が辺りを支配し、瘴気は暴風と化し、礼拝堂を満たす。

 ブラックソウルは、夏の嵐を楽しむ子供のように、大きく笑った。


「地獄の封印を開くか、魔族の支配者。それも重畳、やってみるがいい」


 すべてが死滅し、静寂の世界となった地上に、最初に昇る太陽のような金色の瞳で、クラウスはブラックソウルを見る。


「さらばだ、奇妙な人間よ。次に眠りに就く前に、お前のことは思いだそう」


 ごっ、と黒い球体がブラックソウルを包む。ブラックソウルの言葉どうり、それは地底の果ての、暗黒界への入り口であった。ブラックソウルの精神波動は、黄泉の闇と同調し、肉体ごと地獄へ飛ばされつつある。


「クリス!」


 ブラックソウルが、叫んだ。


「クリス、思い出せ、おまえはここへ来る前から、死者であったのを」


 すでに影だけの存在となったブラックソウルは、狂おしげに叫ぶ。


「偽りの姿は消え失せろ、真実を、夜明けに輝く太陽のごとく、我が前に示せ、魔族の真の支配者よ」


 クリスの死体が、幾度か痙攣する。そして、死者がゆっくり、ぎこちなく立ち上がった。冥界の王の目を盗み、戻ってきたかのように、数歩歩む。

 かつてブラックソウルであった黒い影は、絶叫した。


「汝の真の名をここに告げる、魔族の正当なる支配者である女王、ヴェリンダ・ヴェック!」


 叫び終わると共に、クリスの死体は、黄金色の炎に包まれた。邪悪なものを死滅させるかのような、神聖な金色の炎が燃え盛る。そしてその中から、黒い人影が歩でた。

 その人は、漆黒の女神の像を思わす、魔族の女である。大地の豊饒を暗示するような豊かな乳房、波を分け海原を走る黒い船のような肢体、漆黒の闇夜を駆逐する真夏の太陽のように金色に輝く髪、そして古よりあらゆる邪悪、あらゆる残忍な戦いを見つめてきた金色の瞳。

 そのすべてが、廃虚に昇る満月のように、クラウスの前へ姿を現した。


「化身の術で魔族が人間になりすましていたか、それにしても、そなたは?」


 その魔族の女の、漆黒の美貌を見つめたクラウスの顔が、驚愕に歪んだ。


「いや、あなたは我が王セルジュ・ヴェックの王女、ヴェリンダ様、なぜ家畜と共に我が宮殿へ?いやそれよりも…」


 ヴェリンダは、人間の王族すら家畜と呼ぶものにふさわしい気高い笑みを見せ、影として消え去ろうとしているブラックソウルに触れた。闇が野獣に怯る小動物のように遁走し、不遜な笑みを浮かべるブラックソウルが姿を現す。

 ヴェリンダは官能的といってもいいような、艶かしい笑みを見せ、ブラックソウルの肩に手を乗せたまま、言った。


「紹介しよう、クラウス。我が夫、ブラックソウルだ」


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