第十一話 邪龍エキドナ
エリスは、フレヤに笑みを投げかける。
「いずれにせよ、クラウス様にお会いになっては、いかがです?ロキ殿もそのつもりで、いらっしゃったわけでしょう」
ロキが、頷く。
「クラウス殿の眠る場所へ、案内してもらおうか。そこで待とう。彼が目覚めるのを」
エリスが立ち上がる。その時、一人の魔族の男が、部屋に入ってきた。エリスの耳元で、何事かを告げる。エリスは頷いた。
「ロキ殿、クラウス様の眠る部屋へは、この者が案内します。私は暫く、場をはずさせていただく」
ロキが無言で、問いかけるように、視線を向ける。エリスは、苦笑して言った。
「人間が侵入して来たのですが、どうも手を焼いているようなので」
「人間に手を焼く?この宮殿ができて三千年たらずだったと思うが、そんなことは一度もなかったはずだな」
ロキは面白がっているような、口調で言った。エリスも、困惑しているというよりは、楽しげだ。
「エリウスⅢ世以来でしょうな、魔族に手を焼かせる人間とは」
そして、エリスは会釈すると、立ち去って行った。ロキは、フレヤに声をかける。
「いこうか、フレヤ」
フレヤは、嵐の過ぎ去った後に晴れ渡る青空のように青く輝く瞳で、静かにロキを見つめた。
「私がクラウスに封印を解かれれば、お前に従う理由も、なくなるわけだな」
ロキは、肩を竦める。
「ああ、お前がそれを選べばな、フレヤ。その時は、好きにすればいい」
「ロキ、お前は」
フレヤの美貌には、迷いはもう無かった。
「私が記憶をとりもどして尚、お前に従うと確信しているのだな」
ロキはその言葉に、応えなかった。
「ロキ、お前は何者だ?私に何を隠している」
ロキは、賢者のような、笑みをみせた。
「隠してはいない。ただ、今のお前に説明しても、しかたないことことがある」
ロキは、真っ直ぐフレヤを見つめ返す。
「おれは、聖なる神、ヌースの手によって作り出された模造人間だ。おれの本当の体は、ヴァーハイムの地底に眠っている。今、地上を動き回っているこの体は、仮のものでしかない」
「お前の目的はなんだ」
フレヤの問に、ロキが応える。
「人間達を導き、人間の手によって、黄金の林檎を天上へ返す為の、星船を復活させること」
「人間の手によって?なぜお前自身が、それをやらない」
「善神ヌースと邪神グーヌは、賭けをしたんだよ。瞬く間ほどの短い生を生きる、愚かで脆弱な生き物である人間、その人間がもし、天上世界まで飛び立てる星船を復活させることができれば、邪神グーヌも金星の地下にある牢獄へ戻ると」
「まずは、」
フレヤは静かに言った。
「記憶をとり戻す。それからもう一度、話をしよう、神の造った岩石人間よ」
ロキは頷く。傍らに控える、魔族の男に声をかけた。
「いこうか、この宮殿の主が眠る場所へ」
◆ ◆
「ブラックソウル様、お待ち下さい」
影のように、一行の最高尾に従っていた黒衣の魔導師ドルーズが、口を開く。先頭のブラックソウルが振り向く。
「どうされた、ドルーズ殿」
「魔族の魔導師が、動き始めました。ユグドラシルの枝から造った木刀だけでは、対抗できない相手が来ます」
「ほう、」
ブラックソウルは、黒曜石のような瞳を、キラキラと輝かす。
「どうしますかね、ドルーズ殿」
「先に進んで下さい、ブラックソウル殿。ここは、私がくい止めます」
ブラックソウルは不機嫌そうに、眉間にしわをよせる。
「しかし、」
「この先は、クリスがいれば十分です。封印は彼女の手で、破壊させて下さい。私の役目はここで、魔族の魔導師と戦うことです」
ブラックソウルは、ドルーズを見つめ、そしてクリスを見る。クリスはゆっくり頷いた。ブラックソウルは、ドルーズに向き直る。
「では、お任せします。帰りにもう一度、ここで合流しましょう。アニムス!」
ブラックソウルは、火焔の入れ墨の剣士の一人に、声をかける。
「ここに残ってドルーズ殿を守れ」
「不要です」
ドルーズは、きっばりと言った。
「しかし、」
「魔族の魔導師にしても、誇りがあるでしょう。人間の魔導師を殺すのに、剣を使いますまい」
ブラックソウルは、多少苛立たしげにドルーズを見る。黒衣に包まれた美貌は、闇を照らす朧月のように、薄く輝いているようだ。
突然、ブラックソウルは笑みを見せた。
「判りました。では、のち程」
ブラックソウル達は、そのまま立ち去った。ドルーズは冥界に佇む死神のように、ただ一人その場に立ち尽くす。
そこは、長い渡り廊下のような場所である。通路は、馬車がすれ違うことができそうな程の幅があり、天井はとても高くアーチを描いていた。
所々に光石の照明はあるが、薄暗く、天井から差し込む蒼ざめた光線が、光の柱を造っている。ドルーズはその静寂が支配する廊下で、ゆっくりと振り向いた。
彼らが通り過ぎてきた道、そこに大理石のように白い僧衣に身を包んだ、魔族の男が姿を現す。闇色の肌は、秘められた凶暴なまでに激烈な、生命力により黒い光を発しているようだ。
瘴気が風のように、駆け抜ける。その魔族の男は、恐怖と残酷さを身に纏っていた。近づく者をね狂死させかねない、邪悪な黒いオーラを漂わせている。
夜明けの太陽を思わす、黄金の髪をかき揚げ、魔族の男はドルーズの前に立ち止まった。
「下等な生き物にしては、立派なものだよ。こんな所まで入り込むとは」
ドルーズは無言である。他界に通ずる穴のような黒い瞳で、魔族を見つめていた。
「名乗っておこう。私は、エリス。事実上、この宮殿の支配者だよ」
「私は、破戒魔導師ドルーズ。今はライゴールのジゼルに従っている」
「ふむ。始めようか、ドルーズ。三千年前には、夢にも思わなかったよ。再び戦うことの喜びを味あわせてくれるのが、家畜の魔導師とはね」
言い終えると、エリスは声にならぬ叫びを放った。それはほとんど物理的な力を持つ、精神波動である。黒い津波のような不可視の力が、ドルーズを飲み込む。 波涛が崩れ落ちるように、精神波が通り抜けた後に、エリスは立ち上がった影のごとく、佇んでいた。その表情には、なんの変化も無い。ただ、冴えわたる美貌が闇の中に浮かぶ月のように、輝いて見える。
「基本的なブロックは、できるようだな。では、本当の魔法というものを、見せてやろう」
夕闇を貫く、宵の明星のように、エリスの金色の瞳は、冴えた輝きをみせる。空間が撓むように、あたりの光景が歪み始めた。
物理的な音にはならないが、耳の奥で空間のきしむ音が、確かに聞こえる。立ち尽くす闇のようなドルーズの周囲に、ぽつり、ぽつりと、光の粒が出現し始めた。
微細な光の粒子が、粉雪が降り積もってゆくように、ドルーズの周囲に集まってゆく。それは麻薬の幻覚のような、この世のものではない、実に鮮やかで美しい色彩を出現させ始める。
ドルーズの周囲に球状の宇宙が、姿を現しつつあった。ドルーズの視界には、天上世界のような、極彩色の光景が開けつつある。
宝石をはめ込んだように、透明で明るく煌めいている青い空。ガラス細工のように繊細で、肌理の細かい漣をたてる湖が、足元に広がる。夢の中で描く為の顔料から着色されたような、赤や黄色の花々が咲き乱れ、宝石で羽を造られたように、透明で清冽に輝く鳥が、頭上を舞っていた。
それが、いかなる世界かは、判らない。ただ、今まさにドルーズにとって実在する世界であるのは、間違いなかった。
魔法と幻術は、よく似ている。ほとんど同じ、といってもいい。ただ一点を除いては。
それは、幻術の場合、幻はあくまでも、幻であるが、魔法は、幻を見せられている当人にとっては、まぎれもなく実在しているのだということである。
ドルーズは今まさに、物理的に存在する、別の宇宙へと送り込まれようとしていた。ドルーズの周囲は、宝石で造られたカレイドスコープのように輝いている。ドルーズの目には、ゆるやかな波紋が渡ってゆく静かな広い湖が映っていた。
頬を撫でる湿った風、頭上を舞う鳥の声、すべてが本物である。今や地底の宮殿、ナイトフレイムは遠い夢のようであった。
こうして魂が別の世界と同調した時、人間の肉体もまた別の宇宙へと同調する。
かつて暗黒王ガルンをオーラ軍が迎え討った時、数万もの兵士がガルンの魔法の術中に陥り、鎧だけを残し肉体ごと別の宇宙へと消えたことがあった。その鎧は墓標のように、いまだに戦場に残されている。
ドルーズは完全に、極彩色の球体に包まれた。その球体は、次第にしぼんでゆく。
人間の頭ほどの大きさから、拳大へ、そしてあぶくほどの大きさになり、完全に消えていこうとした。
「この程度のものか」
エリスは、侮蔑の笑みを見せた。突然、光の球が炸裂し、あたりに光の渦が巻き起こる。
「何!」
エリスは、思わず後ずさる。水球が弾け、水がまき散らされるように、無数の色を持った光があたりに流れてゆく。そして瞬く間に、光は消えていった。後には元の通り、影のような黒衣に身を包んだドルーズが、佇んでいる。
「どうやった、貴様」
エリスの問いかけに、ドルーズは凄絶な笑みを持って応えた。
「簡単ですよ」
ドルーズの美貌は、内から溢れようとする何物かによって、歪められている。それは、笑いの形をかろうじてとっていた。
「私自身の、内側を見つめていたんです。そこにある真っ黒な死のリアリティは、あなたの見せた宇宙より、あるいは、この宮殿よりも遥かにリアリティを持っていたんです」
「馬鹿な」
魔法のつくり出す世界、それがそれを見る者にとって、単なる幻と化せば、魔法はただの幻術となる。エリスが呻いた時、ドルーズは静かに言った。
「あなたの術がこれで終わりであれば、こちらから反撃させていただきますよ」
ドルーズはすっ、と黒衣の胸元をはだける。陶器のように白い肌が露になった。
エリスは、目を見張る。その胸に、女の顔が浮かんできたからだ。
神々の愛娼のごとき美貌を持つ女の顔は、微睡んでいるかのように、瞳を閉じている。その顔は次第に前方へ迫り出して行き、頭部そのものが現れいでようとしていた。
ドルーズがふっと瞑目した時、胸の女の目が見開かれた。銀に輝く瞳が、エリスを見る。薔薇の花びらのように紅い唇が、微笑む形に歪む。
「お、お前は」
エリスは、驚愕の声をあげる。女の頭部は完全に胸から外へ出ており、銀色の長い髪が床近くまで垂れていた。細くて長い首がドルーズの胸元から伸びてゆく。女の口から、快楽による呻きのような声が漏れた。
それは明らかに、竜の首である。青ざめた爬虫類の鱗を持つ細長い首の先に、官能的な美を備えた女の頭がのっていた。
突然、黒いものが二つ、ドルーズの背後に出現する。羽であった。巨大な竜の羽が、黒い天使の羽のように、ドルーズの背に生えた。
そして首に続いて、竜の前肢が出現する。背中からは、羽に続い巨大な大蛇の胴のような、尾が現れた。それが床の上で身を捩らせ始めた時、後肢が背から現れる。
そこに出現したのは、女の頭を持つ竜であった。ドルーズの上半身は、今や竜の背に乗せられている形になっている。
「まさか、こんなことが」
エリスの目は、驚きに見開かれていた。
「エキドナよ、竜の女王であるはずのお前が、家畜ごときの使い魔まで成り下がるとは」
邪竜エキドナは、美しい若い女の声で笑った。淫猥に口を歪めてみせる。
「お前は、魔導師エリスかい。我が主ドルーズを家畜と呼ぶのであれば、お前はいったい何様だい」
エキドナは、売笑婦のように微笑む。
「善神ヌースの僕である天使達が、地上を蹂躙するため天から降りてきた時。幾万もの天使達が真っ白に大空を覆った時、お前たちはどうしたね」
エキドナは侮蔑の笑みを見せた。
「戦ったのは、私たち竜の一族だ。それとあの、恐るべき巨人達。お前達魔族は、私たちの影で震えていただけじゃないかい」
エリスの顔が、屈辱で歪む。エキドナは歌うように、続けた。
「このドルーズはあきれた男だよ。私を支配する為に、自分の肉体を私に食べさせた。そして、その肉体の骨身に刻み込まれた呪縛の呪文が、私の中へ取り込まれた。それで私を束縛するのに、成功したのさ」
エキドナはクスクス笑う。
「お前達魔族には、この退廃的な地下の巣穴が似合っているよ。確かに人間には、世界を動かしてゆく力がある。それがどこへ向かっているかは、知ったこっちゃないがね」
「しゃべりすぎだ、竜の首領」
エリスの瞳が輝き、再び異界への扉が開き始める。
「無駄よ、無駄!」
エキドナが、勝利の雄叫びをあげる。虹色に輝く光の渦を貫いて、エキドナは、エリスに向かって跳躍した。
七色のガラスが砕け散るように,光の破片が散らばってゆく。エキドナの体は、異界への扉を打ち砕いた。
エキドナの紅い唇が、恋人に口づけするように、エリスの喉笛におしあてられる。
ざくり、とエリスの首が喰いちぎられ、床に転がった。
エキドナは啜り泣くような歓喜の声をあげ、エリスの肉体を貪り喰ってゆく。内臓が引きずり出され、心臓へ、あるいは肝臓へ愛おしげに、エキドナは紅い口づけを与えていった。
最後には、骨のかけら、血の一滴すら残さずに、エキドナはエリスの肉体を喰らい尽くす。そして、満足気に銀の瞳を、閉じた。
その時ゆっくりと、ドルーズの黒い瞳が見開かれる。眠りについたエキドナは、再びドルーズの胸の中へと戻っていった。
羽が背中へと畳まれてゆき、尾が縮み背中へと消えてゆく。首が胸へと入り込んで行き、微睡む美しい女の顔だけが残った。
その顔も次第に薄れてゆき、黒衣の下へと隠される。後に残ったドルーズは、力つきたように、膝をつく。その顔は死者のように青ざめ、消耗しつくしていた。
さすがに、ドルーズにとって魔族以上に古く、邪悪な存在といえる竜を操るのは、凄さまじい労力を必要とするようだ。ドルーズはうずくまり、体力の快復をじっと待った。




