第九話 その女、危険につき
人間とは、混乱していても重要な案件であれば理解できるものらしい。
理解と言うと偉そうに聞こえるが、つまりは現状確認に過ぎない。
目の前の男が放った見えざる矢は俺を一瞬の自失に追いやったが、それが逆に、僅かではあるが冷静さを取り戻す契機にもなったようだ。
会談の中でわかったことがいくつかある。
クリスが皇女であること。
三年前に出奔して行方不明になっていたこと。
それがヴィッテルスバッハ辺境伯によって手引きされていたこと。
名を隠し、信頼に足るものを集めるために野に下ったこと。
確かにクリスの言動は庶民のそれではなかったが、せいぜい役人や下級貴族の娘程度だろうと思っていた俺には衝撃的な事実だった。
衝撃と言えばまだ存在する。
俺たちはひとまず辺境伯の所有する軍に編入されること。
主に新兵ではあるが千五百人を配下として加えること。
その部隊は連隊として大佐待遇のクリスに全権が委任されること。
第一大隊隊長としてスヴェンが、副官として俺が、それぞれ中佐相当官となること。
大まかに打ち合わせを終えると、雑務があるので申し訳ないが、とヴィッテルスバッハ卿は席を辞した。
それぞれ個室を用意されたが、スヴェンは皆を兵舎へ誘導するために町に戻った。
クリスは別のフロアの部屋をあてがわれたし、城内で迷子になるのも馬鹿らしいので、俺はこれからのことについて一人で考えることにした。
どうやらヴィッテルスバッハ卿は信用しても問題はなさそうだ。
少し軽薄な感じはするが、意図的にそう振舞っているようにも見えた。
それにしても、と椅子に座ったまま軽く伸びをする。
俺たちを公式に所属させるとは思わなかった。
万事うまく事が進んだとしても、多少戦力の補強をする程度で独立した遊撃部隊として扱うと踏んでいた。
万が一俺たちの存在が露見しても切り捨てやすいようにしておくだろうと考えていたのだが、或いは皇女のいる部隊をぞんざいに扱うわけにはいかないから、というだけかもしれない。
皇女。
盛大な家出をしたものだ、とは思うが、ではその家出の理由はといえば、未ださっぱりわからない。
クリスからしてみれば父親を倒そうとしているわけで、生半可な理由であるはずもない。
「イトウ様、いらっしゃいますか」
控えめなノックの後に何となく聞き覚えのある声が続く。
居留守を使う意味も目的もないので、扉を開いた。
磨いた銅のような瞳と、同じ色の髪を肩で揃えた知的な雰囲気を持つ女性が、俺を確認して一礼する。
「ああ、さっき案内してくれた……」
「ベアトリクス・ヤケヴォと申します。ヴィッテルスバッハ卿の主席秘書官を務めさせていただいております」
「ヤケヴォさん、俺に何か?」
「クリスティナ様がお待ちです。それと、わたくしのことはどうぞベッテとお呼び下さい」
「クリスが? ええと、ベッテ、どこに行けばいいのかな」
「ご案内いたしますわ」
少しだけ笑顔を覗かせ、先に立って歩き出す。
無理なく背筋を伸ばして歩く姿は、クリスとは違う種類の凛々しさを感じる。
そういえばクリスと親しげに話をしていたようだったが……。
「ベッテ、クリスとは知り合いのようだったけど」
「はい、クリスティナ様がご幼少の頃、お世話係と遊び相手を拝命しておりました」
「皇族の世話係って、それなら君も貴族じゃないのか。俺なんかが愛称で呼んでしまっていいのかな」
「貴族と言ってもヤケヴォ家は傍流ですから。イトウ様はクリスティナ様を愛称で呼んでおられますし、対外的にも私をそう呼んで問題ないご身分をお持ちになりましたわ」
「参ったな……。じゃあベッテも、俺のことはレイジでお願いするよ」
「かしこまりました、レイジ様」
「様……は外れないんだね」
「申し訳ございませんが。さあ、こちらです」
何かの紋章が彫り付けられた両開きの扉の前で足が止まる。
ベッテがノックと用件を伝えると、興味のないような声が入室を許可する。
何やらとてつもなく豪奢な部屋だった。
至る所に金銀宝石がちりばめられ、目を開けているのが拷問に思えるほどだ。
その中央のソファの上に、我らが皇女殿下は無作法にも寝そべってあらせられた。
「やっと来たか。ベッテ、ありがとう」
「ありがとう、じゃないわこの馬鹿娘! せめて城にいる間くらいちゃんとしてなさいよ!」
……ベッテさん?
先程俺が感じていた知的な雰囲気や凛々しさはどこに行ったのだろう。
だらしなく腰紐を緩め、せっかく結い上げられた髪も跡形なく崩してしまっている皇女殿下に詰め寄っている。
「この部屋には誰も近付かないからって緩めすぎよ!」
「いいではないか、今日はもう出歩かないと決めたのだから」
「あたしの言うことが聞けないって言うの?」
「……早急に整えるとしよう」
……子供の頃の力関係というのは意外と年を重ねても変わらないものだ。
そういえば俺も、一歳年上の幼馴染に高校の頃までしっかり頭が上がらなかったことを思い出した。
封印してあったおぞましい記憶が蘇りかけて、嫌な感じの汗が滲んでくる。
クリスも何かトラウマがあるに違いない。
俺はこれまでにない親近感を覚えていた。
「よし、完成。レイジ君、後はよろしくね」
「……ベッテはそれが素?」
「さあ、どうでしょう。レイジ様、クリスティナ様にお手を出してはいけませんよ?」
話している間に表情と態度を一瞬毎に造り替え、最後に物騒なことを言って扉を閉めた。
言われなくても手を出す気などないのだが。
ベッテによって有無を言わさず手早く服装を整えられたクリスが仏頂面で脚を組んでいる。
「さて、ベッテのせいで騒がしくなってしまったが、貴様、私に聞きたいことがあるだろう」
「かなりね」
「私も話すことがあって呼んだのだ。先に私が話したほうがいいと思うが、特に確認しておきたいことはあるか」
「そうだな、昔ベッテに何をされたのかを詳しく……」
怒り。
俺に向けられているクリスの視線は、他に紛うことなきそれだった。
何種類かの感情も微量ながら混入しているようだが、少なくとも今の俺に詮索する余裕があるようには思えなかった。
恐らくその怒りによってだろう、顔を紅潮させたクリスが小刻みに震えながら声を絞り出す。
「ベッテに何か聞いたのか」
「昔クリスの世話係兼遊び相手だった、くらいしか聞いていないよ」
「……本当だな?」
「いるかどうかは知らないけど、神に誓って」
「もしそれが嘘であったならば思い付く限りの処刑法を試してやるからな」
「御意」
……処刑法は一つ試したら終わりなんだが、黙っておこう。
しばらく深呼吸を続けた後、ゆっくりと、だが明確に、言葉を紡ぎ始めた。