第四十一話 流儀
風はほぼ真北から、波の先を絶え間なく飛沫かせる程度の強さで安定している。
船は半ば風に向かっていくように走っているため、肌で感じるほどには速度は出ていない。
船室から出た俺は、伸びた髪を風に弄らせながら進行方向に意識を飛ばす。
もし俺が敵の指揮官だったら、わざわざ緊急避難の利かない航路を取るだろうか。
海賊の本拠地が正確に掴めていない以上、彼我の距離差を測って安寧を信じることはできないのだ。
それを探ろうとしているから危険を孕む海岸沿いを南下しているのではあるが、特別見逃すような地形があるわけでもない、大きく回り込んだところで差し支えない場所で敢えてリスクを負うことはないのではないか。
まがりなりにも近辺を治めている海軍であれば岩礁の存在を知らないわけも無いだろうし、仮に新任者がそれと知らず艦を進めたとしても、部下はこの海の者、耳に入れて判断を仰ぐくらいはするだろう。
だとすると──
「……罠?」
「だろうよ」
背後から聞こえた声に驚き、振り向くとオーロフが立っていた。
ついさっきまでの俺と同じ方向を、さほど興味があるようには見えない視線で眺めている。
「……それと気付いていて向かうんですか。先程それも聞きたかったですね」
「まあ罠だとして、だ」
片足を引く、という最小限の動作で体ごと俺に向き、嫌味を無視するような口調で続ける。
「例えばどういう策があると思う」
「そうですね……」
頭の中で創造した俯瞰図にいくつかの動線を描いてみる。
まずは逆手を取る方法。
進軍を遅らせて先に俺たちを誘い込み、通れるとはいえ多少動きの制限されたところを包囲、殲滅する。
次に成功と思わせて掌を返す方法。
部隊を二つに分け、先遣隊が時間を稼ぐ間に後詰めが急襲する。
伏兵の可能性。
既に俺たちの回り込む先に大兵力を展開し、網にかかるのを待っている。
さらに交戦しない可能性。
空振りさせて気勢を削ぎ、密かに後をつけて本拠地を暴こうとしている。
「すぐに思いつくのはこんなところでしょうか」
「よくもすらすらと思いつくものだな。まあおそらく、その中でも二つに分ける方法で来るはずだ」
まるで悪戯小僧の悪知恵に感心したような苦笑を噛み殺し、一転して神妙な顔を作り断定した。
「最も危険度の高い作戦だと思うのですが」
「そうじゃない。これは海軍の船団が隘路を抜けるときの規則のようなものだからな、相手がそれなりにやる奴なら、わざわざ警戒させる準備はしないだろうというだけさ」
なるほど、餅は餅屋、最初からそこを狙っていたわけだ。
先遣隊だけでも潰せば足止めはでき、進軍するためには後処理をしなくては通れない。
海軍側からすれば、追い風での単純な速度なら面積の広い帆を持つ自分たちが有利であり、故に先遣隊もそれほどの被害は負わないだろう、という目算に違いない。
しかしそう考えると、逆にこちらの分が悪すぎる。
足が遅いのは変わりようがない事実なのだから、わずかに機を失しただけで全滅もあり得るのだ。
これが海賊の戦い方、と言えばらしいのだが、極論するなら俺たちが乗っていないときにやってもらいたい。
「……オーロフ・ヴァーサ、あなたは今日の戦、勝つだけで満足ですか?」
「不満はないが」
「完勝して、結果的に利益も付くというのはどうでしょう」
ここまで来ると悪知恵というよりも悪巧みなのだろうが、生き残る確率と、彼らからの信用度を共に上げるまたとない好機である。
噂先行で張りぼてのまま、というのも据わりが悪いし、それなりの戦果を献上しようではないか。
オーロフは訝しむ様子を隠そうともせずに俺を見つめていたが、両目に打算の光を閃かせると、ひとつ頷いて口を開いた。
「採用するとは断言できないが、軍師殿が必勝と言う策、聞かないわけにはいかないな」
本格的に北上を始めてからおよそ三時間ほどが経っただろうか。
俺の感覚なので正確なところは保障できないが、船の速度は時速十キロメートルか少し遅いぐらい、とすると三十キロメートル弱移動したと計算できる。
方位で見るならば、目的地である岩礁地帯から五キロメートルほど北東、というところだ。
ここからは南西に転進し、海軍と併入するように岩礁を目指す。
「距離的には海軍のほうが近くなっているだろうが、沖のほうが風は強い。おそらく予定通りに行けるだろう」
「これがちゃんとした罠なら、あちらもある程度合わせてくれるでしょうしね」
「そうだな」
俺の茶々を首肯するオーロフ。
しかし周囲の海賊たちは、数瞬の間をおいて俺の一言を理解すると、驚きを露にして口を開閉させている。
「話してなかったんですか?」
「話した気になって忘れていた。いいかお前ら、これは敵の罠だ」
こういったことには几帳面そうな印象だったのだが、そうでもないらしい。
こんなとき真っ先に突っ掛かるだろうと思われたセルマは、もはやあらぬ方向を向いて我関せず、という姿勢を打ち出していた。
「しかしだ、俺たちはこの敵の罠を逆手に取り、ぬか喜びするだろう海軍に痛撃を加え、嘲笑を投げつけて帰航する。あまりにその様子が鮮明に浮かぶものだから、帰ってどう祝うかばかりで詳しい状況を説明するのを忘れていた。許せよ」
この戦いは万全だ、負けるはずがない。
そう言い切ると、浮ついていた空気に芯が入り、信頼という熱を帯びてきた。
方法は半ば煽動のようだが、狼狽の池に足を踏み入れそうになった部下を立ち直らせ、鼓舞するという意味では成功に違いない。
「さて、そこでどうやって出し抜いてやるか、ということなんだが」
一瞬だけオーロフの瞳が俺を捉え、うまくやるから心配するな、とでも言うように笑いの形に動かす。
「おい、シェル、海軍の艦一隻でうちの船何隻分の値段になるかわかるか」
「一般的な中型艦なら二十隻分くらいが相場ですね」
シェルと呼ばれた、他の海賊に比べると細身の男が特に考え込む様子も見せずに答えた。
おそらく金銭管理など事務系統を任されている人物なのだろうが、オーロフとは違った意味で、この男も海賊らしくはない。
「そんなものか。つまりな、うちの船を二隻ばかりくれてやるから、かわりにそちらのを何隻かよこせ、というわけだ」
何の変哲もない使い古しの銅貨を、新造の記念金貨と取り替えろ、と言っているのである。
もし銀行でそんなことを言ったら、最高級の苦笑と最大級の丁寧さで謝絶されるだろう。
万が一この取引が成立することがあるとすれば、銅貨に希少価値が伴い、相手が好事家である場合に限られる。
ただの古銭を使ってくすね取ろうとすると、偽造するなり嘘八百で丸め込むなり、それなりの労力を覚悟しなければならない。
しかし、今回はそうした暗黙の約束事を遵守する必要はない。
おもむろに銅貨を投げつけて怯ませ、その隙に飾られている金貨を奪い去ればいいのだ。
……というようなことをより具体的に、作戦としての細部までをオーロフが説明していく。
俺の一般的な海賊に対する先入観から、あまり回りくどいことをするのは難しいのではないだろうか、と心配していたが、杞憂でしかなかったようだ。
適度に柔軟性を保ちながら適切な指示が飛び、受ける側も要求に対して滞りなく応える。
そういえば、初めて彼らに遭遇したときも目を見張るほどに整然としていたのではなかったか。
ひと通りの指示を出し終えた頭領は身振りだけで俺を指し示し、人の悪い笑みを作ってから、からかうように話し続けた。
「これを考えたのは向こうの軍師殿でな、なかなか海賊の流儀をわかっている」
「本物なら何も与えずに奪うところでしょうけど」
「何、俺らは物の価値ってものをよく知っているだけさ」
成功したときの名誉はくれてやる、だから責任も被れ、というところだ。
こうして悪びれもしないオーロフを憎めないのは、やはり人徳のなせる業か。
クリスに向けられる忠誠とはまた違う、人の上に立つ者特有の能力、カリスマの一種なのだろう。
「さあお前ら、ひと仕事始めるぞ!」
オーロフの声は、各所から巻き起こる喊声に飲み込まれていった。