第四十話 虚名、勇躍
「そういうわけなんでな、お前らに構っている暇はない」
海軍がここを目指している?
陸からも海からも見通すことのできない、この秘匿された隠れ家が暴かれたというのか。
それは偶然か、密告か、地道な調査によるものか。
「待て、オーロフ、あたしはそんな話聞いてないぞ」
「本当についさっきだ。沖に出ていた監視船からの信号でな、大型艦一隻を旗艦とした船団が南下中だ」
「でも、ここがバレるなんてことあるはずないし、そもそもブランデンベルグは攻めてこないんだろ?」
「落ち着け、まだ客が出て行ってない」
急なことで冷静さを欠いたセルマがオーロフに詰め寄っていたが、控えめに受け取っても皮肉としか思えない表現で窘められ退く。
だが、その顔には不満と不安を練り合わせた化粧が色濃く塗りつけられている。
そうだ。
確か彼女は海軍からの大規模な攻勢はない、と断言していたはずだ。
その情報源であるはずのオーロフは超然としていて、真意を汲み取ることはできない。
敵は敵である以上、万が一も常に想定していた、というところだろうか。
「……火急のわりにはずいぶん悠長に構えているのだな」
今まで黙っていたクリスが口を開く。
交渉、というか頼みごとをしに来たにしては横柄な言いようではあるが、そこは俺も気になっていた。
「お前らは海ってものがわかってないな。急げばいいというわけじゃないんだ」
「そうか。では我々が船に乗り込むぐらいはできそうだな」
「おい、今はどちらの立場が上なのか、わかってて言ってるのか」
「気の短い男だ。わからぬか? 手を貸そうと言っているのだ」
これはまた際どいことを企んでいる。
単純に考えれば、海戦の経験がない俺たちが船に乗り込んでも足手纏いにしかならないだろう。
そんなことがわからない少女ではない。
俺はとてつもない嫌な予感が背中を這い回る感覚に身を捩る。
案の定、一瞬の静寂を破ったのはオーロフの笑い声だった。
「馬鹿なことを言うな、お前らなんか邪魔になるぶん積荷よりも役にたたねえよ」
「なに、文字通り手を貸すわけではない。二千の手勢で三万五千を打ち倒した、その頭脳を貸してやろうというのだ」
……まるっきり嘘ではないところに悪意を感じるのだが。
その作戦を考え出したのはこいつだ、とばかりにクリスの視線が伸びると、一斉に全ての意識が俺に向けられる。
仕方ない、機会を得るために多少の辱めは甘受しよう。
「そうか、お前らシュトルーヴェの残党か」
「話は早そうだな」
シュトルーヴェが堕ちたことは、まだこの辺りでは詳しいことが伝わっていないはずだ。
それだけで広域にわたる迅速な情報網があることを裏付けていた。
以前の交戦記録もかなりの精度で保有しているようでもある。
その情報がどういうものかはわからないが、少なくともクリスの発言が誇大であることは気付いているだろう。
頭領は俺に向き直ると、相談を持ちかける風に訊ねてきた。
「頭脳の見解を聞いてみたい。今までの話で敵の目的は何だと推測する」
一応確認の意味でクリスを見遣ると、小さく頷くのが見えた。
「……それなりの数の船団で、急襲するでもない、という状況から考えると、まだこの場所は特定されていないものと判断します。演習でないとするならば、おそらくこの辺りだ、という目星はついているため、反応を引き出すための威力偵察ではないかと」
「なるほど、それはもっともだ。とすると俺たちはどうしたらいいと思う」
「このまま隠れているのも一案ですが、見つからない可能性がないわけではないことから、鼻先を叩きに出るのが最善と思われます。ただ……」
「ただ?」
「暗黙の中立を保っていたはずの軍が何故、今になって仕掛けてきたか、というところが腑に落ちません」
表情を観察するに、ほぼ同じ回答を持って問いかけてきたようだった。
最後はわずかに眉根を寄せたが、それが何を意味するかまでは読み取れない。
すぐに感情の波を鎮めたオーロフによって俺の疑問は解決する。
「先日掴んだ情報によれば、精彩を欠くブランデンベルグに業を煮やした中央が、切れ者の査察官を送り込んできたらしい」
ならばやはり、近々こういうことが起きるであろうことは想定していたわけだ。
セルマは知らなかったようだが、常に情報を共有しているとも限らない。
奔放な彼女のことだ、ここにもあまり帰らないのではないだろうか。
「いいだろう、ここに来た五人だけでもいいなら乗せてやる」
そして俺たちは海上の人となった。
今は入り江から東へ向けて出発し、陸地と海の境界が曖昧に見えるほどまで沖に進んでいる。
海賊の陣容は特徴的な偏りがあるようだ。
船はほぼ全てが小型であり、一隻につき十二、三人が乗り込んでいるが、操船だけならば三人で事足りるという。
二本の帆柱に縦帆が張られ、小回りを最優先とした形になっている。
縦帆の船は横帆に比べて速度は出せないが、帆の面積が少ない分方向転換や向かい風を切り上がるのに向いているのだ。
海賊という生業を考慮するならば、機動性に重きを置くのは必然と言えるだろう。
もちろん小型であることの弊害も存在する。
「……レイジ君、私やっぱり歩いて行こうかな……」
「今さら思わぬ弱点とか要らないから」
実は船に乗るのは初めてだというベッテは、襲い来る船酔いと戦っていた。
運動神経、特に平衡感覚にも優れているはずの彼女がこれほど弱いとは思わなかったが、きっとそのうち慣れるだろう。
慣れてくれ。
「それで、海軍に勝つ当てはあるのですか」
監視船からの報告によると、海軍は大型艦一隻、中型艦八隻、おそらく総員は三百人程度と想定された。
対してこちらは小型船が十六隻、二百人である。
あえてこちらの船は「船」としているが、それは装備の差によるものだ。
海軍の船はあきらかに戦闘を想定して建造された「艦」なのだが、海賊の船はどこにでもある船に武器を持った人間が乗り込んでいるだけで元が戦闘用ではない。
これは民間船のふりをして獲物に近付くための小細工であるから、体制として仕方のないことではある。
だが、対海軍までを想定しておくとすると、戦力としてはいささかどころではなく頼りなく思う。
船の数で上回るとはいえ、その利点を発揮しうることが可能なのだろうか。
「海軍の船は舷側にある弩がほぼ唯一の武装だ。それを掻い潜り、乗り込んでしまいさえすれば負けることはない」
「船首か船尾から向かえば被害は少なく済むでしょうが、相手も簡単にはやらせてくれませんよね?」
「ただ突っ込むとでも思ったか? いいだろう、軍師殿にも俺らの策を検めてもらおうか」
単純に聞いてみただけだったのだが、迂闊だった、気を悪くさせてしまったかもしれない。
しかし、こうして船に乗ってみるとオーロフの異質さがより浮き彫りになる。
俺は船乗りやそれに類する職業の人間と直接の交流を持ったことがなかった。
知識としては映画やドキュメントもののテレビ番組で見聞きした程度のことしかわからない。
それでも先日知り合った、今も甲板を動き回る海賊たちの印象は、予想していたものとそれほどの差異はなかった。
日に焼け、屈強で、無骨な、だが一度気を許せば気さくでもあり大らかな、海の男。
一方、俺が受けたオーロフの印象は違う。
日には焼け、屈強と言って不足はないが、どうしても無骨には思えない。
気性に関してはまだ警戒を解かれていないせいもあり言及するまでの情報は持ち合わせないが、何かが違う。
他の海賊は、セルマも含めて「気性に合っているから」船に乗っている。
ところがオーロフは「船に乗るべくして乗っている」。
……明確な表現ができないのは歯痒いが、船に乗るオーロフ、という図は他に抜きん出て絵になるのだ。
「いいか、今、俺たちはこの辺りにいる」
海図を広げ、隠れ家の入り江から東北東に向かって指を滑らせて二度叩く。
図面の正確さを真に受けるとすると、隠れ家とセルヴェスヴィークの距離を倍したほどだ。
俺の感覚と計算がまともに通用するならば、陸からおよそ二十キロメートル沖の位置になる。
「海軍はおそらくこの辺り」
指が現在地から約五十キロメートル北西に進み、少し突き出た半島を掠めて海岸沿いを示した。
形としては、海軍を頂点に、俺たちとセルヴェスヴィークを結ぶ線を底辺とした二等辺三角形が成り立つ。
「そして、ここ」
戦うべき二者のちょうど中間辺り、先ほど掠めた半島の先端近くでぐるっと指を回す。
「ここは海に隠れた岩礁が広がっていてな、戦艦が通れる海路は一本しかない」
「……しかし小さく吃水の少ない海賊の船なら、ということですか」
「そうだ。回り込んで船尾につくことができる。それだけじゃない、風は北から吹いてるんだ」
「旋回もできない」
「ご名答、なるほど大言壮語をぶち上げるだけはある」
ぶち上げたのは俺じゃないんだけどな。
このとおりに話が進めば問題ない。
問題は、おそらく指揮を執っているであろう新しく着任した切れ者がどれほどのものなのか、だ。
十六隻の船は、帆に北風を孕み切り上がっていく。