第三十一話 暁闇
引き絞られた弓のような月。
それ自体は特に真新しい感慨を覚えることもないが、それを飾り立てるように煌く星々が神経にわずかな不安の雫を落とす。
子供の頃よく眺めていた天体図には描かれていなかった空。
鮮明な記憶があるわけではないが、それでも知り得ているいくつかの有名な星座すら見つけることのできない現状に、幾度目かと思い返すのも億劫なほど自分の知る世界とは違うのだ、ということを思い知らされる。
人工の光に乏しい、方角によっては全くその存在を確認できない夜空は、逆に作り物めいた美しさを持っているように見えた。
あまりにも美しいものには近寄り難い。
そんな恐怖にも似た思いを抱くのは、決して未知の世界ゆえのことではないのだろう。
だが今は呼吸が重く感じられるような満天の星空、というわけでもなかった。
ところどころが雲で遮られ、目に見える光の粒は半分ほどでしかない。
どこが違う、とは明確に表せない月も最大の光量を発揮するには面積が少なすぎ、周囲は覆い被さるような木々によって映写前の映画館よりも密度の濃い闇を作り出している。
世界は暗く、逃亡者の姿までも同じ色に染め上げてくれるはずだった。
徐々に近付いてくる灯りの数や範囲を見るに、その数は軽く千は超えている。
今現在の戦力では言うに及ばず、囮となった分隊を合したとしてもまともに戦える数ではない。
俺たちはここで身を潜めていればやり過ごせるだろうが、既に戦闘を行っている部隊の状況は「不利」から「圧倒的不利」へと瞬く間に転げ落ちるのは目に見えている。
ゼロではなかった可能性の、その中でもさらに最も悪い状況に展開していた。
増援にはいくつかの種類があり、大別すると勝っているほうのものか、負けているほうのものに分けられる。
それらはさらにそれぞれ積極的なものと消極的なものに分けられ、特殊な場合を除き消極的なものは悪手となることが多い。
悪手に代表されるのが戦力の逐次投入だが、流れが変わるでもなくいたずらに血と時間を浪費するため、今は勝ちたくないが時間を稼ぎたい、などの戦略的判断において実践されることが稀に存在する。
ただほとんどの場合は、できるだけ保有戦力を温存したい、前線よりも自らの保身を優先する、といった愚将によって勝ちを逃す典型的なパターンであると言っても過言ではない。
しかし今回は勝っている側の積極的な増援とみられ、一分の隙もなく徹底的に勝利するための好手となり得る。
イェンネフェルト伯にこれほどまでの戦略的センスがあるとは思えなかった。
それなりに人を見る目は自信があったつもりだが、たかだか二十五年しか生きていない俺が自負するには早過ぎたのだろうか。
「……あれ、本当にあのビビリ野郎の部隊なのかな?」
先程から怪訝な表情を隠そうともしていなかったベッテが、その原因を俺に問いかけてきた。
「どうしてそう思うんだ?」
「何年か前にね、フレゼリク様に聞いたことあるのよ。私がまだここに来たばかりのころ、貴族同士の模擬戦をしたって話」
……かつてこの地方に大貴族が周遊に訪れた際、ヴィッテルスバッハ卿とイェンネフェルト伯が合同でそれをもてなしたらしい。
その席上、何か不都合な事故か事件が起きたが、穏便に模擬戦にて決着を付けようということになった。
同数の兵による模擬戦、言ってみればチェスや将棋を生身の人間で行うという馬鹿げた遊びだが、その本質故に指揮する者の優劣がはっきりする。
結果はヴィッテルスバッハ卿の一人勝ちだったが、それも相手が勝手に自滅したことによる不戦勝のようなものだった、ということだ。
「実際に見ていたわけじゃないから確かなことは言えないけど、話を聞く限り戦術と戦略の区別もつかないような奴だったはずよ」
「それが本当だとすると、例えイェンネフェルト伯の軍だとしても警備の援護とか、そういうわけではなさそうだな」
「何よ、信じられないって言うの?」
「優秀な参謀が付いたかもしれないだろう」
そうは言ってみたものの、自らの眼力を信用するならば、優秀な人間が進んで配下に甘んじるほど器の大きい人物には見えなかった。
とすると、急降下する危機感に反比例して、希望という可能性が浮上してくる。
確かに近付いてくる集団は最大速度で行軍しているふうではない。
ならば考えられる状況はふたつ。
待機していた敵部隊が行動の決断を下せぬまま、優柔不断に進軍してきている場合。
または待機を命じていたはずの味方部隊が、城の異常を察知して独断で動いてきた場合。
そして前者の可能性は、既に「念のため」配置されていた警備兵の規模からすると考えにくい。
イェンネフェルト伯が俺の思うとおりの人物だとすれば、ここにさらに余分な兵力を回すぐらいなら自分の警護に充てるだろうからだ。
「……命令無視も今回は大目に見ないといけないな」
急に緊張感を解いた俺に、そこにいた全員が訝しそうな顔を向けていた。
「それは確かなのか」
「もう少し近付けばわかるだろうけど、ほぼ間違いないと思う」
あれは敵ではなく、味方だ。
野営訓練と称して城外に留めておいた虎の子の戦力。
そもそも今の目的は無事にここを脱出してそれに合流することだったわけだが、図らずもその目的を達成したことになる。
しかもすぐさま取って返せば窮地に陥っている別働隊を救出することも難しくない。
「……確かにそのようです。先陣に見える銀の髪はアスプランド大尉でしょう」
急ぎ確認に向かった兵が戻り、推測と希望的観測がどうやら正しかったことに安堵の息が漏れる。
なにせこの距離では俺には視認することができない。
夜でも明るいことに慣れていたせいももちろんあるが、それ以前に人種として、日本人は夜目が利かない。
全ての日本人がそうだとは言わないが、虹彩の色素が薄い白人のほうが、より少ない光で活動できると言われている。
雑誌やテレビなどでよくサングラスをかけている外国人を見ると思うが、あれは強い光に弱いためであり、決して日本人のように第一義としてファッションのためではないのだ。
このメンバーの中で最も夜目が利く兵の瞳の色が、限りなく白に近い水色であることもその証明になるのではないだろうか。
半ば沈みかけていたクリスの眼に活力が戻り、気だるげだった動作の一つ一つにも鋭さを感じる。
仲間を見捨てずに済んだ。
そう声に出しては言わないが、意に沿わぬことを実行するのはどれほど精神的な負荷を享けたか知れない。
先刻までの状況というのは本来の彼女の性質からすれば選択肢にも上らなかったものであり、その枷を取り払ってしまえば本能を止めておくことなど出来得るはずもなかった。
もちろん、今や俺にはそれを止める術も理由もない。
「すぐに連携を取って引き返す。細かい策など要らぬ、ただ物量で以って押し切るのだ」
「仰せのままに」
フェーンストレム中佐がこんな時にまで寸分の狂いもない敬礼を施し、数少ない部下とともに走り去る。
残された俺とクリス、ベッテも部隊の行動線上に移動しなくてはならない。
ならないのだが。
「どうした、私たちも行くぞ」
足が震え、浮遊感に囚われている。
恐怖や萎縮ではない。
少ないとはいえこれまでも戦場を経験してきたのだから、そういうものではないはずだ。
それにこの感覚は知っていた。
かつて初めて射場に立ったときに、二度目のときに、それからもずっと感じたもの。
「……ああ、わかってるよ」
研ぎ澄まされた緊張が高揚感を押し包み、ひとつだけ大きく呼吸をすると水を打ったように収まってゆく感覚。
武者震い、と名付けられた現象だった。
それからのことはよく覚えていない。
ヒューゴらと合流し、わき目も振らずに木々の間を縫い、慌てふためく敵を打ち払う。
奇跡的に軽微な損傷に留まっていた友軍を助け出し、確実に安全だと思われる場所までひた駆けた。
気付けば俺は怪我をしていた。
少数ながら死者もおり、もう戦えないほどの傷を受けたものもいた中で怪我と言うには憚られるが、大きなものは右腕と左脚に剣で切りつけられたと思しき切創が目立つ。
とはいえ縫合が必要なほどではなく、傷口からの感染さえ気をつければ問題視するまででもない。
部隊には俺の現代医療知識を参考にした道具が可能な限り揃えてあったのも幸いと言えるだろう。
何せ俺が来るまで、この世界には消毒という概念すらなかった。
傷口は消毒し清潔に保つ。
当たり前に思えることだが、それによって破傷風などの感染症は劇的に減少した。
現代日本では子供の頃の予防接種によって発症することも少ないが、ワクチンなどのない時代に於いては致命傷にもなり得る。
それ以外にも衛生管理で防げる病気は多く、例えばペストなどの凶悪な伝染病もある程度予防することができるだろう。
これらはまず俺が手を付けた仕事のひとつでもあった。
俺の知っている程度のことでは薬を作り出すことはできないのだから。
「ようレイジ、お前さん訓練以外で怪我したの初めてじゃねえか?」
「ええ。まあ、今まで慣れてないのもあって突っ込みきれてなかったんです」
「ようやくこれでいっぱしの戦士、ってわけだな」
「俺は頭脳労働だけでもいいんですが」
「がっはっはっは! 何事もできねえよりはできたほうがいいってことだ!」
俺たちは今、シュトルーヴェ城から南東におよそ四十キロメートルほど離れた山あいで休息を取っている。
東の空が白み始めるころにここに辿り着き、既に太陽は中天近くまで昇っていた。
こうして笑いあっているスヴェンをはじめ、クリングヴァル中佐や主要なものにそれほど大きな怪我はなく、これから先のことを忘れてしまうならばほとんどが無事に脱出を果たしたと言えるだろう。
陽動部隊のうち戦闘の中で命を落とした、或いは捕まったものは二十名前後、逃走中に事切れたものが四名。
少なくともしばらくは戦えないであろうものは三十七名。
他はそこまでではなくとも全員がなんらかの傷を負っていた。
数倍する軍勢に囲まれていたことを考えれば、生還率七十パーセント以上というのは驚異的なものと言える。
「自分と、クリスくらいは守れるようにならないと、とは思ってますけどね」
「副官が守られてちゃ話にならんからなあ」
「……鋭意努力させてもらいます」
確かに自分を鍛えるのも必要ではあるが、当面はそれよりも重要なことがある。
果たして負傷者も含めた二千人にもなる連隊全員を引き連れて身を隠すことができるのだろうか、ということだ。
さすがにこの人数では、いくら何でも行商人や旅芸人の一座を装うことは難しい。
この後、俺たちの受け入れ先を探すか、アルヴィーカのような抵抗組織を作るか、ということになるだろう。
どちらにしても容易に進める道ではないが……。
「イトウ中佐、カッセル中佐、少しアッテルベリ大佐にお伝えしたいことがあるのだが、どちらにいらっしゃるかご存じないか」
横手から、普段見たこともないほどラフな着こなしのクリングヴァル中佐に声をかけられた。
いつ火急の呼び出しがあるかわからない、と休日であっても昼間は軍服を着込んでいるような人物でもあり、その違和感は並のものではない。
こうして希少な状態でいるのは包帯で吊り下げられた左腕のせいであるが、雨季が終わり気温も上がろうかという時間に、それでも肩には上着を羽織っているのだから恐れ入る。
「大佐でしたら負傷した兵を見回りに行きましたが」
「なるほど。では、そうだ、お二方にもご同行願いたい」
ちょうど俺もクリスと相談しようと思っていたところだった。
渡りに船、ではないが、面倒は一度に済ませたほうが後々楽になるというものだ。
「わかりました、行きましょう」