第二十八話 ひとすじの光へ
騒然となる室内。
そんな馬鹿な、という声が上がるかとも思ったが、この部屋にいるものは誰も俺を疑わなかった。
これも俺の人徳……と言うには多少目先が違うだろう。
何よりも、奴ならやりかねない、という共通の偏見が都合のいい流れに身を任せたのだ。
騒がしい空気には少なからず動揺というエッセンスも含まれているが、飛び交う指示や確認はそれを感じさせないほどには的確である。
よほどの聖人君子でなければ嫌いな人間はいるし、特に嫌われる人間というのも、確かに存在する。
俺たちの部隊の九十九パーセントを占める平民にとって、イェンネフェルト伯はその例に当てはまる人物だった。
彼は領民に定則以上の苛政を敷くわけではなく、他と大差ないごく一般的な領主であったが、それは多分に漏れず貴族的な支配とも言える。
自らは何もせずに甘い汁を掻き集め、さらにはそれを見せびらかすように酒宴や舞踏会を開く、というようなことを悪意も持たずに行い、それにわずかな罪悪感も感じない。
首都に近い土地の領主のように、目に留まったからといって鞭で叩いたり、銃で追い立てて逃げ惑う様を楽しんだりはしなかったが、だが、ただそれだけだった。
俺たちの同盟に参加したのも、皇帝に納める税が惜しいとか、どうせその程度の理由だろう。
それが「一般的な領主」であることを考えれば、フレゼリク・ベイセル・ゴトフリート・ヴィッテルスバッハは異端以外の何者かであろうはずもない。
しかし、この場はそのおかげで流れに指向性が付けられたが、まるで煽動したようで気分はよくなかった。
相手が裏切るのは時間の問題で、俺たちの側が圧倒的に弱者だとしても、何かこちらがいじめの首謀者にでもなった気分だ。
昔から何かを一方的に決め付けるのは好きではなかったが、今はそれを気に病んで無為に時を浪費している余裕はない。
当面は早急にクリスの身柄を確保することが優先される。
懺悔は無事に生き延びることができてから考えるとしよう。
「俺はクリスを連れてきます。スヴェンはできるだけ正確に準備の概要を説明しててください」
「面倒な注文だが、やらねえわけにはいかねえな」
ベッテへの説明を怠ったことへの意趣返しのつもりだったが、どうやら既に忘れたことにしているようだ。
独特の表情で笑う大男に苦笑で応じて、自分の仕事を果たすために背を向けた。
滑るように会議室を出て、不自然ではない程度にクリスの元に急ぐ。
まだこちらが気付いていることを悟らせてはいけない。
幾度か擦れ違った衛兵に咎められることはなかったが、警戒の目の奥にはあからさまに嘲笑と揶揄が透けて見えた。
せいぜい今のうちに自由を謳歌していろ、とでも思っているのだろう。
未然に防げなくては誇るべくもないが、どうやら俺の予想通りであるようだ。
クリスが使っていた皇族専用室は封鎖されている。
そのフロアには城の者ならばおいそれと近付いたりはしないために先日まではそこで寝起きしていたが、部外者までもがそうであるとは限らない。
隠れる、という一点を見ればそこが最も安全なのだろうが、もうひとつの理由として、見晴らしを優先した造りのために逃げ場がないというのは致命的だ。
今、クリスはベッテの部屋の続き間に間借りしていた。
「ベッテ、居るか」
気持ち控えめに扉を叩く。
数秒の沈黙の後、内側に人の気配がやってきた。
「誰?」
「レイジだ」
「合言葉は?」
「……遊びに来たんじゃないんだけど」
久し振りに肺から大量の空気が押し出された。
警戒してすぐに扉を開けないのはいいが、そんな遊び心たっぷりな余興に付き合っている暇はない。
無理にでも開けたほうがいいか、などと迷っているうちに鍵を外す音が聞こえた。
「そんな融通の利かないのはレイジ君に間違いないわね」
「急ぎの用があるときに冗談なんかやってられるか」
「じゃあちょっと入って」
「いや、だから急ぎだって……!」
細く開いた隙間から伸びてきた細い腕に手首を掴まれ、綺麗に逆間接が極まった状態で引っ張り込まれる。
体が廊下から消えた次の瞬間、或いは同時だったかもしれないが、神業の如き速度で再び錠を掛けた。
ああ、そんな不自然な、見る人によってはもしかしたら逢引きに見えなくもない風に引き入れなくてもいいではないか。
「あのビビリ野郎が裏切るのね」
息は吐き切ったと思っていたが、人間の体は意外と余裕を残しているものだ。
酸素を吸うのも忘れてベッテを見やる。
銅葺きの屋根に映る月光をそのまま閉じ込めたような鋭い眼。
外面を繕うためではない本気の目を初めて見た気がした。
ベッテは驚愕の自失から抜け出せずにいる俺に、わざとらしく呆れたような声で問いかける。
「レイジ君、あなた私を誰だと思ってるの?」
「……そういえばベアトリクス・ヤケヴォだったことを思い出したよ」
何故かわからないが、この美人秘書官は大抵のことは何でもできてしまう。
ただその驚異的な能力は、俺への悪戯という非生産的な用途において発揮されることが多いのが玉に瑕だ。
今回はそれが有意義に運用された数少ない事例になるのだろうか。
単に興味本位の諜報活動だった、という可能性も否定しきれないのだが。
ふと顔を上げると、視界の半分ほどまでが乳白色に揺れた。
元が金だとわかる限界まで白銀を混ぜたような、緩く波打つ髪。
思わぬ距離にいた少女は、そのことを意にも介さぬ様子で俺を睨み付けている。
「大体の話はわかっている。貴様も私に逃げろと言うのか」
「俺も?」
他に誰が、と一瞬思ったが、それができるのは一人しかいない。
ベッテの様子を窺うと、手間は省いてあげたわよ、という顔でちろりと舌を出した。
最終的な説得は副官の役目、ということだ。
「クリス、逃げるのは嫌なんだね」
「自分だけ逃げるなど、そんな行為が赦せるわけなかろう」
「その気持ちはわかるよ。でも……」
「ならば私は残る!」
予想されていた答え。
窮地の中自分だけが助かるというのは、どうあっても容認できないだろう。
少女の生来の気質に加え、先日ヴィッテルスバッハ卿を救えなかったことも影を落としこんでいるはずだ。
しかし、だからといって、今は小児病のようなそれを受け入れるわけにはいかない。
本来は美点であるべきその真摯さも潔癖さも、時に命題を霞ませる欠点となりうる。
「ここで終わらせてもいい程度の決意だったのか?」
俯いたクリスの体が一度だけ大きく震える。
こんなことは言いたくなかった。
もっと巧い言葉があっただろうに、こんな情に訴えるだけの陳腐な言い方しかできなかった。
激しい自己嫌悪の波が押し寄せてきているが、ここで引き下がっては蛇頭なうえに蛇尾にまでなってしまう。
さらにその目を描き忘れることになっては、それこそ目も当てられない。
「言っただろう、国というのは思ったよりも重いんだ。もしかしたらクリスには重過ぎたのかもしれないな」
「……私の器が足りなかったのだ」
「だから、俺たちがいる」
「あ……。しかし」
「力が足りなければスヴェンたち大隊長がいる。技が足りなければベッテやヒューゴがいる。……雑用の手が足りないなら俺もいる」
我ながら情けない立ち位置だが仕方ない。
俺にできることといえばクリスの負担を引き受けるぐらいしかないのだから。
わずかに赤く腫れた目は一心不乱にどこか一点を凝視している。
「でも、俺たちだけでは何もできないんだ。俺たちを導く象徴が、クリスティナ、君がいないと何もできない」
言いすぎかな、と思わないでもないが、俺が恥ずかしいだけで済むなら安いものだ。
たった十七歳の女の子に背負わせるには厳しすぎる現実。
それを受け流せず、受け止め切れなくて溺れかけている少女。
手を貸すことしかできないのに、彼女に縋らなければそれも儘ならないという背反。
それでも俺は助けたい。
偶然この世界に来たのだとしても、この思いだけは必然だと確信している。
そのための労など惜しむべくもない。
「……そこまで言われては仕方ないな……」
「今は生きて、全部終わったら、迷惑をかけた人たちに一緒に謝ろう」
「そう、だな」
短く息を吐いたクリスは、どこか覚悟を改めたように唇を引き締めた。
それでこそ俺たちが祭り上げるに足る女神様、といったところだ。
先程までの弱さが嘘のようでもある。
「……ねえレイジ君、それ、プロポーズ?」
「な、違っ」
「はいはい、からかっただけだから本気にしないの」
不意の悪戯が成功したベッテは鈴を転がすように笑う。
俺はもちろん、クリスまでもが火を噴くように赤くなったことは言うまでもない。
いくばくかの時間を浪費しつつも、落ち着きを取り戻した俺たちは差し当たっての針路を話し合っている。
万が一、この何分かが致命傷になるようなら然るべき処分を検討しなくてはなるまい。
これは俺とクリスの共通意見であり、数的弱者を虐げる民主的な多数決の末にわずか三秒で可決された。
「あとはできるだけ早く、なるべく気付かれずにスヴェンたちと合流したいな」
「それなら心配することないわ。誰にも気付かれずに好きなところまで行けるもの」
「どういうことだ」
「この城にはね、私しか知らない隠し通路が蟻の巣のように張り巡らされてるのよ」
「……道理で」
勝ち誇るように笑うベッテからは見えないように溜息を吐く。
これでは先程の問題は不問にしなくてはならないではないか。
とりあえず、何故知っているのか、何故そんなものがあるか、今まで何に利用されていたのかはこの際無視しよう。
優先されるべきは真相の究明ではなく、あるものをいかに効率よく使うか、という現実主義的なものだ。
無遠慮なノックに、それなりの厚みを持つ扉が悲鳴をあげた。
「さっさと開けろ! 聞こえないのか!」
軋み続ける扉の向こうから、小動物を威嚇するような下卑た声が響く。
自分が圧倒的優位に立っていると信じ込んでいる人間の声だ。
「あら、来ちゃったわね。どうしようか?」
いつの間にか両手に持っていた剣のひとつを俺に差し出しながらベッテが言う。
「それはひとにものを尋ねる態度じゃないね」
「どうするかなど考えるまでもない」
「もう、せっかく和ませてあげようと思ったのに」
年甲斐もなく頬を膨らませたままの秘書官は、渋々と「専用通路」へ俺たちを誘う。
こんなときに軽口を叩くのも俺たちらしいのだろう。
互いに頷き合うと、ひと筋の光も差さない抜け道から脱出を開始した。