第二十四話 膠着は疑念となりて
小さな丘を二つ越え、やや大きな三つ目の頂まで来ると、ようやく敵味方の判別ができる程度には幽かな影を確認できた。
打ち合い、時には擦れるような金属の音は雨を圧して響き渡り、統制が取れているようでいて実は全体的に調子が外れているだけの雄叫びが大地を揺るがしている。
戦局は想像していたよりも大きく動いていた。
開戦からまだ間もないことでもあり、この時点では膠着しているだろうと踏んでいたが、一息ごとに戦列を押し上げている。
両陣営は互いの高い位置から中央の低い位置──川になるほどではないが──へとなだれ込むようにして戦端を開いていたが、戦意の高い義勇兵によってカール軍の先陣ははじりじりとではあるが後退を余儀なくされているようだ。
恐らく既に後方では殿軍とヴィッテルスバッハ隊が交戦しているのだろうが、ここからは視認することはできなかった。
盾と槍を主な兵装とする白兵戦の場合、日本の「合戦」のような乱戦にはなりにくい。
甲冑をよろった兵が横一列で前面に盾をかざして壁となし、その隙間から攻撃、或いは盾同士をぶつけるようにして押し合うため、よほどのことがなければ敵味方が入り乱れるということは少ないのだ。
これは乱戦による不測の被害を抑えるためではあるが、故に戦力差が少ない場合は得てして消耗戦になりやすいという欠点もある。
結局はより強い圧力で敵の列を打ち砕いた側が勝者となるのだが、実際はそう単純でもない。
波状攻撃であったり一点突破であったり、或いは擬似後退によって敵戦列を乱すなど、いかに隙を作るかという知略戦の一面も持っている。
つまり普通はこのまま削り合うのではなく、何らかの前哨戦としてこの形を採ることが多い、というところだろう。
ただの力押しで決着するのなら、そもそも戦争など成立しないのだから。
俺たちの三正面作戦は、もちろん混乱を誘うこともひとつにあるが、本来は柔軟な作戦行動を行うために採用された。
敵が三方向に戦列を構えるならば半包囲態勢に移ることができ、正面か後背に向けて突破を図ろうとすれば攻勢を受けない二隊を糾合し挟撃に当たり、側面を抜けようとするならばただ挟撃の餌食となる。
開いている一方に後退しようものならそこは下り斜面であり、数と勢いで勝る全軍を以って殲滅してしまえばいい。
敵にしてみれば、消耗戦になる前にいずれか一方を打ち破って各個撃破、または逆に半包囲を仕掛けようとするのが基本的な考え方になると思うのだが、果たしてどのような手を打ってくるものか。
今のところほぼ同数の兵力であることも手伝って戦況は緩慢に推移しているが、流れを加速させる一石は時を置かずに投げ入れられる。
「案外押しているな。このまま一気に趨勢を決めてしまうぞ」
「それは賛成だけど、押しているせいで直進するとただ合流するだけだ。念のため回り込んだほうがいい」
「よし、では迂回して丘を下り、側面から攻撃する」
雨避けも無く疾駆する馬上で、鈍く輝く剣を進路に向ける。
ただそれだけで自らの体のように人の波を操っていた。
将器──現代風に言えばカリスマとでも言おうか──その類稀な才能は視界の不良による指揮系統の乱れなどとは無縁であるようだ。
神速と言っても過言ではないほどの速度で敵側面に回り込み、控えめに言ってもけしかけたとしか言えないようなクリスの号令で突撃する。
慌てふためく敵集団を騎兵が一撃離脱によって突き崩し、その隙に歩兵が長槍を駆使して牽制しつつ、重装兵が大盾を並べてゆく。
理想と寸分違わぬ完璧な形で俺たちの戦いが始まった。
普段なら止めても前線に出て行くクリスではあるが、今回はさすがに大人しく後方指揮に徹している。
というのも実は甲冑を着て大盾を構えることができなかったからで、それさえできればすぐにでも飛んでいくのだろう。
俺も試しに着てみたが、あんな重いものを身に着けて動ける人間を女性とは認めない。
つくづく日本人はこういうことに向かないのだなあ、と思ったものだ。
決して負け惜しみとかそういった類ではない。
「さて、このままとも思えぬが……どう思う?」
既に俺たちが参戦してから、両陣営ともさしたる被害も無いまま一時間ほどが経過していた。
初撃こそ効果的に機能して優位に立ったが、さりとて敵もやるもので、わずかな時間で立て直して抗戦の構えを取った。
しかしそれ以降も前線には三つの連隊を順に当たらせているが、あまりにも反応がお粗末に見える。
押せば退かれ、退けば押され、まるでこちらを観察しているようだ。
その違和感に、やはりクリスも気付いていたらしい。
「何かを待っている感じだとしか」
「増援か?」
「可能性としてなら、そうだね。でもその気なら最初から大兵力を揃えることもできたはずだし、わざわざ別働部隊を組織するとも考え難いんだけど……」
それは「そうしないことに意味がある」ということでもある。
表面だけをを見るなら、俺たちを討つのにはこの程度で十分、という挑発のようだが、そんな見え透いたことをするだろうか。
示威行為ならば正規軍を伴って数で圧倒するほうが効果的で、かつ風聞するカールの性格に沿うように思えるのだ。
ただし権謀術数は用いても小細工は弄さない、という俺の評眼が正しければ、ではあるが……。
「大外れでない方法としては、有り得るかもしれない」
今になってこの可能性に気付いた自分に憤りすら覚える。
急拵えとは言え、不足の無い戦力を有したが故の気の緩みがそうさせたのか。
戦略家としてのカールが何を以って勝利たらしめようとしているか、ということにまるで思いが至らなかった。
一つの戦場の結果を無視できるほどの「何か」があるとしたら?
「大外れでない、というのはどういう意味だ」
「増援があるとしてもここには来ない、というのはどうかな」
「……シュトルーヴェか!」
寄せ集めの兵を囮に、本命の正規部隊が手薄な城を急襲、陥落させる。
城に残っている人数はそれなりのものではあるが、統率の取れていない集団は良く言っても烏合の衆でしかない。
抵抗らしい抵抗もできずに払い除けられてしまうだろう。
仮にここでカールを打倒、或いは捕らえたならば勝算は見えてくるが、そんなことがわからない敵ではない。
この策を採っているとすればここにカールはいないと見るべきか。
ならば先程からの鈍重な動きにも説明が付く。
あとは補給がままならなくなった俺たちを捻るのも、人質を盾に降伏を勧告するのも自由自在というわけだ。
「もしそうされていたとしたら、俺たちに勝ち目は無い」
「いや、今から戻れば間に合うかも知れぬ!」
「落ち着いて、クリス。カールがそうしようとしているなら、もうひとかけらですら勝ち目は無い。でもそうじゃなかったら? 勝てる可能性を棄てて敵に背を向けるの」
「……絶対に間に合わんのか」
「クリスは俺よりもカールのことを知ってるはずだよ」
「そうだな……そうだ。奴がそんな猶予を残しておくわけが無いな」
動揺と焦りで震えていたクリスに落ち着きが戻ってきた。
諦めの成分もいくらか含まれているが、狼狽しているよりは何倍もいい。
俺の言ったことは詭弁でしかないことはわかっているだろうが、それでも俺たちはそれに縋るしかないのも事実だ。
それにこのまま何事も無く勝てるならば、今のやりとりも妄想に振り回された馬鹿な出来事として笑い飛ばせば済む。
是非そうなってほしいものではあるが。
「ならば、まずは当面の憂いを断つとしようか、中佐」
「敵は持久の構えを解きません。しかし、我々がそれに付き合うというのも間の抜けたことではありますね、大佐」
短い時間の中で活力を取り戻した上官が悪戯に微笑む。
こうでなくてはいけない。
無闇に時間を費やすだけの戦い方がこの少女に似合うはずも無かったのだ。
「前線に伝令! 一時後退、連隊ごとに紡錘陣を組み、敵防衛線を突破せよ!」
……結論を言えばその指示は適切だったのだろう。
高揚に起因する粟立ちは、だが、他の原因に取って代わられるまでそう長い時を必要としなかった。