第十七話 帰りは怖い
山岳地帯と丘陵地帯とを隔てる河辺で行われた戦い。
あれから六日が過ぎ、本来であれば今頃は勇躍してシュトルーヴェ城に凱旋していたことだろう。
だがしかし、俺たちは未だ帰路の途上にある。
それは何故か。
その問いの答えは明白であり、至極簡潔なものだ。
予定していたよりも行軍速度が遅いから、である。
俺たちは勝利した。
少数でもって多数を討ち倒し、被害らしい被害も無い。
何せ総勢一万五千人のうち、死傷者は一パーセントにも満たなかったのだから。
戦術的には驚異的な大勝利と言える。
故に疲労による遅れを鑑みるとしても、昨日辺りには余裕を持って到着しているはずだった。
しかし、ひとつだけ想定外の問題が発生したのだ。
数で俺たちを上回る捕虜の存在である。
アルヴェーン伯軍三万五千のうち、五千が戦死し、一万は河を越えて撤退したが、残る半分以上、実に二万人余が戦闘を放棄し捕虜となった。
いくら元が平民であるとはいえ、一時的にでも軍籍にあるものを野放しにはできない。
解放するにしても、城に戻ってから然るべき手続きをし、その上で処遇を決めねばならないのだ。
これは思わぬ失態だった。
勝つつもりでおきながら、作戦通りに事が運べばこうなるであろうことを失念していた。
俺個人としては、そこまで関われる権力が無いと言えばそれまでなのだが。
クリスに進言していれば事前に対策を取れていたはずだと思うと、やりきれない。
電車で街に買い物に行ったとき、予定の品物分しか金を用意していなくて歩いて帰る羽目になったような感覚に近いかもしれない。
……まあ、そんな希少な経験を二度もしたのは俺くらいだろうが。
それにしても、彼女なら俺が言わずともこうしたことには気が回っていそうなものだ。
一応は名誉の為に、鬼の霍乱、とでも言っておこうか。
現在は道程も八分を越え、何事も起こらなければ明後日の夜には到着する。
捕虜の対応やら処遇やらは俺たち軍人の仕事ではないから、心苦しくも俺は暖かいベッドで睡眠を貪ってしまうだろう。
そのためにも今は「何事も起こらないように」細心の注意を払わねばならない。
食糧の問題は無い。
先に馬を走らせた部隊によって、数日前から補給物資が届くようになっている。
それなりに人数も派遣され、今のところ監視体制にも問題は無い。
だが今夜は、暴動、或いは脱走が起こる可能性が最も高い。
いくら両手を封じられていようが、敵に捕まっていることを由としない者は少なくないはずだ。
少しでも頭が働くなら、何も無い平原よりも山間部に入って見通しの悪くなる今夜を狙うだろう。
しかもよからぬ企みを持つ者にとって幸運なことに、今夜は新月でもある。
自然と俺たちの目も厳しくなるというものだ。
「こんなことまでしなきゃならんものかね」
「そうぼやくなよ。脱走されるだけならまだしも、本格的に暴動でも起きたらこの間より被害が出るかもしれないんだから」
「でもよ、あいつら平民だぜ? 大人しくしてれば解放する、って説明したじゃねえか」
「もしヒューゴは皇国軍に捕まってそう言われたら、信用するか?」
「……そりゃあ、できねえけどよ……」
「そういうことなんだよ、戦争っていうのは」
俺たち二人は野営の準備をしている人だかりから外れ、それぞれ両手では抱え込めない太さの木に体を預けながら、目だけを周囲の様子に彷徨わせている。
決してさぼっているわけではないが、何か居心地が悪いのも事実だ。
精力的に作業を手伝うクリスを休ませるために使った方便によって、俺もまた沙汰を無くしてしまったのだ。
上官が休まないと部下も休めないから。
我ながら小賢しいことを言ったものだが、それを聞きつけた下士官たちは体よく口煩い上官を排除にかかったのだった。
隣の男は納得がいったようないかないような、そんな明瞭としない表情で銀色の頭を掻き回している。
暴動対策。
万が一の場合の制圧を容易にするため、捕虜を小集団に分けて連動の恐れがなくなる程度に各々の間隔を取った。
確かにここまで露骨にやると逆に刺激しているような気がしないでもないが、俺としては喧騒が減った分だけ気は楽になった。
昔から人が多いのは苦手なんだよな……。
「イトウ中佐、こちらでしたか」
「どうかしたのか?」
駆け寄ってきた大柄な青年が、隣にいるヒューゴと似た表情を貼り付けて俺の前で敬礼を取った。
アメフト選手のようながっちりとした体を持ち、さわやかな笑顔が似合う顔には短く揃えた金色の髪で清涼感をさらに強調している。
この絵に描いたようなナイス・ガイの名はロベルト・トーマス・ヴェストベリ、階級は少尉である。
そのヴェストベリ少尉には似つかわしくない表情が、何か普通ではない事態を物語っている。
「お耳に入れるかも迷ったのですが、小官の一存では判断しかねると考えましたので、報告いたします」
「話してくれ」
「先日より円滑な事後処理の為に捕虜の名簿を作成していたのですが、その中で不審な者を発見しました」
「不審とは?」
「はい、不遜にも皇族に連なるものと主張するのですが、それらしき証拠は見当たらず、身なりも平民と変わるところはありません」
「……もしそれが嘘なら不敬罪になるかな?」
「皇国の法を適用するのであれば、そうなります」
「そうか」
ということは、馬鹿か本物かどちらかだろう。
馬鹿であると助かるのだが。
「このことは誰かに?」
「私と、始めに取り調べた下士官の二人だけです」
「他言無用を徹底してくれ。騒ぎになっても面倒だ」
「はい」
「ではその不審な者をアッテルベリ大佐のところへ連れて来てくれ。俺も向かう」
「了解しました」
ヴェストベリ少尉の背中を見送ってから、体を木から離した。
ヒューゴはまだ微妙な表情のまま動こうとしない。
話は聞こえていただろうが、興味が無いようだ。
「どう思う?」
「本物かどうかか? どっちでもいいんじゃねえの。嘘なら処罰なんかしねえだろうし、本物なら殺すだけさ」
「殺すことはないだろう、利用できるかも……」
胸元に衝撃を感じ、声が詰まる。
ヒューゴに胸座を掴まれていることに気付いたのは、二度の瞬きを終えてからだった。
「殺すさ! 革命に交渉は要らねえだろう!」
「……そんなに憎いのか」
「当たり前だ! できることなら俺がこの手でひとりずつ縊り殺してやりたいほどにな!」
その両眼には、かつて俺が見たことのないほどの憎悪が燃え盛っていた。
興味が無かったのではない。
そう割り切っていたからこそ、無関心だったのだ。
思えばこうした激情を秘めているものでなければ、国を覆すための戦いに身を投じることはないだろう。
そうでなければただの戦闘狂でしかない。
不意に俺を掴む力が抜けた。
「悪い、つい熱くなっちまった」
「いや、俺も軽はずみなことを言って悪かった」
ヒューゴはばつが悪そうに頭を掻き、再び木にもたれかかる。
「クリスのとこに行くんだろ? 急がねえとヴェストベリが先に着いちまうぜ」
「ああ、悪かったな」
「よせよ馬鹿野郎」
不機嫌そうに照れながら苦笑する、という器用なことをするヒューゴと別れ、足を速めてクリスの元に急ぐ。
それにしてもあの剣幕は尋常ではなかった。
過去に何かがあったには違いないが、俺はまだそれを知らない。
知るべきではないのかもしれない。
知ったところでどうにかできるとも限らないし、そもそも聞けば教えてくれるかも定かではない。
クリスが皇女であることをヒューゴに教えなかった理由が、少しだけわかったような気がした。