第十五話 星に願いを
俺はこちらの世界に来て以来、慢性的な筋肉痛に苛まれている。
それは何故か。
もちろんそれまでの運動不足が祟っているのもあるが、何よりも馬に乗る機会ができたからに他ならない。
こちらでは馬に乗れないとどこにも行けない。
俺の地元、東北地方の田舎町における自動車のようなものだ。
いや、自転車がある分まだマシだろうか。
馬に乗れなければ馬車に乗る、という手段もあるにはあるが、それではあまりにも格好が悪い。
それに戦場に出る軍人がそんなことでは、いい物笑いの種になるだろう。
そういった事情から、アルヴィーカの村を出て以来、開いた時間には馬術の訓練を余儀なくされている。
最初の頃は、馬を触った経験など無く、競馬用のサラブレッドを遠目に見たことがある程度だった俺は、初めて補助輪を外した自転車に乗る子供のような状態だっただろう。
それでも今では訓練と言う名のしごきを経て、ようやく人並み程度には乗れるようになってきたと思う。
熟練者の集団から遅れずに行軍できている点から見ても、それほど大それた自信ではないはずだ。
今、俺たちは本隊から先行して、戦場となる予定地点へと北上していた。
夜明けと共に出立し、明後日の昼ごろには目的地に到着する。
通常の行軍速度であれば、おそらく六日ほどは要するであろう距離だ。
無謀にも思える強行軍だが、当然理由があってのことである。
無謀であるが故に敵はこの行軍速度を考慮しておらず、意表を突いて攻撃できるということ。
陽動が成功すれば、地理的な条件から本隊は有利に戦いを進められるということ。
どちらかだけでも決定的になり得るだけに、両方を兼ね備えるこの土地を選んだのは必然と言えた。
「ヒューゴ、間に合うと思うか」
「今のところ早すぎるくらいだけどな。まあ多分、大丈夫じゃねえか」
「そうか。それはよかったけど、一応回りも気にして敬語使ってくれないかな」
「……なら名前で呼ばないでくれますか、中佐」
「これは失礼した、アスプランド大尉」
ヒューゴ・アスプランド。
銀灰色の髪を首の後ろでひとつにまとめた、やや骨っぽい印象を与える青年の姓名である。
実は形式的に行われた任官式の席上で初めて、ヒューゴの姓を知ることになった。
だがどうやら俺だけでなく、クリスも知らなかったらしい。
既に振られているとはいえ、想い人に本名を知られていなかったのだ。
よほどショックだったのだろう、一週間ほどはまるで死体が歩いているかのようだった。
いよいよ明日には目的地が見えてくるという焦燥感も手伝って、日が落ちてもしばらくは進軍をやめなかったが、さすがに今夜ばかりは夜を徹して走るというわけにもいかなかった。
馬を休ませねばならなかったし、いざ戦うとなった時に体調不良では目も当てられない。
兵たちは素早く野営の準備を済ませ、主だったものはクリスのテントに集まっている。
「どうやら予定より早く行けそうだな。兵の様子はどうだ?」
「ニ交代で休むように指示しました。特に混乱や遅れなどは生じておりません」
「よし、では明日の作戦を確認する」
俺たちの最大の目的は敵の動揺を誘い、注意を引き付けることにある。
単純に戦力として三万五千対二千では話にならないが、問題はいかに本隊である一万五千が倍以上の敵を打ち崩せるか、ということだ。
そのための陽動作戦であり、その成否が以後の戦局を決定せしめるのだ。
地図を開き、予定されている行動線をなぞっていく。
「敵は北の山間部を抜けると、およそ一時間ほどで作戦地点の丘陵地帯に入ると推測される。山腹の宿営地からの進軍速度を考えると恐らく太陽が中天から傾き始めるころになると思う」
「そうですな、歩兵の数が多いので若干遅れるかもしれませんが」
「あまり遅れられても困るのだがな、そこはアルヴェーン伯の手腕に期待しよう。そして問題はここだ」
指し示されるのは山岳地帯と丘陵地帯を東西に分断する二本の線。
その線の幅は一定でないが、実際は特に名付けられているわけでもない河川が西から東へと向けて流れている。
名が無いとはいえ、その幅は最大三十メートルほどに及び、最小部でも十五メートルはあるという。
平均的な成人の膝下程度の深さしか無いために徒歩での渡河が可能であり、荒天時でもなければさしたる障害たりえないのだが、その些細な障害こそがこの作戦の重要な点でもある。
渡河を終えると向かって正面から左側にかけて、方位で言えば南から東側にかけて、丘と呼ぶには憚られる高さを持つ「丘」が聳え立っているため、それを避けて西側に回りこむように大きく迂回するのが常となる。
するとそこは一時的に北部と東部を河に、南部を丘に囲まれ、広い平野においてただ一箇所、大兵力を存分に行使できない地形へと変貌するのだ。
いざ戦闘となると、些細だったはずの障害が限りなく大きくなるものだ。
自動車に乗って時速五十キロメートルでは緩やかに思えたカーブも、時速百五十キロメートルでは恐怖感を刺激するものになる、と言えばいくらかわかりやすいだろうか。
「ここでは西側にしか戦線を展開できないため、兵力の多寡はそれほど重要なものではなくなる。つまり普通に戦っても負け難い状態になるわけだが、消耗戦となれば数に劣る我が軍はどうしても不利となるだろう。いくら個々の力量で上回っていたとしても、な」
個人の戦闘力、技量とすれば、恐らくこちらのほうが上なのだろう。
それは精悍なるヴィッテルスバッハ兵としての矜持ではあるが、根拠も無くそう言えるほど思慮に欠ける人間に、少なくとも俺はまだ会っていない。
クリングヴァル中佐、フェーンストレム中佐は苦笑いを押し殺しつつ、聡明な孫娘を見るようにして頷く。
仮に同数の兵力であれば絶対に負けはしない、という信念の表れでもあるが、それを実証できないことを残念がっているようでもあった。
「そこで我々の出番、と相成るわけですな」
「そうだ。敵の後方を扼し、完全に注意を引き付けた上で離脱。その後本隊の支援に入る」
方法論としては以前、オーシャで鶴翼陣を突き崩したものに近い。
戦力を一点に集中させて敵陣を掻き回すのだ。
これは新兵が多い編成でも統率が容易であるということが利点とされる。
しかし止めても聞かないことではあるが、クリスが先陣を切るのは頭痛の種でもある。
これがまた突破力に明らかな違いを生み出すから性質が悪い。
どうやら兵たちはうら若い美貌の女神を崇拝しているようであり、演習においても俺の主観で三倍ほど戦意が上昇しているようだった。
果たしてこれは喜ぶべきか、憂うべきか。
「それとこれは全軍に徹底させる事項だが、できるだけ殺さないように敵の戦闘力を奪うのだ」
「殺さないように、でありますか」
「敵とはいえ兵士のほとんどは平民だ。平民を助けるべく起つ我々が、それを害して何を大儀とするのか」
「……確かにその通りです。思慮が不足したことをお許しください」
「わかってくれればいい。だがそれは卿らにも言えることだということを忘れるな」
老いてなお剛勇を誇るフェーンストレム中佐は、恐縮と感激がない交ぜになった表情で敬礼を取った。
生粋の軍人であるが故に、政治的な配慮までは至らなかったのだろう。
クリングヴァル中佐も同様のようであったが、むしろそれは軍人としては正しいことなのだ。
「それでは配置についてだが……」
その後も滞りなく会議が進み、俺が要項を復唱して閉会した。
今は野営地から少し離れた丘の上で空を眺めている。
特に目的があるわけではない。
叙情的な雰囲気を出すならば、これからのことについて思いを馳せている、とでも言おうか。
ただ明確なことは、きっと明日もこうしているだろうということだけだ。
冷静に考えれば死んでしまうこともありえるのだが、それは俺にとってあまりにも現実味がないことでもある。
とりあえず、考えても始まらないことだけは確かだ。
一応でも明日に備えて休むことにしよう。