第十話 クリスティナ
国のため。
民衆のため。
皇帝の娘として、父の非道を看過するわけにはいかない。
一人の人間として、強者の悪逆を容認するわけにはいかない。
例えそれが、虚飾で塗り固めた個人的な感情に起因するものだとしても。
母は第二后妃エリーザベト・オクセンシェルナ。
二人目の后妃の、二人目の娘として私は生を享けた。
先帝までの時代であれば庶出子としてオクセンシェルナ姓を名乗り、せいぜい政略の道具として使われるぐらいであっただろう。
だが父は、皇帝は、本来ただ一人のみが正妻とされる制度を廃し、複数の女性に后妃の地位を与えた。
それはつまり、私にも嫡出子として帝位継承権が付与されることを意味する。
複数の后妃を立てた理由はわからない。
多くの帝位継承者の中から、より優秀なものを次の皇帝とするためかもしれない。
或いはただ自らの権力を誇示するためだけの手段であったかもしれない。
……今の状況を鑑みれば、前者である可能性は限りなく零に近いが、な。
しかし原因はどうあれ、現在二十一人の后妃と、三十六人もの帝位継承者が存在し、それぞれの皇子、皇女にはその数だけ有力貴族の後ろ盾が付いている。
後々皇帝になるかもしれない者を擁立し、要職を、あわよくば摂政として国を支配することを夢見ているわけだ。
第一皇子が最有力候補なのは間違いないが、より欲の深いものは幼い皇女や愚鈍な皇子を傀儡として操ることに精力を傾けた。
宮廷は陰謀が跋扈し、腹を探りながらも誰を陥れるか、という雑談が社交的な会話の大半を占めるようになる。
私は幸い、オクセンシェルナ家と縁があり、権力に固執しないヴィッテルスバッハ卿の支援を受けることになった。
優しく穏やかな母と姉とともに比較的自由に、派閥争いとは遠いところで生活していたが、成長するに従って周囲は姉や私を危険視するようになる。
権力闘争からは退いて傍観していたために路傍の石とされてきたが、ヴィッテルスバッハは大貴族といっても差し支えない有力な家でもあるし、何より問題とされたのは継承権の順列だ。
第二后妃から生まれたのは二人とも女児であったが、姉は第三帝位継承者であり、私自身も第八位という、順列で可能性が左右されるのであれば特に姉は、かなり帝冠に近い存在と言えるだろう。
過去に公式な女帝はいないが、百年ほど前にウルリカ・エレオノーラが当時五歳の息子ヨハンを帝位に就け、実質的に国事を取り仕切った例があり、ヨハンが成人するまでの十数年を「女帝の時代」と見る歴史家も多く存在する。
ウルリカには正式な夫がおらず、ヨハンの帝位継承についても正統性が疑われたが、ヨハンの父とされるプファルツ卿の政治力によって疑惑は沈静化された。
プファルツ卿自身は候から公へ爵位を上げ、宰相としてウルリカとヨハンをよく補佐した。
そうした前例もあることから、当時十二歳だった姉ルクレティア・エリーザベト・メクレンブルクの元には数多の結婚希望者が訪問してくるようになる。
皆名だたる大貴族の子弟であったが、目的が姉との結婚ではなく、帝位継承権と結婚するためであることは、隠すほど滑稽に見える事実であった。
肩書きありきの婚姻を由としない姉は、結婚する場合は帝位継承権を放棄する旨を公表した。
するとそれまで美辞麗句の洪水をもって姉を靡かせようと必死だった貴族たちが、思わず笑ってしまうほどにあっさりと音信を途絶えさせたのだ。
私は心の中で嘲笑した。
身分や役職がそれほどまでに欲しいのかと。
同時に疑念も生まれた。
人はそれほどまでに、身分や役職がなければ生きられないのだろうかと。
着るものも食べるものも住むところもある。
母の意向でそれらは皇族にしてはかなり質素なものだったが、不満を感じたことはなかった。
今思えばそれも贅沢なものではあったが、少なくとも周囲にいた貴族たちも、同様に生活に不足があるようには見えなかった。
では我らに傅いて生きているという平民はどうなのだろう。
その疑問はすぐに解決した。
無理を言って世話係だったベッテを伴い、城を抜け出したからだ。
そこは想像していたものとは違い、あまりにもひどいものだった。
人々の目には活力がなく、動きは緩慢としている。
道端に寝ているものや、商店の品物をくすねようとして鞭打たれているものもいる。
服装も一枚の布を被って、腰紐で縛っているようなものが多く見かけられた。
私には本で読んだ地獄のようにしか思えなかった。
それは全て先帝が、私の祖父が亡くなってからのことだと知らされ、愕然とする。
ただいくつかの石が詰まれた城壁の外に広がっていた世界は、幼なかった私に少なくない衝撃をもたらした。
以後、警備の目を盗んではベッテを連れて町に出ることが多くなった。
幼いながらも何か自分にできることをしなければ、と思ったのだ。
余分に食事を作らせて布袋に詰め込み、汚れが落ちにくくなると捨てられる服も持てるだけ持って、路地裏で配って回った。
不審な目で見ていたものもいたが、何となく皆も私の素性に気付いていたのだろう。
しかし何度もそうしていると、気を許してくれた子供たちが私を友達だと言ってくれた。
今まで生きてきて、これほどに嬉しいと思ったことはなかった。
そんなことを一年ほど続けただろうか。
ある日、私と母は父に呼び出された。
何事だろうと指定された広場に向かい、そこで目に飛び込んできたあまりの光景に言葉を失った。
私と仲良くなったものたち、私を友達だと言ってくれたものたちが、首から下を失くした姿で、そこにいた。
立っていることさえ困難なほどに視界が揺さぶられ、涙と鼻水と胃の中のものが溢れて止まらなかった。
母が私の名を呼び続けていた気がしたが、ほどなく意識は闇に沈んだ。
薄い青地に銀で縁取りされている紗で囲まれた、自分のベッドの上で目を覚ました。
目と喉の奥が痛かった。
どれほどの時間寝ていたのか、頭の中も靄がかかったようにすっきりしない。
徐々に意識がはっきりしてくると、記憶の中の映像が鮮明に蘇ってきた。
友達が死んだ。
殺された。
父によって。
皇帝によって。
虚脱感と怒りが体の中で膨れ上がり、皮膚を食い破ろうとしているかのような熱を感じた。
枕に顔を押し付けて漏れそうになる嗚咽を食い縛り、体が暴れないように手で足を抱え込んで蹲る。
私が彼らを助けたからか。
皇帝の財産のほんの僅かを掠め取ったからか。
ならば何故私を罰さない!
死なねばならないとしたら私ではないか……。
ふと気付いた。
私に罰がないわけがない。
あの父が、あの男が、あの皇帝が、彼らを殺して私を苛ませるだけで済むわけがない。
涙も拭かずに部屋を飛び出し、ノックもせずに母の寝室の扉を開く。
そこには姉がいた。
ベッドに顔を伏せ、泣いている。
私に気付いた姉は無理に笑おうとして失敗し、再び泣き崩れる。
まさか。
その想像は音に気付いてやってきたベッテによって、現実であることを伝えられた。
母は、私の身代わりとして死を賜った。
私の、そして姉の変わらない日々を守るために。
もう泣くことしかできなくなっていたが、ベッテから母の遺言を渡された。
綺麗な母の字で、私へ宛てた文章が連ねられている。
「愛しい娘クリスティナ」
「私は、あなたをとても誇りに思います」
「貧しい人々を助けたいと思うのは簡単ですが、実際にできる人は多くはないのですから」
「だから今回は、私があなたを助けます」
「もっと世の中を知って、多くの人に会って、より多くの人を助けてあげなさい」
「あなたは優しい子だから、きっと皆に愛されることでしょう」
「でも、無理はしないで。ちゃんと体に気を付けるんですよ」
「一緒にいられなくなってごめんね」
「……エリーザベト」
私は、姉と、ベッテと、三人で抱き合いながら、疲れ果てて眠ってしまうまで泣いた。