川のなかの川
地上には一見カラフルな浴衣や駄菓子の色が散らばっているように見えるが、よく見ればどれも赤か黄色か薄い青、ちらほら歩く紫色も夜の背景に溶け、実質三つの色しかない。しかも、そのどれもが屋台の電球でオレンジに染まり、屋台の列は派手さという一点において単色の、なんと退屈な色合いだった。
ひゅうう……。
煙で淀んだ夜空に赤い火花が上がり、男の皮膚をびりびりと震動させた。
流動する浴衣の群れに逆らえず、屋台と花火を交互に見ながら黙々と歩き続ける、三十半ばの背の低い男だった。薄い緑色のポロシャツにハーフパンツ。
川内川は九州で二番目の長さを誇る一級河川である。源流を熊本県白髪岳に発し、宮崎県えびの付近を通過して鹿児島県北西部へと入り、東シナ海に注ぐ。川内川花火大会は鹿児島県川薩地方の都市、薩摩川内市で毎年のように開催される夏祭りで、今日、第五十七回目を迎えていた。
毎年のように、と書いたのは、雨天で決行になることが頻繁にあるからである。現に去年の大会も大雨のせいで中止になってしまったが、今年は打って変わって快晴。来場者数も前回、前々回に比べてずっと増え、男以外の見物客はみんな、夏の風物詩をおおいに楽しもうと賑わっていた。
「お、オーイ……。ナオヤー、ナオヤー?」
男は違った。
しきりに甥っ子の名を呼ぶが、もとより小心者の彼には祭り会場で大声を出すような真似などできるはずもない。万一声を張り上げたとしても、地上と空中の両方から騒音と轟音が鳴り響いて、齢八歳になる甥っ子の耳には届かないだろう。
そもそも男が花火大会に来たのには一つの理由しかなかった。仕事の忙しい兄に代わり、美人の兄嫁と(くそ生意気な甥っ子付きだが)一緒に花火を楽しむ、これだけ。だが夏風邪と言われたら仕方がない。そして弱った兄嫁に「ナオヤがとっても楽しみにしてるんです……」とお願いされたら連れて行かぬわけにもいかない。男は悲しい生物だった。
牛歩の男を、道行く人波がどんどん追い過ぎていく。オレンジの笑顔、単色のあわれみが浮かんでは消え去る。だがどうやら、人がごった返す河川敷、男の声に耳を傾ける物好きも一人くらいはいるようだ。
「もし」
男はその声を頭上から聞いた。風鈴のような涼やかな声に顔を上げると、細く垂れ下がる黒髪、もっと顔を上げると、縞模様の浴衣を着た女が腰を屈めていた。首を傾げたその顔は、無色と言ってもよいくらい薄かった。
「どうなさいました?」
「い、いえ。ちょっと甥っ子が迷子になってまして、その」
「あら、そうなんですの。実は私も甥を探している最中ですのよ」
男は独り身である。
「ふ、ふ。おんなじですね。偶然ってやつですね。それにしても、こ、困りましたね、こんな大勢じゃ難儀でしょう。ぼ、僕も、手伝って……み、ま、しょう、か」
最後はぼそぼそと呟くような大きさになってしまったが、女は言い終わるのをしっかり聞きとげてから「では、まいりましょう」と手を差し伸ばした。
どこかで手でも洗ったのだろうか。冷たく湿った手だ。
ひゅうう……。
背の高い女に手を引かれて歩いていると、祖母の手を思い出しそうになる。痛いくらい強く握りしめる祖母の、肩越しに見えた青い連発花火。
こんなに派手なもんじゃなかったけどネ。地元にいたときは毎年みんなで行ってたっけ。……手え離すんじゃないよ。
祖母の口からその言葉を聞いたのは第何回目の花火大会だったろうか。花火を見ている最中か、見る前の家での会話か、帰りの車内での話か、細かいことは男も忘れてしまっていた。今となっては問い質すこともできやしない。
「どうなさいまし?」
女がどことなく古臭い言い回しをする。
「い、いや、ただ綺麗だなって思ってただけです。ア……君がじゃなくて、いや君もだけど、とにかく花火が……」
「花火が?」
「綺麗だな、って」
女は男の顔色を見てくすくすと笑うと、小さく白い息を吐いて目を伏せた。白い息?
「やっぱり、みんな花火ばかりを見るんですね。仕方がありませんよね。私もそうやって見ていましたし。ええ、川を見たっておもしろくありませんもの」
やっぱりどこか変だ、と男は感じた。女の話し方に、である。
古風な言い回しだが、無理に作った口調ではなく、自然と育ちの中で得たようにスッと出てくる言葉。男はまた祖母を思い出した。何故だろう、全然違う口調なのに。
「このよでいちばんちいさなものでできているものはなんだとおもいますか」
言葉の意味を捉えることができなかった。
「この世で一番小さなもので出来ているものは何だと思いますか」
女が繰り返しても、やはり意味が分からなかった。
それはやっぱり、原子とか素粒子とか、あそこらへんの何かじゃなかろうか。
「それはですね、川なんです」
男は「え」と聞き返した。三つ子の花火が高く上がる。トウモロコシ屋の客引きがうるさい。そんな中にあって、二人はお互いの声をはっきり聞くことができていた。ずっと前からそうだ。
「川というと、ここみたいな?」
「ええ、ちょうどそこにある」波間にちらちらと映るのは火と灯の色。
「じゃあ、あなたが言う『一番小さいもの』ってのは、水のこと? H2Oのこと? それとももっと小さく……水素かな。あ、水素は原子の中でも一番軽いって習いましたし。り、理科で」
「懐かしいですわ、水兵リーベ僕の船。ですが、私の言いたいこととは違います」
女は照れるように笑った。
「私が知る限り、『一番小さいもの』とは、あったりなかったりするものなのです」
「『あったりなかったりするもの』?」
女は男の手を引き、歩を早める。密着しあった群集の隙間を縫うように、普通に歩くのと変わらぬ速度で草履を滑らせていく。
急にどうしたのかと男が尋ねる。
甥っ子を見つけたいのでしょう、と女「ナオヤくんだったかしら」
「そういえば君の甥っ子のことをまだ聞いてないぞ。何歳ぐらいの子なんだ。歳は?」
女は歩みを止めない。どころか、草履が土を擦る音も聞こえないくらい速くなる。
「ふふふ。なんだか私たち、人の川の、更に内側を走る、もう一つの川のようですわね」
人の数が少なくなってきた。一列に並んだ屋台の列、その端っこにたどり着いたのだ。水面から顔を出したときのように、急に呼吸が軽くなる。
ここからでは花火も橋に隠れてよく見えない。何人かの若者がスマホをいじり、男女がキスをしているその中で、一際背の小さい男児がいた。ナオヤだ。
「ナオ……」
呼びかけて男は止めた。理由は分からないが、ナオヤがこっちへ走ってくれば、この女との時間が終わりを迎えるような気がしたのだ。
ひゅうう……。
うまく見えない分、音だけははっきり聞こえる。
屋台が少ないせいか、女の輪郭も闇に溶けたようにはっきりしなかった。
「川の中には時々、水とは違うもう一つの川があるんです。砂粒よりも小さい粒が幾重にも幾重にも重なったような流れです。それは数里続くこともあれば、数年間も姿を消したままということもあります。あったり、なかったり……。そういう、もう一つの川に流れるものも、あったりなかったりするものでなくては、辻褄があいません。『一番小さいもの』が押せるのは、おんなじ大きさのものだけですから」
ちゃぷ、と、水が岸に押し返される音が聞こえた。
「海も、きっとそうじゃないかと思うんですが、あいにくまだ辿りつけませんので……」
「僕の勘違いじゃなければいいんだけど。あなたの、その『あったりなかったり』という表現、どこか引っ掛かるんだ。まるで何かを遠まわしに言っているような……」
女は答えない。
「手毬を何度も壁にぶつけたら、何千回目、何億回目には壁をすり抜けるかもしれない。川というのは、そんな手毬遊びを際限なく、切れ目もなく続けているようなもの。『一番小さいもの』は自力がほとんどありませんから、その場から動けないものが大半です。ですが、川の力を借りれば……『一番小さいもの』の流れに身を任せれば、私も遠くへ行ける。『小さいもの』を含んだ水を草履の裏に塗りさえすれば、こんな私でも地を歩くことができる。ものに触ることができる……できた……」
問わず語りを続けながら、女は草むらにしゃがみ、人差指の腹で草履の踵をツウと撫でた。
幽霊は水場によく現れるんだとさ。男はどこかで聞いた与太話を思い出していた。
「もう渇いてしまったわ。姉さんの子がいる予感がして来たのだけれど、しょうがないわね。私、ここでお暇しますわ」
「そ……」
男はごくりと唾を鳴らす。初めて眼下に下がった女の顔は、屋台から漏れる灯に照らされても白いままで、紫の唇と濡れる黒髪がよく映えていて、色でなく線の美しさがあって、祖母の実家にあった白黒写真にそっくりだった。
老いた遺影の中でその写真だけが若々しく、男の目に焼きついていた。
「その姉さんの名前は、トミ子じゃありませんか?」
――こんなに派手なもんじゃなかったけどネ。地元にいたときは毎年みんなで行ってたっけ。
――宮崎のちっぽけな町だからねえ。父さんと母さん、爺ちゃんと婆ちゃんに、そしてあの頃はシゲ子も生きとったなあ。
男がまだ子供だったとき。何年も前の花火大会のとき、祖母は言った。
あんた「は」手え離すんじゃないよ。
ひゅううう…………。
消えたと勘違いするほどの時を経て、ぽ、と渇いた音とともに、会場中が黄色い光に包まれた。男だけでなく、河川敷の人間、家のベランダから眺めていた人間、山の上から見物していた人間、受験勉強をしている人間、仕事帰りの人間、街にいたすべての人間がハッと息を呑んでしまうほどの光が空を覆い……
女を見ようとした。顔が光に染まって表情が判らなかったが、右手を上げようとする動作だけが目に入った。口を開く。言葉が見つからない。
それでも何とか言おうとした口に、音が入り込む。
心臓を一掴みにする火薬の鳴き声。
終わってしまう悲しみを背負うまいと、一瞬にすべてを込めた泣き声だ。
男は確信する。この世で一番小さいものが何であれ、一番悲しい音はこの音なのだと。
女は見えず、立っていたところは、少し濡れていた。水の跡が川岸まで続いている。男は川に向かって、息を吸いこんで叫んだ。
「しばらく下ると高江町に着きまあす! 長崎堤防っていうギザギザの堤防があるところです! そこを過ぎたらもう港、海です! どうかお気をつけてえ!」
男はそれだけ言うと、甥のもとへ駆け寄っていく。
コレニテ ダイゴジュウナナカイ センダイガワハナビタイカイヲ シュウリョウイタシマス……イタシマス……。
大川の 隣に流るる 人の川 人の中にも 水は流るる
水の中にも 人は流るる