5
噂が流れ、そしてそれが浸透するのは、本当に早い。週明けの月曜日、私はそれを実感することとなった。なってしまったのだ。
その日の朝、いつものように自分を取り繕って登校すると、なにやら教室がざわついていた。不安を覚えつつも、私は教室の扉に手をかける。
しかし私が教室の扉をがらっと開けた途端に静まり返り、クラスメイトの視線が一斉に大挙して押し寄せてきた。
え、何? 何事? と思ったけれど、すぐになんだお前かよ、とでもいうように小さく嘆息して目をそらされる。
そして何事もなかったように喧騒へと戻っていくのだ。意味がわからない。
そんな様子を怪訝に思いつつも、いつものように美紀たちに宿題を見せるため、挨拶をかねて三人の元へ向かう。今朝は美紀の席に集まっているようだ。
どうやら女三人よれば姦しいというのは本当らしい。口やかましく、なにやら盛り上がっている。また陽子がくだらない噂話でも語っているのだろうか。そう思いながら、美紀たちにおはよう、と声をかけると。
「ね、清香っ! 聞いてよ!」
朝の挨拶すら省略して、陽子が食い気味に割って入ってきた。ずんっと顔を寄せてきて、なにが言いたげな表情を浮かべている。面白そうなものを見つけた無垢な子供のようだった。
「な、何……?」
私とのテンションの差は、いうなれば月とスッポン。かなりの落差だ。そんな勢いに圧された私はじりじりと後退せられながら、恐る恐る尋ねた。
「あの転校生が――キスしてたんだって!」
「……は?」
思わず取り繕うのを忘れ素の自分が出てしまったが、それに構っていられる心の余裕は既に私にはない。
なぜ、陽子が――美紀たちがそれを知っている?
百貨店を出てすぐに、美紀たちとは別れた。美紀たちはそのままバスに乗って帰路についたはずだった。店に残った私だから、あの時星川さんを見つけることができたのだ。
美紀たちが見ることは不可能だった。それなのに、なぜ?
疑問が疑問を呼ぶ。
「えっとね、一昨日のことなんだけど」
そう前置きして、陽子は混乱する私をよそに嬉々として語りだした。
「私たちも行ったあの百貨店のカフェで、転校生がきれいな女の人と言い争いになってたんだって。話によれば、別れ話だったみたい。で、それを認められない転校生が、キスを迫って……がっつり拒絶されちゃった、と。泣いてたらしいよ、転校生」
――なんともまあ、理路整然としてわかりやすい説明だった。
それにしても、恋人同士の別れ話だなんて。
その発想はなかった。美しい姉妹愛を思い浮かべていた私って、なんて鈍感なんだろう。
そしてほどなく疑問も解消された。
おそらく昨日、あの光景を見た人が私以外――もちろん美紀たちではない――にもいて、面白がって話を広めたのだろう。考えてみれば、それは当然の帰結だった。驚いたせいで、理解に時間を要してしまったのだ。教室中がざわついていたのもこのせいだったんだろう。
周りに耳を傾けると、皆星川さんのことを話題にしているらしかった。星川さんが優しいとか、頭がいいとか、意外に可愛いもの好きとか、そんな「良い」話題ではもちろんない。
「ね、転校生ってレズ、ってやつなのかなー?」
その声に含まれる感情は好意ではなく、明らかに嫌悪だった。
レズ――レズビアン。同性愛者。
なるほど、そうなのかもしれない。でも、そうじゃないかもしれない。当人はまだ来ていないから、当然真偽はわからない。全ては憶測でしかないのだ。そして仮にそうだったとしても、それで私の彼女への感情が百八十度変わってしまうような問題ではない。
「キスしてた時点で、確定でしょ」
美紀がにやりと、人の悪そうな――いや、明らかに悪い表情でぼそりと言った。
「ね、私たちもキスするっ?」
千里が、いたずらに唇のそれに近づける。美紀はそれを不快そうに睨みつけた。
「やめてよね、あんたもレズなの?」
「あはは。冗談だって、本気でするわけないでしょっ」
「わかってるわよ、そんなの。バカ」
自分たちとは縁遠いもの。忌むべきもの。嘲笑の対象となる下等なもの。彼女たちは星川さんにそんな評価を下し、暫く皆で笑い合っていた。
「……はは」
なにが、おもしろいんだろう。みるみる心が冷え切っていくのを強く感じた。三人に迎合しようとしても、精々乾いた笑いしか出ない。
この時ばかりは、美紀たちに合わせて愛想笑いをすることすらできなかった。嫌悪感に眉をひそめるでもない。心を痛め、悲しみに目尻を下げるでもない。怒りで三人に鋭い眼光をぶつけるでもない。私は、無表情だった。
内容が内容だけに、彼女本人に向かってストレートに言ってのける人はあまりいないだろうが、それでも彼女が悪意と怪奇の視線にさらされるのは見たくない。
人の口に蓋などできないから、噂というものはあれよあれよといううちに、気付けばウイルスのように蔓延してしまう。もうほかのクラスにまで伝播してしまっているかもしれないし、それこそ、教師の方々にまで知れ渡っているかもしれないのだ。
ウイルスと違うのは、ワクチンが存在しないという点。
だから、本当にどうしようもないのだ。一度、噂が流れてしまったら。
皆が忘れ、風化するのを待つしかない。時の流れにまかせて、待つしか。
真実は、星川さんにしかわからない。私が想像したように、やっぱり星川さんとあの女性は恋人同士などではなくて、ただの姉妹なのかもしれない。
それならば、外国ではキスなんて日常茶飯事だというから、何もおかしいことはないだろう。これは擁護じゃない。不確定な情報であることないこと言うのは、明らかにおかしいと言いたいだけだ。ま、言えないんだけど。
そして、肝心の星川さんはというと。一限がすぎても、二限がすぎても、こなかった。三限も終わってしまって、今日は欠席かと思いかけた矢先に、星川さんはようやくやってきた。
がらりと。
堂々と入ってきた星川さんは、一斉に放たれる視線の矢を完全に無視して自分の席にむかう。それは今までと何ら変わらない、凛々しい姿だった。
長くてつやつやの髪も、澄んだ瞳も、高い鼻梁も、瑞々しい唇も相変わらず美しい。憔悴している様子はみられなかった。
「ねえ」
そんな星川さんに声をかけたのは、微笑を湛えた美紀だった。まさかいきなりちょっかいをかけるとは思いもよらなかった私は、静止することもできず美紀を見送ってしまった。
星川さんは颯爽と席につくと、声の主、美紀にちらりと目をやる。図らずも二人が睨み合う態勢とあいなった。不穏な空気が流れる中、下卑た笑みを振り撒きつつ美紀はいよいよ口を開く。
「あんた、レズなんだって?」
「……」
星川さんが驚愕しているのは、私にもわかった。澄んだ目が見開かれ、雪のように白い肌はほんのり熱を帯びて赤くなっている。あの光景を、まさか見られているとは思っていなかったのかもしれない。 しかし星川さんは、努めてクールを装い続けた。ごくりと息を呑み、ふう、と呼気を整えて。まさに一触即発の空気が漂う中、星川さんは爆弾を投下した。
「だったら?」
やけに冷え切ったその声は、皆が二人に注視しそのせいで静寂の中にあった教室で、いやに響いた。
その言葉、態度、口調。すべてには、拒絶の意思が込められていた。その威勢に美紀はおろか離れた距離にいる千里と も気圧され黙り混んでしまったけれど、星川さんはそのまま冷たい声でさらに続けた。
「あなたには関係ない」
次に驚嘆したのは美紀だ。その氷の刃に切り裂かれ、ぐうの音もでない様子だ。
「な……なによ、その態度は!」
いよいよ美紀は、暴力行使に及んだ。星川さんの胸ぐらをつかみあげたのだ。星川さんの髪が乱れ、容貌は苦痛に歪む。しかしその瞳だけは炎を灯し、美紀を見据えていた。
「……離して」
あくまでも星川さんは冷静だ。冷静すぎる。熱くなっているのは、美紀だけだった。横を見れば、千里も陽子もはらはらしている。流石にやりすぎだと思っているのかもしれない。
「み。美紀、先生来ちゃうって!」
私は思わず叫んだ。美紀を糾弾せず、その行動を止めるために。
この光景をみられたら、まずいのは美紀だ。一方的に星川さんに暴力を加えている。そう捉えられたら、指導対象となるのはもちろん美紀である。まあ、実際その通りなんだけど、この言葉は美紀に対してかなりの抑止力となったらしい。
「ちっ……むかつく」
舌打ちしつつも、美紀は星川さんを突き飛ばすように手を離した。
怖いよ……。
星川さんも星川さんで、乱れた制服をこれ見よがしにぱさぱさと正したりして挑発するもんだから、ヒヤヒヤした。一度鎮まった火が再び燃え上がってしまわないかと。
「はぁ……」
ほっと一息。
そこで、四限目の始まりを告げる鐘が鳴り響いた。ようやく長きにわたる戦いに終止符が打たれたのだ。癒しを求めて、私は席につく。まもなく先生がやってきて、四限目が始まった。
しかし、先ほどの二人の遣り取りは――私含め、傍観者からすればどのように見えていただろうか。星川さんの、喧嘩腰の美紀に対する毅然とした態度はとても格好良かった。それは確かだ。でも、あの「だったら?」という言葉は、事の発端となった美紀の質問に対して暗に肯定しているのだと受け取れる。そうでないのだとしても、少なくともみんなはそう受け取ってしまうだろう。
それは――噂の拡散にも、一役買ってしまうかもしれない。そんなことを考えると、どうしようもなく不安が押し寄せてきた。
水面に一滴のしずくが落ち、波紋が広がっていくように。静かに、優しく、穏やかに。
私の心は不安で満たされていった。