第2宮 金牛宮 開幕
ガタゴトと音を立てて列車は走ります。
窓から見える鮮やかな夕暮れは時とともに色を変え、残照が名残惜しげに消えて行くのを、わたくしはハーキュリーズ様とともに眺めておりました。
素晴らしい時間でした。
例えそこに言葉はなくとも、同じ時を共有したというそれこそ、素晴らしい体験だと……そう思うのです。
昼夜は入れ替わり、天空に散らばった星々が輝きを増し始める刻限―――
「間もなく第2宮金牛宮、金牛宮に到着いたします―――」
少しだけ聞き慣れたアポロ様のアナウンスが頭上から聞こえ、僅かの後にわたくしたちは12宮の第2宮、金牛宮に到着いたしました。
「お手をどうぞ、お嬢様」
「ありがとうございましゅわ、アポロしゃま」
「いえいえー、どういたしましてー」
ぱちん、と片目をつぶって星を飛ばしたアポロ様は、わたくしたちの背後へと回り「いざ行かん、金牛宮へ!れっつらごー!」
と、気勢を上げられました。
何となくですがハーキュリーズ様と目を合わせますと、少しだけきょとんとしたご様子だったかの方は、やはり少しだけ目を見開き、次の瞬間ふ、と微笑まれました。
「……よろしければ」
す、と差し出された手にためらったのも一瞬の事。
わたくしはにっこりと笑って、その手をとりました。
子供扱いでもかまわないのです。だって、今そばにいる事のほうが大切ですから。
それに何より、彼の方から手を差し出してくれたのです。
今は全てに目をつぶり、わたくしはその大きくて固くて温かく、優しい手のひらに甘える事にします。
少しだけくすぐったい気持を隠そうとして隠しきれない私は、きっと緩んだ赤い顔をしていた事でしょう。
―――そうして、2人は並んで金牛宮の門をくぐったのです。
「あら、やっと来たわね?随分と遅かったじゃないの」
「お待たせして申し訳ありましぇんわ―――バックス様」
一番初めの白羊宮の番人として現れたのがウルカヌスお兄様だったのですもの、2番目の番人役が他の12神でも、もう驚きません。
バックス様は酒と酩酊を司る神であり、お酒にまつわる様々な、そして膨大な知識をお持ちの方です。
かくいうわたくしも、こうなる―――子供に戻り神の力を失う以前、頂いていたお役目が一部重複していた関係でお知恵を貸していただいた事があり、仲良しとは言えずともそれなりに面識はあります。
アポロ様とは別の意味で明るく朗らかな方ですから、おかげで変な緊張をしなくて済みました。
「……初めてお目にかかります、ハーキュリーズと申します」
「そ、アンタがあの」
腕を組み、長くゆるくうねる髪をまるで女性のように高く結い上げ、ゆったりとした装束をまとうバックス様は一見して男性とも女性とも見えてしまう不思議なご容貌をなさっています。
お声は普通に殿方なんですけど。
ですが、この方がきつい目をされると何故だか物凄く迫力がありますね。
お仕事でお会いした時には、御冗談も交えながら軽い調子であれもこれもと助言を頂いたものですが……。
しかしそれにしても、“あの”って何でしょうか。
……もしかして、ハーキュリーズ様が父の血を受けた英雄だということと何か関係が……?
「話は聞いているし、その為になら力を貸すと決めたわ。でも、実際にそれができるかは貴方たち次第。よぉく、覚えておきなさいな」
「は、はいっ」
「肝に銘じておきます」
「……ふう、ユウェちゃんはまあいいとしても……貴方ちょっと真面目すぎね。アタシの好みじゃあないわ。もう少し洒落た答えを期待していたのだけど……まあいいでしょ。親に似たのね、きっと」
親……親……それは、血を分け与えたわたくしの父親―――主神ユピテルの事を言っているのでしょうか……?
妙に投げやりに言い放ったバックス様は、ふう、と息を吐いてから改めてこちらを向き「雑談はこれくらいにして、本題に入りましょうか」と仰いました。
「さて、未成年もいるしアルコールは無しにさせてもらうわね」
案内してくださったアポロ様と別れた後、わたくしたちはバックス様に神殿の中へと案内され、ゆったりとした長椅子に腰かけます。
でもバックス様、突然お酒禁止と言われても……わたくし、以前は普通に飲んでおりましたよ?
見た目だけの事とはいえ、さすがに3歳児にお酒はダメでしょうか……。
そっと隣を見れば完全に兄や父と同じ顔で、ハーキュリーズ様が重々しく頷いていました。
……いいです、もうそれで。
心の中でくらい、すねちゃってもいいですわよね?
「それで、試練の事だけど」
3人の目の前に飲み物がおかれた後、バックス様は至極真面目な表情でそう切り出しました。
自然、わたくしもその隣に座っていたハーキュリーズ様も、居住まいを正します。
「まず―――貴方」
「私ですか」
「ええそうよ。貴方―――剣闘士ハーキュリーズには……1匹ほど退治してもらうことになるわ」
「退治、ですか」
「ええ。……対象は『レルネーの沼』に棲む魔蛇―――多頭魔蛇の最上位種、九頭竜ヒュドラ。……できるかしら?」
「「……」」
とんでもない難題を出されてしまいました。
多頭の魔蛇は、世界各地で数多く目撃例があります。
有名どころでいえば、鎮めるために何人もの乙女が犠牲になったという極東の8ツ首竜『オロチ』ですが、ご当地英雄神にすでに退治されたとはいえ、その強さや凶暴性は今でも魔蛇の中で最厄とうたわれるほど。
そして今回の討伐対象は、そんな凶悪魔蛇を上回る……九頭竜。
それをたった1人で退治するなんて、そんな事……!
「……受けて立ちましょう」
「ハーキュリーズしゃま!?」
僅かな逡巡の後、ハーキュリーズ様はバックス様のお言葉に頷きを返します。
わたくしはびっくりした表情のまま、思わず彼の顔を見つめてしまいました。
「……私の役目は貴女の試練を肩代わりする事。ならば、これも受けねばなりません。そうでなければ、何の為に私がここにいるのか意味が無くなってしまいます」
「でしゅがっ、九頭竜の討伐など……っ!」
ただ人には荷が重い、わたくしはそう言い募ろうとしましたが。
「ユウェちゃん、殿方がこうと決めた事に口出しするのは野暮というものよ。それに――――――まあ、その黄金の鎧と属性剣があれば、大抵の事は出来そうだけどねぇ……」
後半の言葉が少しあきれた風に響いたのは、きっと気のせいではないでしょう。
「『妹の事を思って』を免罪符に、よくもまあここまで好き放題やってくれたもんだわね、あの技術オタク」
「……ウルカヌスお兄様が申し訳ありましぇん……」
「ああ、いいのよユウェちゃんは。ユウェちゃんはいいの。……他人の為にここまでやるんなら、いっそ自分も義体化しちゃえばいいのにねえ……」
ぼそりとつぶやかれた後ろの言葉は届かず、わたくしは首をかしげる事になりました。
「まあそれはいいのよ。どのみち受けて貰えないと話が進まないのだし」
こほん、とバックス様が咳払いをして場を整えました。
「で、その九頭竜ヒュドラなんだけど、ただ行って剣で斬れば済む話でもないの」
「それは、どういった?」
「まず、あの魔蛇はかなり毒性の強い猛毒を吐くわ。それによって棲み家の『レルネーの沼』は猛毒の沼地と化したの。蛇と戦っている内に毒で死なれても困るから、血清をいくつか持たせておくわね」
「……よろしいので?」
「別にアンタに死んで欲しい訳じゃないもの。本当の目的の為に、アンタには文字通りこれからも身を削って貰わなきゃいけないんだし。それとあの魔蛇に関してだけど、その首全てが強い再生能力を持っているから、モタモタしているとあっという間に元通りよ。例えばその属性剣で首を切り飛ばしたとしても、また新たに生えてくるわ。だから作業は手早くね。そして、先ほど退治……とはいったけれども、アレは自らの毒によって呪われ、不老不死の体へと変化しているの。そこでこれを渡しておくわ―――東方由来の『名前を呼んで応えた相手を吸い込む瓢箪』これに入れてきてちょうだいな。基本的に何でも入るのだけど……さすがにヒュドラは大きすぎるようでね。それに相手も抵抗するから、ある程度体力削ってへろへろになったところじゃないと上手く入らないみたいなのよ」
ぽんぽんぽーん、ととんでもない言葉が飛び出てきて、わたくしもハーキュリーズ様も口をあんぐりと開けるしかありません。
と、いいますか、あの、口調、崩れてませんか?
そもそも、そのヒョウタンとやらは、どんな伝手があって手に入れられたものなのか……。
ウルカヌスお兄様も大概でしたけど、この方も案外……ですわ。
認識を改めておりますと、ややあって隣のハーキュリーズ様が茫然とした表情のままお礼の言葉を口にされました。
「……ありがとう、ございます」
完全なる棒読みでした。
「アラヤダ、大丈夫?本当に平気?」
これで平気な方がいたら、お目にかかってみたいです、バックス様。
血清やら紅いヒョウタンやら頂けたおかげで多少難易度は下がったでしょうが、それでも厳しい事には変わりありません。
猛毒に再生能力、それに不老不死だなんて、ネメアの獅子に負けず劣らず凶悪な怪物間違いなしですわよ?
「それにしても『名を呼んで応えると吸い込む』とは……?ヒュドラとは、それほどまでに知能が発達しているのでしょうか」
「そんな訳ないじゃないの。あれはただのバケモノ。言葉は通じないし、よしんば通じたとしても現状があの怪物の本性をよく表しているわ。とどのつまりは、理解しようとするだけ無駄、ね」
あの、それではヒョウタンの意味は……?
「では……どのようにして奴を回収するのです?」
戸惑う様子のハーキュリーズ様に、バックス様はけらけらと笑います。
「やぁね、それこそが試練なんじゃないの。それともなあに?貴方は1から10まで言われないと出来ない子なの?」
「……いえ……では、自ら考えてみる事とします」
「うふふ~、そうしてちょうだいな。ま、土壇場で思いつくって事もあるだろうし、あまり深く思い悩まない事よ~」
……悩みを与えたのは、間違いなくバックス様ご自身だと思うのですが。
「何も、馬鹿正直に真っ向から名を問うて応えさせるだけが正解ではないわ。要は条件さえ満たしてしまえばいいだけの事。その手段がたとえ卑怯なものであっても、騙し討ちみたいなものだったとしても、とん知だってなんだっていいのよ」
「……肝に銘じておきましょう」
「……だからその、毎度毎度生真面目に全部重く受け止める必要なんて無いんだってば。そんな風に飲んだって、酒は美味しくないでしょう?」
深く味わう事、真剣に受け止める事。
似ているようで違うのよ、とデュオニソス様はいつも仰っていましたっけ。
酒は喜び、生きている事を謳歌する手段。
だからこの方は、極端に真面目な方を見ると必ず1度はからかうのです。
楽しみなさい、肩の力を抜きなさいと。
それこそがお酒の正しい嗜み方であり、存在理由なのだと、そう言いながら。
「ま、蛇の件はこれでいいわ。そうそうわたしったら、そこのおちびちゃんの兄2人と違ってそこまで強いわけじゃないから、ハーキュリーズ、アンタには直接現地に行って貰うわよ」
「今から……ですか?」
「そうねえ。早いほうがいいわねえ……アポロ、いるんでしょ?」
「呼ばれて飛び出て~」
「そういうのはいいから」
ばっさりと切り捨てられて、アポロ様の背中が煤けてらっしゃいます。
遠慮の無い言い方なのは……そういえば同世代の同期、でしたっけ。
お母上方の世代は少し離れていらっしゃるようですが、そんなものは神にとって多少の違いでしかありませんものね。
ああでも……それをいうならわたくしも、という事になるのでしょうが……。
うじうじと膝を抱えるアポロ様を放置して、バックス様は必要な物資を詰め込んだ肩下げ袋をハーキュリーズ様にお渡しします。
「あのっ、わたくしは?わたくしも、一緒に―――」
そこでハッと気がつきました。
わたくしはまた、この方が命がけで戦うのをただ見守るしかないのかと。
けれど先ほどのお話では、わたくしに対して特に何をしろという指示は無かったはず。
何も出来ませんが、せめてそばにいれば何かお役に立てるかと思って、気づけばそう叫んでおりました。
ですがバックス様は、苦笑しながらゆるゆると首を横に振ります。
「ユウェちゃんは、ここでわたしとお留守番ー♪」
ひょい、と抱えあげられてしまい、突然の事に思わずじたばたしてしまいます。
「でしゅがっ、しょもしょもこれはわたくしの試練でしゅのに……っ!」
放してくださいと言いながらじたばた続行しますが、女性らしい姿をしていてもさすがは殿方、びくともしません。
すがるようにハーキュリーズ様の方を見ますが、困ったような顔をするばかり。
否定も肯定もなさらないという事は……やはり足手まといだとでも思っていらっしゃるのでしょうか。
ちょっとだけしょげてしまったわたくしに、バックス様は優しく微笑んで言いました。
「慌てないの。“彼の試練”が終われば、貴女にもやって貰う事があるわ」
「わたくしに、でしゅか?」
小さな子供になってしまったわたくしに、何か出来る事があるのでしょうか?
期待と不安、半分ずつ。
それでも、ただ任せきりにならずに済むというのなら。
わたくしは、わたくしに出来る事をするべきなのでしょう。
「わかりましたわ」
「いい子いい子。……きっとこの試練は、今後の貴方達にとって必要で重要な事なのだと思うわ。だから―――いいわね、絶対失敗なんて許さないから」
告げるバックス様に、わたくしもハーキュリーズ様も真剣に応えます。
「はいですわ!」
「全力を尽くしましょう」
それを聞いたバックス様は口に浮かべた笑みを深めると、まるで軍の指揮官のように右の手をさっと横に振りました。
そして力強い宣言は為されます。
「よろしい!では行きなさい、英雄さん!」
「はっ!」
一礼を返し、ハーキュリーズ様は背を向け去っていきました。
その背に不安はありません。
ただ、真っ直ぐ、あるがままに。
そんなハーキュリーズ様の背に向かって、バックス様が叫びます。
「“お兄さま”によろしくね~!」
お兄さま?それはハーキュリーズ様のお兄様の事でしょうか?
あら?でも、あの方にお兄様なんていらっしゃったかしら?
ご兄弟がいたのは知っておりますけれども。兄と弟、どちらだったでしょう?
それとも、白羊宮にいたウルカヌスお兄様の事でしょうか?
「さっ、向こうへ行って、とりあえず観戦と洒落込みましょうか」
「……???」
首をかしげるわたくしを小脇に抱え、バックス様はさらに神殿の奥へと向かうのでした。