ある女神のつぶやき
どうして。
いえ、きっと全てわたくしがいけないのです。
あの方と初めて出会ったのは、わたくしが生まれて間もない頃でした。
天の頂を統べる父神は……その、あのような性格ですし、つき従う母神は気丈に振舞ってはいましたけれども、傍から見ても落ち込まれていらっしゃるのが分かってしまって。
兄たちはすでに、自分の価値、やりがい、楽しみや愛を家の外へと求めるようになっておりましたが、唯一姉神だけが、何があっても自分は母の味方だと父に強く反発しており……。
姉の怒声と母のすすり泣き、それに絆されない父の固い声に、わたくしはずっと縮こまっているしかありません。
そんなわたくしが、家の外、という避難場所を見つけ飛び出してゆくのには、そう長い時間はかかりませんでした。
家から離れた、誰もいない雲の花園。
そここそが、自分だけの居場所。
孤独だけれど、だからこそ安心できる場所であったのです。
雲の花園には、いくつかの裂け目がありました。
危ないから立ち入ってはいけないよ、そう見かねた他の神に言われた事もありますが、わたくしにとっては家の方がよほど恐ろしい場所でしたし、裂け目から見える地上の姿は何よりも私を楽しませてくれるものでした。
ですから、わたくしはずっとそこに通い続けていたのです。
雨の日も、風の日も、わたくしはそこでずっと地上を見つめ続けておりました。
目まぐるしく変わり続ける地上を見ることが、何もできない私にとって、ただ1つの慰めとなっていたのです。
それに、大切な友にも出会えました。
今にも消えそうになっていた小さな命。
本来ならば、地に生きる者たちに干渉することは禁忌。
ですがわたくしはそれを見た時、哀れと思い救い上げたのです。
小さな子犬の霊は天上へと昇り、こうしてわたくしのたった1匹の友人となりました。
孤独では無いという事が、どれほど楽しい時を紡ぐのか。
わたくしはますます足繁く、雲の広場に通うようになりました。
ケルちゃんと名付けたその子犬を拾った事が知れれば罰を受けるでしょうし、何よりあの怯えるしか出来なかった我が家へは、どうしても連れ帰る気にはなれませんでした。
しかし天は、わたくしの事を許すつもりはなかったのでしょう。
ええ、そうです。
罰は下ったのです。
長い長い時間をかけて。
いつものように1柱と1匹、はしゃぎ回っていたある日の事でした。
足を滑らせ、雲の裂け目から地上に落ちたのは。
気絶していたのでしょう、目を覚ますと、1人の男子がわたくしの顔をのぞいていました。
「なあ、だいじょうぶか?」
端正な顔立ち、少年にしては肉のついた立派な体躯。輝く瞳。
ええ、そうです、その方こそが――――――ハーキュリーズ様でございました。
「あの、わたくし、落ちてきてしまったようで。あの、子犬、見かけませんでしたか?」
「子犬?一緒にいたのか?」
「ええ、はい」
「そうか。もしかしたら近くにいるのかもしれないな。よし、オレも探そう」
「よろしいのですか?」
「見つけたのはオレだからな!オレが責任持たなきゃ!」
「まあ」
「そうと決まれば、さっそく行くぞ。ほら、立てるか?」
「ええ、よろしくお願いいたしますわ」
そっと手を差し伸べてくださったハーキュリーズ様は、幼かったとはいえ凛々しく映ったものですわ。
「ケルちゃん!」
「わんっ!!」
「そいつか?見つかってよかったな!」
「はいっ!!」
「じゃあ、今度はそいつも一緒に遊ぼうぜ」
「よろしいのですか?」
「……俺もさ、こんな風に遊ぶの、初めてなんだ。普段一緒にいる兄弟や友達は……俺より体が弱いから」
もちろんの事ですが、当初はお互いに縁があるなどとはは知らず、わたくしたちは下界の日暮れまで駆け回って遊んだのです。
「もう、日が暮れてきましたわ」
「あっという間だったな……」
「くーん」
「……また、会えるかな」
「……」
「……いいよ、そんな気は、してたんだ。お前、神様なんだろ?ちっさいけど。……あのさ、オレ、本当は天の神様の子供なんだって。だから、弟や周りの友達と違うし……いつかは、天に行かなきゃいけないんだ。たったひとりぼっちでさ」
夕暮れ、落日の下、彼が吐露したのは半神であるが故の悩みでした。
肉体的に差が大きすぎるがゆえに、彼はいつも力を抑えていなければならないと。
そして、いずれは全てを捨てて天上へと至り、人として生きてきた中で出会った友人や家族とも別れる時が来る、と。
「……それでも、あなたは選ばれたのですわ」
胸をお張りなさい、とわたくしは言いました。
彼が誰の力を授かり、その力を持て余しているのかよくわからないままに、神であるわたくしは、神であるがゆえにその力のすべてを肯定してしまったのです。
「その力はすばらしいもの。他者の為に振るわれるべき、英雄としての力なのですわ」
そう、わたくしは彼を説得いたしました。
その頃のわたくしは、母が泣いているのを知っていてそれでもまだ、神という存在が―――誰よりも父が、絶対の正義だと思っておりました。
ですから、神の血を受けた彼は間違いなく選ばれし子供なのだと、素晴らしい存在なのだと。
そう、はっきりと断言してしまったのです。
その時に輝いた彼の瞳を、わたくしは生涯忘れないでしょう。
一度きりの出会いのはずでした。
ですがその出会いは、わたくし自身知らぬ間に罪を抱かせる切っ掛けとなったのです。
そう、それは、後になるまで気付かなかった、淡く幼い恋心。
しかし後の発狂事件を経て、彼のあの輝きに満ちた瞳はあっけなく絶望に彩られてしまいました。
彼の父神がわたくしの父―――ユピテルだと知ったのも、その時です。
そして母神ユノが、女神最高位に位置する母が、知らぬ間にまるで乳母の如く、人形あるいは単なる役目として情なく扱われたのだと知ったのも。
わたくしの周囲も、彼の周囲も目まぐるしく変わってゆきました。
地に落ちた事が知れ、命数の尽きるはずだった運命を勝手に変えてしまった事も知られてしまいました。
ケルちゃんは叔父であるプルートー様に引き取られる事が決まり、こうしてわたくしはまた、親しい友もいない寂しい生活に戻ったのです。
周囲の目には、もはや諦観しか浮かんでいないようでした。
主神の娘はこれだから、あるいは、主神の娘なのに、と。
口に出された事はありませんでしたが、そうずっと責められているようでした。
ですから、わたくしはまた逃げ込んだのです。
ケルちゃんと一緒に遊んだ、あの雲の花園に。
そしてずっと泣いて居りました。
ハーキュリーズ様のご様子を見続けながら。
まるで冥界を覗き込み続けているかのような彼の暗い瞳に、見ている事がつらすぎて地上へと駆け下り、忘れ川の清水を飲ませたのは、わたくし。
抱いた思いを自覚せずとも、わたくしにとって彼のその目はあまりにも重く、胸が押し潰されてしまいそうだったから。
全ての事から逃げ出したくて、忘れてしまいたかったのは、あるいはわたくしだったのかもしれません。
若さを失って初めてわたくしはこれが恋心であると知り、また、それが抱いてはならない許されざる罪なのだと聞かされ驚愕いたしました。
何度も犯してしまった禁忌。
抱いてしまった淡い恋心。
それがきっと、永遠の若さを失うきっかけとなったわたくしの罪、なのです。
役目を外され今やこうして幼くなり、神としての力を失いかけたわたくしに、これ以上どんな罰が待ち受けているのでしょう。
この先に待ち受けているものを思い、わたくしの体は微かに震えました。
「お寒くは、ありませぬか」
「……いいえ」
青草の茂る丘に、風が吹き渡って行きます。
少々の肌寒さは感じますが、今こうして“2人”でいる事の方が、わたくしにとっては何より大事。
ですが、どこか固い雰囲気のままです。
碑が1つあるだけの他に何もない丘の上、2人きりなのがいけないのでしょうか。
夢にまで見た再会だったはずですが、緊張しているせいか、何を話していいのかわかりません。
自然、口数は減ります。……きっと、ハーキュリーズ様もお困りでしょうね、こんな扱いづらい女児など。
「……しかし、いつまで待てばよろしいのか。そろそろ夕刻、あたりが暗くなればいかに女神殿とはいえ、危険ではございませんか?」
このように気遣ってくださるなど、やはりお優しいのには変わりないのですね、あの時からずっと。
「もうしゅぐ、でしゅわ」
幼くなった体は、自分の思い通りに動かすことさえままなりません。
思考こそ本来のままですが、重心の思い頭に釣られてよくこけそうになりますし、こうして時に口を噛んでしまうのです。
そういった一連の動作が、余計幼さを助長しているような気がして……。
わたくしは、顔を赤くして俯きかけてしまいました。
ちょうど、その時です。
ガラガラガラガラガラララ……ッ
「あれは…………」
薄闇が迫る中、大きな音を立て、天から1台の巨大な馬車が見えないレールを駆け降りてくるのが見えてきました。
金と白銀で彩られた、輝かしいその車体。
……また、馬車を新調されたのでしょうか“あの方”は。
スピード狂であり、新し物、派手なモノ好きであり、陽気で気まぐれ、時に冷酷。
そう、この銀河軌道を巡る巨大馬車の御者台から降りてきた彼の方こそ――――――
「やあ!またせたねっ!!ボクこそがこの世界を照らす太陽!『ルーメン☆ナーシサス・アッモーレ!』のリーダー、アポロ!みんな!今日は、張り切っていこうね!」
「……『いこう』が『逝こう』にならなければよろしいのでしゅが、アポロしゃま。F1すりゅなりゃ鈴鹿のサーキットに行ってからにしてくだしゃいまし」
「はっはっは、そんな事にはならないさ!大丈夫!何せボクは、みんなに光と元気を振りまくのがお仕事だからね!」
「答えになってましぇんわ」
輝く金の巻き毛に煌めく青い星の瞳、月桂樹の冠がトレードマークの麗しの美青年。
そんなアポロ様は今回、ブルーグレーに金の飾りをつけた平たい帽子をかぶり、同じ色に金のモールのついたコートを翻しながらその場で華麗にくるりと回って、ビシッと姿勢を決められておりました。
「……このお方が、アポロ様ですか……?その、随分と……」
さすがのハーキュリーズ様も、言い及んでおられるようですわ。
なので、肯定して差し上げましたわ。
「ええ、この方が太陽神アポロしゃま。……偶像でしゅわ」
「はっはっは、相変わらずおちびちゃんは辛らつだね!けど、その辛口表現、嫌いじゃないよ!」
指を器用に折り曲げた手を顔にかざし片目をつぶったアポロ様の右目から、可愛らしい星が零れました。……比喩表現ではなく、実際に。
「今日の僕は、十二宮を巡る銀河馬車鉄道の1日車掌さんなのさっ!ギャラクシ~☆ミ(裏声)さあ、さっそく出発だ!いこうっ!銀河の果てまで!!」
やっぱりビシッと決めながら自称大空のアイドル様は、わたくしと戸惑うハーキュリーズ様の背中を押し、客車へと案内してくださいました。
「これは……」
「どうだい?立派なもんだろう?」
中は結構な広さで、客席なのでしょう作り付けられた長椅子が向き合うように置かれています。
天井にはランプが等間隔におかれ、広い窓からは外の景色がよく見えそうでした。
外観こそ派手でしたが、中は意外と落ち着いた空間のようです。
長椅子に張られたクッションもふかふかで、こんな時なのに少し嬉しくなってしまいました。
「これだけの広さがあれば、兵を輸送するのにかかっていた時間もかなり短縮されるでしょうね」
「ノンノン、そんな殺伐とした目的の為に開発したわけじゃないよ!この馬車は、君たちが長時間移動しても窮屈な思いや退屈したりしないよう、わざわざ造ったのだからね!」
「それは……」
「お造りになられたのは、アポロしゃまでなくて、ウチのお兄しゃまでしょう?」
「あっはっは、そのとーり☆だよっ!!」
「アポロしゃまのおっしゃる事については、あまりお気になしゃらにゃくてもよろしいでしゅわ。そりぇに、そういうお話でしたりゃ、ありゅいはマルス兄しゃまやミネルヴァしゃまとお話すりゅのが良いのかもしれましぇんわね」
あうう……カミカミなのです。
あ、あら?なぜか頭を撫でていただきましたわ?
……ごつごつしている優しくない手のひらなのに、なぜでしょう、あたたかい気分になるのは。
「さて、それじゃそろそろ出発の時間だ。アナウンスがあるまでは、安全の為に立ったり歩いたりしないでおくれよっ☆」
帽子をひょいと持ち上げて挨拶し、前方へ去って行くアポロ様。
見送ったわたくしたちは、向かい合わせに椅子へ座りました。
「いよいよ、ですね。……これから先、どんな試練が訪れようと、このハーキュリーズ、命を賭し、貴女様をお守りする所存です」
このような幼い姿のものに頭を下げるなど、心境はいかばかりであるのでしょう。
気づけば、言うつもりのなかった言葉を口にしていました。
「“おじしゃま”は、全部が“かみしゃまのてのひらのうえ”だと知って、それでもゆくのでしゅか?」
「…………それが、私に課せられた使命……運命であるのならば」
頭を上げぬまま、それだけ答えるハーキュリーズ様。
その答えは、まるで少年の時のハーキュリーズ様にかけた言葉に対するお返事のようで……。
「“おじしゃま”は……お強い方なのでしゅね」
―――今はただ彼について行きましょう。
彼の言うとおり、これは運命の女神が指し示す道行き。
これからどんな断罪が待ち受けていようとも、どんな罰を言い渡されようとも。
今このひとときだけは、わたくしが彼と一緒にいられる最初で最後、たった一度の喜びに満ちた時間となるはずなのですから。
例え彼がわたくしの事を忘れ、ただの幼い女神だと思っていたとしても……。
「本日は、銀河馬車鉄道555をご利用いただき、誠にありがとうございます。当馬車は中央銀河ステーション発、十二宮循環、天の頂行きとなっております。次は第1宮白羊宮、白羊宮です。お客様におねがいいたします。吊皮がオレンジ色の優先席付近では、携帯電話の電源をお切りください。そのほかの場所でもマナーモードに設定の上、通話はご遠慮ください。一番後ろの車両は女性専用車です。女性専用車は小学生以下のお子様、体が不自由な方の介助者の方もご利用いただけます。次は第1宮白羊宮、白羊宮。お出口は左側です……」
アポロ様が独特な口上で出発を告げます。
間もなく、ごとり、という音とともに馬車が動き始めました。
ゆらり、ぐらり、時折傾き、天に向けて昇って行くのを感じます。
馬車はガタゴトと、次第に速度を上げてゆきます。
「……女神殿」
「……おじしゃま」
「……どうか、ハーキュリーズ、と」
「……ハーキュリーズしゃま、でしゅね」
ぎこちない会話も、この旅が終わる頃にはもう少しましになっていますでしょうか。
悲しい終わりを考えたくなくて、過ぎ去る窓の外の景色に視線を移します。
「御名を、お聞かせいただいても?」
思いがけなく告げられた言葉に、思わず視線を戻します。
彼は、視線を合わせるためでしょうか、背を少しかがめるようにして、やや前に乗り出す格好で両の手を前で組み、真面目なお顔のままじっとこちらを見つめておりました。
「……」
ハーキュリーズ様も、少しはわたくしとの心の距離を縮めたいと、そう思ってくださるのでしょうか。
きっと、今向けている笑顔はぎこちないのでしょう。
いつか、貴方の前でわたくしの本当の笑顔を見せたい。
もう一度、あの時のように。
そうして、貴方にも笑っていてほしい。
わたくしの事など忘れていていいから、心からの笑顔を。
そう願って。
「わたくちは、ユウェンターしゅでしゅわ」
では、その願いは、誰が叶えるのかしら?
つ温度差
ちなみに運転手は息子さんです。
おまけ
天孫「ユウェちゃん、ユウェちゃん『サクヤですわ』って言ってみ?」
ユウェ「『シャクヤでしゅわ』……こうでしゅか?」
ハーキュ「…………」
サクヤ&イワナガ
ヒソヒソヤダァ( ゜д゜)ネェ、キイタ?オクサン(゜д゜ )アラヤダワァ
アマ公「おのれニニギ……」
姫神「解せぬ」