第8宮 天蝎宮 開幕
「あら、ようやく来たのね、貴方たち」
「ルキナお姉様!?」
新たに到達した宮、天蠍宮の門をくぐったわたくしたちが目にしたのは、扉の前で腕を組み立ちふさがるかのようなお姿で出迎えた、一柱の女神。
何処となく刺がある物言いをされたそのお方を、わたくしはきっとこの場にいる誰よりもよく知っていました。
「見たところ、随分余裕がありそうね“英雄”ハーキュリーズ。ようこそ天蠍宮へ。でもここからは、同じように行くなんて甘い考えは捨てた方がよろしくてよ。もっとも『生きて帰れたら』の話、ですけどね」
わたくしに対してはちらりと視線を向けただけで、すぐにハーキュリーズ様をギリリと睨みつけたうら若き乙女神。
彼女こそ、わたくしのたった1柱の姉。
時に母ユノの後継者とも目される“誕生と出産”の女神ルキナ、その方でした。
「まさか」
まさか、です。
まさか、ウルカヌスお兄様に続いてルキナお姉様まで試練の番人となるよう命じられたとおっしゃるのですか!?
驚きに声を失い口元を覆ってしまったわたくしに、幾分か表情を和らげたお姉さまは教え諭す様、説明なさいます。
「ええそうよ、無垢なユウェンタース、わたくしの可愛い妹。わたくしこそが、この神殿の番人、試練の見届け役。もっとも、本来はお母様のお仕事なのだけれど」
「お母様の!?」
再びとんでもないお話を聞き、わたくし驚きっぱなしです。
でもお姉様はどうという事も無いように、後半は苛立たしさの様なものまで滲ませつつ……まるで吐き捨てるかのようにおっしゃいます。
「何かおかしなことがあって?どうせあの父の事ですもの、向こうだって代理を立てたのでしょう?こちらも同様にしたところで、何の問題も無い筈よ」
「それは、そうですが……」
ルキナお姉様がお母様の後継者ともみなされるのは、時としてこのように名代となり、お仕事を引き継ぐ事もあるからです。
本来司る役割も“誕生と出産”という、お母様の“結婚(と女性の守護)”というお立場に関係の深いものとなっている事から、そのつながりの深さがうかがい知れるというものです。
ただ……現在の所、1つだけ大きな問題が。
「ユウェン、貴女何もされて無いわよね?酷い事なんて何も」
神殿の中へと入るなり、肩をぐっと掴まれ揺さぶられる勢いで問いただされます。
定まらない視界の中で見たお姉様の真剣を通り越した目は、血走っているようにさえ見えました。
少しだけ遠く飛ばしたくなる意識の中で、最近のお姉様のご様子を思い返します。
……なんといいましょうか、この程度であるのならば、一応は想定内であったのです。
問題はそれが、今後どこまで拡大するか、どこまでわたくしが治められるか、それに尽きました。
これ以後に費やす労力を思うと、気合を入れねばと思う反面脱力しそうになってしまい、必死に気力をかき集めます。
「え、ええ。ハーキュリーズ様は大変紳士な方でいらっしゃいました。わたくしの事をいつも気にかけて下さって。危険な事もありましたけれど、そんな時もきちんと守って下さりましたから」
今のお姉様は少し……その、お変りになられたところがおありで、殿方についてのお話をされると大抵意見が辛口、いえ激辛になってしまわれるようなのです。
ハーキュリーズ様に対しても、そういった観点からきつく見てしまうのでしょうけれど、そもそもこの方は、わたくしが見て来た限りの全てにおいて、とても真摯に物事を受け止める方のように見えましたから、そのような方がわたくしに無礼を働くなどあり得ないですし、実際ありませんでした。
なので、わたくしはそこをきちんとお話ししたかったのですが、肝心のお姉様はちっとも聞こうとして下さらず、挙句の果てには持論を展開し始めました。
お姉様独自の超展開理論を。
「紳士ですって!?彼は男よ、そんな筈無いわ!いい事、ユウェンタース、男という存在は皆、生まれながらの野獣なの、ケダモノなの、危険なのよ!考え無しに暴力振るうしか脳の無い愚かな存在。だからこそわたくしたち女性が、このように日々涙に暮れる毎日を送らされているのではないの!貴女は優しいからその男をかばっているのね、でも真実から目をそむけてはダメよ、ユウェン!ああ、どんなにか辛い時間だった事でしょう!誰彼からも英雄などと言われもてはやされた男が、こんな愛らしい少女と共に過ごしたのですもの、何もしない訳が無いわ!見れば分かりますわ、この男、あの『節操無しの父親』そっくりですもの!彼の奥方も、生前さぞ悔しい思いをした事でしょう。今でこそ老いが見えるその容貌も10年遡ればまさに男盛りの歳、他の女の影に妻子が身を縮め涙を流していたであろうことなどすぐに分かります。ですからね、世間様では悲劇と言われようとも、わたくしだけは信じるわ、『あれ』はお母様の慈悲であったと!憎悪に身を焦がすだけの人生よりも、愛する者の手によって召される事こそが、彼らにとって唯一の救い―――」
「待って、待ってください、お姉様!」
今にもハーキュリーズ様に向かって、何か近くにあった青銅像をぶつけようとなさるお姉さまを慌てて止めます。
そもそも、発言自体もおかしいですわ!それに、今口にして欲しくない事まで!
「……よく、わからないのですが……私は妻子に顔向けできない様な事など何も……それに、今のお話では、その……」
ああ、気付いてはダメです、ハーキュリーズ様。
気付いてしまえばきっと貴方は―――
せめて、その罪はわたくしの口で伝えたい。
まだ、勇気が出ないけれど。
覚悟が出来たらきっと必ずお話します、ですから、何卒今は―――
「男など、口先と下半身だけで生きているような存在、しかも揃えば闘争など始める始末、本当に救いようがありませんね。そうあれかしと生み出されたとはいえ、元々は大切なものを守るためのものであった筈、なのに彼らは、どうしてその手段を女性を苦しめる事に使うのでしょう。共に苦楽を乗り越え、尊敬と愛情で結ばれた末の子孫繁栄、それこそが人のあるべき姿だというのに。もっともっとと女を欲しがる、富を名声を求め手を広げて行く。そこに泣く女がいる事さえ気づかずに。誰かを守る手段が、いつの間にか自らの欲を満たす為の手段にすり替わってしまうなど、愚かとしか言いようがありませんわ。まったく、これだから男というモノは信用ならないのです!」
わたくしの願いむなしく、お姉様は責めるお口を止めません。
ですがそれはもはや、何かに対する主張では無く常のお姉様の持論でも無く、ただこの方を傷つけたいが為の暴言の様にすら思えました。
いえ、本当はハーキュリーズ様に向かってなどでも無いのかもしれません。
だって、口撃を受けているはずのハーキュリーズ様ご自身、ぽかんとしてらっしゃいますもの。
なんとなく、分かります。
お姉様の本当に伝えたい相手は、お父様なのだと。
だってさっきからお姉さま、「男は」「男は」ってそればかり。
お話自体、ハーキュリーズ様に当て嵌まる様なものよりも、お父様に当てはめた方がいっそ早いのではないかと思える内容でした。
「その、こちらとしても大変申し上げにくいのですが、皆が皆不貞をしたり欲深くあったりするわけでは……ともかく、一度お怒りをお鎮めください!その上で、まずは先ほどのお話、一体何の事であるのか詳しくお聞かせ願いたい!」
「そうそう少し落ち着いてってば。色々ポロッとしすぎだって。まあねー、我ながら恋に狂った経歴があっただけに否定はできないけどさ、男の人全員が……言っちゃなんだけど主神様みたいな節操無しじゃないよー」
「黙りなさい、アポロ!お前も!……そうよ、口先だけでは何とでもいえるわ!男なんてみんなそう!甘い事を言っては女をだまし、欲しい物だけ奪い去っては捨てて行く。そうやって傷ついた女性たちを、わたくしは何人も見てきましたわ。それこそ、お父様が愛した女性の数以上にね!貴方も、貴方も!同じなのでしょう?結婚し、子が生まれたら女なんて男にとっては用済み、不要なゴミでしかないの、そうとしか見れないのよ!だからこそわたくしは、男の手を借りずに女性だけで子を成せるよう研究を続けているのだけど……………ああ恨めしい、男の精が無ければ新たな可能性は生まれない。それでは人はいずれ行き詰ってしまうでしょう。でも……もううんざり。あんな愚かで不潔なだけの生き物と交配しなければならないなど、女性が哀れだわ!!交渉だなんてとんでもない、精を中に受け入れる事すら不快極まりないというのに……。いっそ、運命を都合のよい様に書き換えてしまえればよいのに。そうすれば男だけが許される、こんな下劣で不条理な世界も消えて無くなる!ああでも、生まれ来る子の可能性はわたくしの管轄外。どうすれば……ミネルウァ、そうよ、あの方ならきっと分かって下さる筈!……でもあの方、愚かにもヴィッチ……ーナスと争ったことがあるのよね……」
ダメです、どこで口を挟んでいいのか分かりません。
それどころか、深く深く考え込み始めてしまいましたし。
「あい、かわらずだねー……」
「アポロ様」
どうすればいいのかと考え込み始めたわたくしのお隣で、ぽそりと呟くようにおっしゃったのはアポロ様でした。
「しっ、静かに。今の彼女にとって、男性性は全て敵だからね。さっきは口を挟めたけど、さすがにここまで行くと倍になって返ってきそうだし。ハーキュリーズも、言いたい事はあるだろうけどちょっと我慢してね」
「その、どういう事なのか……」
アポロ様とひそひそ小声でお話ししているとハーキュリーズ様が、こちらもやはり空気を読まれたのでしょう、小さなお声で説明を求められました。
とはいっても、どう説明したら良いか……。
「……」
「……とりあえず場所、移動しよっか」
沈黙の後、場所変えが提案されました。むろんこちらも即座に承諾いたします。
「ですわね。お姉様が冷静にお話しできるようになれば、こちらに気付いて下さる筈ですわ」
多分、ですけれど。
わたくしの姉、ルキナお姉様は、先にも述べたように出産を司る女神です。
なの、ですが……。
お父様の度重なる『浮気』と、それを目の当たりにし傷つき泣き暮らすお母様のご様子を見て、すっかり殿方が嫌いになってしまわれました。
それどころか、殿方が外に出て働く一方、女性が家に閉じ込められるようにして家事や家族の世話などに追われる様を見、また不倫したり言い寄った殿方が世間的に甘い裁定を下される事が多いこと、その一方で女性に対しては理不尽とも思える沙汰を下されたり、仕打ちを受ける事が多いと突き止め、最終的には『全ては男という存在がこの世にいるから悪いのだ』とまで思いつめるようになってしまったのです。
もちろん、それが全てでは無い事を、お姉様はご存じの筈です。
過ぎたる大罪には重い罰が科せられるのは、どの殿方も同じはず。
結ばれた筈の縁が、互いの取った行動や周囲の環境の変化に応じてほどけてしまう事も、またよくある事。
ですがそこをあえて見ないふりをする事で、ご自身を保つ術にしてしまったのだと、いつしかわたくしにも理解できてしまいましたの。
その中で起った、今回のわたくしの不祥事。
お姉様は、わたくしに責は無く、全てはハーキュリーズ様に出会った事が原因と判断いたしました。
お父様がよその女に産ませた才能ある『男』と出会い、誑かされたのだと。
先の通り、前々宮でメリクリウス様がわたくしに対して言いたい事をおっしゃっておられたのは、ある意味正しい事であり、わたくしが気をつけねばならぬ事への忠告でもありました。
でも、今回のお姉様のお言葉は、何だか少し違うように思うのです。
「きっと八つ当たりなのですわ。お姉様、本当に言いたいのはお父様にだと思いますの。でも、お父様はお忙しい方。実の子であろうと簡単にはお会いできませんから」
実際、何度か目撃しているのです。お姉様がお父様に怒ってらっしゃる所を。
わたくしが天から落ちた時も、お父様がわたくしにかぎらず家族の事をもっとよく注意して見ていれば起きなかった事故だと、そうおっしゃって下さったのをわたくしは見て知っていました。
ですが、偶然とはいえその場をこっそり覗き見てしまった時も、お父様はまともに取り合おうとはせず、わずらわしそうに下がるようおっしゃるだけでした。
「きっと、そのようにあしらわれたのも、お姉様にとってはひどく傷つく要因だったのではないかと思うのです」
わたくしならばきっと、悲しくて悲しくて誰かに聞いて欲しいと泣きついたことでしょう。
ですが、お姉様は泣くばかりでは無く怒ったのです。
誰よりも激しく、わたくしと、お母様の為に。
「その、では、先の仰った『母の慈悲』というのは……」
「あれは……お姉様の思い込み、いえ、願望なのだと思いますわ。我が母ユノは女性の味方である一方、嫉妬深き神とされております。それはなぜかといえば、元々守護すべき女性に対し貞節を求めるからなのです。ですが、お父様は何をお考えかお母さま以外の女性に子を産ませようとなさいますから、母は守るべき女性に対して呪いをかけてしまわれるのです。……お前は禁を犯したのだと、断罪せねばならぬ立場となってしまうのです。ですから……ここまで申し上げた上で黙っている訳には参りません、はっきり申しましょう、ハーキュリーズ様の奥方様やお子様方が亡くなられたのは、わたくしの母の呪いによるものなのです。貴方の父神は天の頂を統べる主神ユピテル。その父が正規の妻以外の女性に産ませた……不義の子とみなされた貴方に対し、お母様は生まれる事を許さず、産まれてからもなお執拗に貴方の命を奪おうとしてきました。ですが父神の思惑によりそれらはいずれも決定的なものにならず、その罪、恨みは貴方の周囲へと波及した。……その結果、なのです」
「っな、」
母の立場を明らかにし、彼とわたくしの因縁、その一端を明らかにした瞬間、ハーキュリーズ様は顔を真っ青にされ、言葉を失ったようでした。
「そうよ、元はと言えばその男が悪いのよ!産まれた事、それこそが罪なんだわ!」
「お姉様!!」
いつの間にか、わたくしたちが移動した客室までやってきていたらしかったルキナお姉様は、ハーキュリーズ様に向け、びしっと指を突き付けてらっしゃいました。
「お姉さま、それは違います、間違ってますわ!」
慌ててお姉さまのお言葉を遮ります。
ハーキュリーズ様が不要な心痛を抱えられぬよう、なによりお姉様が、ご自身のお役目を汚すような事をおっしゃるのを止めようとして。
「全部わたくしが悪いのですわ!産まれた事、それ自体が害悪など、お姉様がおっしゃる事ではございません!」
けれどわたくしの言葉は、怒りに満ちたお姉様のお心を鎮めるに至らなかったご様子でした。
「わたくしは母の命により貴方が生まれるのを阻止しようとしました。出産が長引けば、母子ともに命の危険があると承知の上で。けれどそれも、愚かな下働きの娘の浅知恵のせいで……。ですから、わたくしは貴方の誕生を許し、寿いだ訳では無いの。そんな事、決してするものですか。それより何より悔しいのが、そうして生まれ落ちた時から祝福されざる汚れた存在であったハーキュリーズが、清く純粋であらねばならなかった我が妹ユウェンタースに男と言う存在を教えてしまった事。……あの時、阻止できてさえいればこんなことにはならなかったのに!産まれい出てしまった命に干渉する術が無いこの身が恨めしい。ですが、今こそ好機。今度の試練、其れ故の罰と知りなさい!」
「お姉様!!」
「男!?」
その言い方ではまるで、わたくしがハーキュリーズ様にとても不道徳な行為をされてしまったかのようではありませんか!
ハーキュリーズ様も、否定するより前にギョッとなさってしまっていますわ!
驚き慌てるわたくしたちに構わず、お姉様は。
「罪は必ず購わねばならない。貴方には、ディオメーデースの人喰い馬を退治するよう命じます!できるものならば、やりとげてみせるがいい!」
「殺す気かい!?」
試練の内容を聞いて驚いたのは、わたくしでもハーキュリーズ様でもなく、アポロ様でした。
お姉様はそんなアポロ様に向けて、怒りが収まらないとばかりに吐き捨てます。
「当然ですわ、それが何か!?だいたい、わたくしは最初から反対しておりましたのよ。大切な大切な妹が、けがらわしさの権化1柱と1人と共に旅など……絶対に許せるものではありません!ええ、必ずここで終わらせてみせますとも。誕生と死は表裏一体のもの、試練のさ中、事故で命を落とす事など想定内のはず。ならばこの程度、死神もお許し下さるでしょう。そうそう、他人のふりしてらっしゃるようですけどアポロ様、出自を考えると貴方もそこの男と同罪ですからね。ふふ、汚物はまとめて消毒、ですわ!」
「「ええっ!?」」
「……」
そんなの、許される訳が無いでしょう!?権限の拡大解釈にしても無理ありすぎですわ!
そもそもこの試練が成功しなければ、遠からずわたくしたち神の未来に待つのは老いと死……消滅なのですよ!?
本当に、何を考えてらっしゃるの、お姉様!?




