第7宮 天秤宮 運命の悪戯
「む?」
彼―――ハーキュリーズが案内された先にある湯殿。
そこには既に、先客がいるような気配があった。
それ自体は別に問題ない。
むしろ、神殿内に浴場がある事自体が驚きなのだから。
公衆浴場と言えるほどの広さは無くとも、利用者の1人や2人いてもおかしくは無いであろう。
例えば神殿内で仕事に従事する者たち、あるいは同様に祭られる神につき従う下位の神々であるとかだ。
そういった者たちが交互に利用していてもおかしくは無い……それくらいの広さがある様に感じた。
ただ問題は、ここが奥まった―――明らかに客人向けの場であるという事なのだが。
小雨の様な水音から、ここが蒸し風呂ではなく湯水で身体を洗い清める場である事を知る。
それもまあ、珍しくはあるが問題は無いだろう。
剣闘士として闘う以上は風呂の無い生活など考えられぬから、当然ハーキュリーズも使った経験があった。
なので、そういった面で戸惑う事もない。
だから本当に問題は『これからどうすべきなのか』という事だけなのだが。
どうやらそれが一番の難問になりそうであった。
何故人の存在に気付いたかといえば、脱衣所の隅にどう見ても畳まれた衣服らしき布が籠の中に納められていた上、その先にある浴室からは先ほどから僅かに聞こえる水音と共に温かい湯気がこれでもかと溢れ出ていたからであるが……。
はて、ではこの中にいるのは誰なのか。
先客はどうやら1人で入浴しているようであり、介助人などが共に入っている気配は無い。
時折漏れ聞こえる「はふぅ」という艶めかしい……というにはやや艶が足りぬ声は、どう聞こうとも女性のもの―――若い女性に限定したくなるのは、果たして希望か願望か―――にしか思えず、ならば先に案内されたというユウェンタース神かとも思うものの、それにしては透ける影の大きさが違う気がした。
湯煙に揺れる影から察するに、相手の背丈は標準よりはやや低いものの明らかに成長した女性のソレである。
いまだ子供であるユウェンタース殿とは、明らかに違うその大きさ。
同一人物であるなど、とうてい思えなかった。
あるいは神殿の女官が利用しているのかとも思ったが、色仕掛けをする理由が思い当たらず困惑する。
運命神であるならば、あるいは悪戯の類で女性を近づける事もあろうかと思い、ありえないと断じる事が出来ずに悩んでしまう。
どうにもあの女神、言動からして人で遊ぶ節がある様な気がしてならない。
「でも……どう……」
さああ、と小雨が降る様な音にかき消されるほど小さな声が、かろうじて耳に届く。
「ハーキュ……ズ……まに……わかって……」
困惑しているような声音で呟く言葉の中に自分の名が出れば、相手も何やら訳ありであるらしい事と、どうやらこちらも無関係ではないらしいというのだけは理解できた。
で、あるならば、だ。
ここはまず、自分の所在を明らかにすべきであろう。
少々立場的にまずい気もするが、このまま寝室に向かってしまうよりも状況は把握しやすい筈とハーキュリーズは考えた。
要は今の内、という事である。
寝室にて何か事あらば、言い逃れできなくなってしまう可能性があった。
それだけは、避けなければならない。
何しろ、自分だけの事ではないのだから。
申し訳ないという言葉と、こちらもこの状況が本意ではないこと、人手は必要ないので戻ってもらって構わない旨を伝えておけば相手に迷惑がかかる事もないであろう。恐らくは、だが。
あるいは食事の支度などもあるであろうが、たかが2人。そのくらいならば自分だけでもどうにかなるし、ユウェンタース殿とてただの赤子では無いのだから。
もっとも、手伝いなどと恐れ多い事をさせるつもりもなく、むしろ介助する気満々であったのだが。
ともあれ、まずは声をかけるべきであろう。
それから非礼を詫び、こちらは後から利用するのでまずはゆっくり利用してもらうよう頼むのと、寝室での世話役の用が無い事を伝えねば。
「その、失礼する」
意を決し、声をかけた。
ただ、それだけであった。
がたっ、びたんっ!
「えっ!?きゃ……ったっ!?……うう、いたたっ……」
ただそれだけではあったが、大きな音とともに女性の悲鳴が聞こえるという事態を招く結果となってしまった。
事態?……いや、完全に失態だった。
「どう、いかがされた!?もしや……!」
「ちがいますっ!怪我などはしてないので……っ、ちょっと転んで……滑って……っ」
怪我でもしたかと慌てて声をかければ、扉1枚隔てた向こうで同じように慌てた若い女の声がする。
はっきり聞こえたのは良いのだが、いかんせん状況がよろしくない。
そうならない為に声をかけたのだが、全くの逆効果になってしまった。
「いけませんな、誰か人を」
まさか裸体を晒しているであろう女人のいる場に踏み込む訳にもいかず、踵を返そうとするが。
「あ、いえその、そこまでは……。本当に大丈夫ですから!その、もう出ますから……」
「そっ……!?お待ちください!いけません!」
「ですがっ……!」
お互い動揺しているらしい。
どこかで理解していながらも、どういうわけか止められず、むしろ悪化して行くようだ。
―――そもそも、この状況でどうして出て来ようなどと思うのか。
いや、無事を知らせる為であるなど、理由は何となく思い浮かぶが。
だからといって、素直に出て来られても不味い。
何しろあちらはどうやら若い女性である様だし、こちらもこちらで成人をはるかに過ぎた男であるからして。
よりによって神の試練の最中に、逢い引きなど言われようものなら……。
例えこれが神の采配だとしても、醜聞などあってはならぬ。
悲しげな表情をするユウェンタース神の幼い顔が、脳裏をよぎった。
「やはり人を……」
「あの」
カタリと。
ごく近い場所―――具体的に言えば浴場の扉―――から、軽い音がしてギョッとする。
見れば、うら若い乙女が恥ずかしげに顔を覗かせていた。
「っっ……失礼!」
慌てて視線を外せば、相手はどこかおっとりとした声音で「まぁ」などと呟く。
随分とのんびりした思考をしている、と自分を棚に上げ呆れれば、さらにとんでもない事を言いだした。
「本当に大したことは無いのです。ですがその、着替えをしたいと思いますので」
お願いですから、この場から外して頂けませんか、と。
思わず盛大な溜息が出た。
この女性……いや、少女。随分と男慣れしていないとでも言おうか。
羞恥心に欠けているように思える……と考え、いや違うと思い直した。
―――そうだ、恐らくそれだけではない。
上気してはいるがまるで媚びの無い、きょとんとした表情に。
―――ただ思い至らないだけなのだ。
ちらりと視界を掠めた華奢でありながらも張りのある瑞々しい肢体が、水気の滴る濡れた髪が、純真さを体現したような声が。
そのどれもが“男”という存在にとってどう魅力的に映るかという事を。
「あの……?」
「いや、失礼。私はこれより先の部屋にて宿泊予定故、こちらの湯殿を使うよう言われたのだが、先客がいるのならと後回しにするつもりであったのだ。人手はいらぬゆえ、貴女はそのまま戻って頂いて構わない。夕餉の支度等は私自身で行えます故。……本当に痛みませんか?人は必要ないのですね?」
「……?ええ。本当に大丈夫ですわ。もともとわたくしの不注意ですし、少々打ちつけただけですもの。痛みも引いてきましたので、そう心配なさらないでくださいませ。あの……それで、戻るといってもその……行先はきっと同じ場所だと思うのですが」
「ですから、“そういった奉仕提供は不要だと」
「奉仕、提供?」
色事についてであるとはっきり言わねば分からぬかと、温厚な彼にしては珍しく苛立ちを滲ませかけた時であった。
「あの、わたくし使用人ではありませんわ。その……信じられないかもしれませんが……ユウェンタースですの」
「!?」
「きゃあっ!?」
「い、いや、す、申し訳ありませんッッ!!」
思わず振り向き、しっかりばっちり見てしまったが……不可抗力だと精一杯主張したい。
…………説得力が無い自覚は、ある。
「……床で」
「いけません!」
宛がわれた部屋は、想像以上に豪華であった。
派手すぎない程度ではあるが、各所に金色を配した優美な曲線を描く調度品の数々。
そして極めつけは、どう見ても2人で並んで眠る用の巨大寝具であったのだ。
もう1度言おう。明らかに2人用だ。
部屋に1歩踏み入れそれを見た瞬間、先ほどの言葉が出たのは仕方ない事であると思う。
今までの幼子であったユウェンタース殿であるならば、まだ言い訳はきく。いや、きいた筈だ。
だが今現在隣にいる乙女はどう見ても乙女であり……などと、ハーキュリーズはだいぶ混乱していた。
「しかし……」
「わたくしならば大丈夫ですっ!それよりも、ハーキュリーズ様を床に寝かせる方がよほど問題ですわ!」
何が大丈夫なのか。何をもって大丈夫などというのか。
混乱はますます酷くなるばかり。
ついには……。
「ほら、ハーキュリーズ様、こちらへ。食事の準備が整っておりますわ」
躊躇いなくハーキュリーズの手を取り嬉しそうに笑うユウェンタースは、美味しそうな湯気の立つ料理がこれでもかと並べられた卓へと引っ張って行く。
ひらひらとした薄衣は女性服としては一般的なものなのであろうが、どうにも心もとなく感じてしまう。
触れれば触れる状況で手を取られれば、事故の1つも起きかねないとつい警戒してしまう。
どこかで期待するような高揚感を感じるのは、女性と共に過ごす機会からここしばらく離れていたせいであろうか。
その一方、嫌ではないが……困惑と共に不安になる。
この『娘』、このような有様で本当に大丈夫だろうかと。
馴れ馴れしいのが問題なのではない。
むしろそこに、色が、情が、狙った獲物を罠にかけようとする“欲”が、仄かどころか欠片とも見えないのが問題なのだ。
それはまるで、父や兄弟に対する接し方と同等のように思えた。
ハーキュリーズは決して、血の繋がりのある肉親などでは無いのに。
確かに、父どころか下手をすれば祖父とさえ言われてもおかしくない年齢差ではあるのだが……あくまで他人である。
そんな『他人』に対してさえそのように振舞うのならば、少し言い聞かせねばならないような。
どこか使命感じみた思いを抱くハーキュリーズであった。
「いかがでしょう?お口には合いますか?」
「お気づかいなく。堪能させて頂いております。このようなもてなしを受けるとは思ってもみませんでしたから、少々驚いておりますが」
「まあ」
くすくすと笑う少女。いや、乙女、といった方が良いであろうか。
料理を口に運ぶ所作は美しいながら、どうやら健啖家であるようだ。
杯を傾けつつも、ハーキュリーズは彼女に見入ってしまっているらしい。
半ば観察といった方が近いだろうか。
幼い彼女と今の彼女、外見が違うせいか共通点を見出すのに酷く苦心する。
その努力は、もしかしたら安心、したいからなのかもしれなかった。
「こちらの方など、北の地方から取り寄せたものの様ですわね」
「ほう?それは珍しい。ユウェンタース殿は、やはりそういったお話には詳しいのでしょうか」
「そうですね、永遠を保つために必要な食事を管理している都合上……というのもありますが、お恥ずかしい話、ただ単に食い意地が張っているだけかもしれません」
「いえ、そう卑下なさる事もないでしょう。そういえば師匠らとともに狩りをした際にも、共に食事をいたしましたな」
「ああ……そうでしたわ。その、他の物……人にとっての一般的な食事とされるものを食べられない訳ではないのです。確かにわたくしたち神はアムブロシアやネクタルを定期的に摂取する必要がありますが、常にという訳でもありません。むしろ毎日同じものを食していては、飽きてしまうでしょう?その辺りは、人も神も同じだと思いますの」
葡萄酒を片手に饒舌に話す乙女。
……これは本当にユウェンタース殿であろうか。
快い酩酊と微かな戸惑いと共に、ハーキュリーズは彼女の飲むものと同じ酒が満たされた杯を再び傾けた。
―――事情は一応聞いた。
理解の範疇を若干超えてはいたが神々の為さる事、“そういった事”も起り得るのだろう。
酒を飲んだだけで成長する、などという事が。
しかも、たったひと晩だけの事であるという。
一夜の奇跡。まるで夢のような話。
しかしそもそもの話、意図せず急に幼くなったというのであれば単にそれと逆の事が起こっただけとも言える。
ならばこれも、不思議などでは無いのかもしれない。
大きくなったのだという乙女の言について、ハーキュリーズが一切疑わなかったのは神々が嘘をつく筈も……無いとは言わないが、少なくとも目の前の女神がそういった事をなさる方で無いと知っていたし、きちんと信じられる方だったからだ。
それに、常人にはにわかに信じがたい話ではあったが、話を続けるにつれて共通点……面影を見出す事もできてきた。
今ではもう、疑う要素など無いとさえ思っている。
それでも『彼女』は申し訳なさそうな表情をした。
『一時的でしかない事』を恥じて。
だが、それこそ不要の問題だった。
むしろ安心材料だとすら思えて……目の前の乙女神に見えぬよう、こっそりと苦笑する。
どうやら思わぬ『パルカ神の悪戯』に、すっかりしてやられたようだ、と。
それほど目の前の『乙女』は清らかで美しく魅力的で輝きに溢れ、一片の汚れもない様大切に大切に守り残しておきたいと……それでいてもしも『汚す』のならば是非我が手で―――と思わせるほど、執着と欲を駆り立てるような……そんな絶妙な魅力を放っていたのだから。
信じてもらえるか、受け入れてもらえるのか、不安だと零したその姿はまさに『男』に庇護されるにふさわしい、間もなく大人の女性として華開くであろう蕾のほころびを連想させる、すさまじい“威力”を放っていた。
これが今目の前にいるのが自制のきかぬ若い男であったならば、遠慮も容赦もなく据え膳を頂いていたであろう。
とんだ試練もあったものだと、ハーキュリーズは今この場にいないパルカ神の意味深な笑みを思い浮かべ、こっそりと息を吐いた。
悟られぬよう細心の注意を払った動揺はともかく、疑う余地もない事をはっきり言葉に出せば、彼女は安心したように「ほう」と息を吐いた。
そして、どうやらこれが彼女の―――ユウェンタース殿の本来の姿であるらしいとも聞く。
「あまり、変わって無くてお恥ずかしいのですが……」
「いや、そのような事は……」
変わらぬどころか、大変身にもほどがあるだろう。
食器1つ手に取る所作、滑らかに語る口調と出て来る話題の豊富さ、浮かべる表情は時折大人顔負けの艶を含み、それでいて純真な子どもの様な笑みさえ浮かべた。
今までは小さな子供が精いっぱい大人のまねごとをしているように思えていたものが、こうしてみるといかにも自然であり、この姿が真に正しいものなのだと訴えて来るようであった。
考えて見れば、この様にしてごく私的な時間と空間を共にする事が今までほとんど無かった、というのも1つの契機であったのだろう。
アポロ神の鉄馬車内ではほぼ2人きりという状態ではあったが、寝食を共にするともなれば、また別の見方が出て来るものだ。
だが今までの幼い姿であれば、この様な場を経験したとしても変化に繋がりはしなかったはず。
果たして、どちらがよかったものか。
思わず考えてしまうハーキュリーズであった。
さんざん議論を繰り返した末、流されるように共に床につき、間もなく何も疑う事無くすやすやと穏やかな寝息を立て始めた少女を見つめる。
最初こそ緊張があったようだが何が不安か抱きつくような姿勢のまま眠りについた彼女に、最後まで言えなかった言葉を口にしようとし……諦めたかのように複雑な息を吐いた。
狼などになる気は無かった。
そもそも自分は――――――亡くなったとはいえ妻帯者である。いや、あったが、それでも操を立てる……という訳でもないが、だからといって何も知らぬ清らかであろう(というか間違いなく清らかだと断言できる)乙女に無体を働く気は起こらなかった。
それでも密着する体が、薫る体臭が、聞こえて来る(ハーキュリーズにとっては少々悩ましい)吐息が、何となく“眠っていた獅子”の部分を刺激する。
『明確な目標』が見えたのは、良かった事なのかもしれない。
しかし一方で、あるいは――――――と思わせるものも、確かにあったのだ。
年齢差―――見た目だけの話であり、神々に年齢などあって無しが如き―――
かつては妻帯者―――今は男寡であり、何の問題も―――
積み上げる言い訳をことごとく駆逐する勢いの魅力に、最後まであらがったのは……。
相手は女神。
原点に戻るその1点。ほぼそれのみであった。
そうだ、思い返せばそこかしこでいくらでも話を聞く事が出来るだろう。
分不相応な“恋情”を抱けば、待つのは我が身の破滅である、と。
決して忘れてはならぬのだ。
麗しの―――犯されざるべき純潔の乙女が、間違いなく“神”である事を。
対等であるなどと、ましてや欲に負けて手を出す等、考えてはいけない。
男が―――ハーキュリーズが、自身に対してこれはマズいのではないかと警鐘を鳴らすも、すでに十分手遅れであった事を知る者は―――まさに運命のみであったろう。
女神ユウェンタース曰く「肉体を酷使してまで試練を乗り越えて下さった貴方様だからこそ、ここで十分休息して欲しい」との事であったが、熟睡するには少々気合を入れねばならぬようであった。
そして迎えた翌朝。
先んじての言葉通り、隣で眠っていたはずの女神ユウェンタースは“元通り”の姿となり――――――自覚の無いままに1人の“英雄”が胸を撫で下ろしたのは――――――
それこそ運命のみぞ知る、出来事であったのだ。
おっさんがよろめいたのは、完全にとーちゃんの(あらがえぬロリコンの)血筋。
正直チョロい。




