第7宮 天秤宮 開幕
『まもなく~第7宮~第7宮~。お降りの際は、お足もとにご注意ください~』
「到着したようですな」
「はい。では参りましょう」
「お待ちください、忘れ物は……無いようですね」
周囲をぐるりと確認されるハーキュリーズ様。
その後様子がおかしくて、少し笑ってしまいます。
「ユウェンタース殿?」
「いえ、なんでもありません。大丈夫ですわ」
わたくしもハーキュリーズ様も、持ち物と呼ばれるようなものはごくわずか。
確認するほどあちこちに物を置いてなど無いのですから。
「さあ、行きましょう」
笑って、彼の手を取りました。
「ここが……天秤宮」
「美しく、またどこか恐ろしくも感じますな」
夜闇に支配された、果ての無い湖に浮かぶ湖上の神殿。
左右に分かれた棟は、司る象徴を表すが如く天秤を模したものであるのでしょう。
過分に過ぎたるものは、地にあらざるものの象徴でもあります。
美しすぎて怖い、というハーキュリーズ様の評も、あながち間違いではないのかもしれません。
「……」
「……」
天と湖、双方に映し出されるは星の海。
そこに浮かぶは、完全に満ちた2つの月。
全てが対称。
その中で、わたくしたちだけが歪でした。
圧倒される調和の世界が訴え来たる存在感ゆえ、お互い黙りこんでしまいます。
耳が痛いほどの静寂。
ここにアポロ様がいらっしゃれば、その明るい朗らかさで場を盛り上げるのでしょうが。
……彼の方は、ご本人曰く「例によってお留守番」だそうです。
何でもここに配属予定の神は、対処さえ間違えなければ敵対する立場に無いとの事。
それは、どういう……?
こうしてただ黙って待っていても仕方ありません。
わたくしたちは意を決し、神殿の扉を開きました。
「まあ」
「これは、今までにない……その」
ええまあ、今までにない展開……ですわね。
扉を開けば、そこには上に続く階段があるばかり。
広間やら、奥に続く廊下があった今までの神殿のつくりとは、最初から違うようです。
「参りますか」
「そうですわね」
他に行く場が無いのであれば、ここを昇るしかありません。
しかしこの階段……どう見ても外観より高い場所まで続いているのですが……。
どうなっているのでしょうか?
「ふう」
「おつかれさまでした」
「いえ、その……お恥ずかしいです」
「仕方ありません。身体の出来が違うのですから」
「それは……そうなのですけれど」
まるで小山を上っているかのような、急な階段……しかも距離が長いときたものですから。
常日頃の運動不足が如実に出てしまったみたいで、恥ずかしい限りです。
対してハーキュリーズ様は、やはりといいますか……息1つ乱しておりませんね、さすがですわ。
途中でバテてしまって、危うく「抱きかかえて行きましょうか」などと申し出されてしまったわたくしとは、比べる方が間違いなのでしょう。
言ってて悲しくなってきてしまいました。
き、気持ちを切り替える事とします!ええ、忘れましょう!たった今から!
「うふ、ようやくここまでたどり着いたようね」
「貴女……さまは……」
長く続いた階段の先、紫紺に染まる扉を開けば、そこに佇むはぬばたまの闇を纏う1柱の女神。
いずれ至る先を示すように高貴な色を纏いしその姿は、見る間にゆらぎ、幼子からまたたくまに老女へと変わり行く。
ゆえに1柱にして3柱であるともいわれる、その神の名は―――
「運命神さま……」
「天秤宮へようこそ!」
まさか、このような場にお出ましになるとは……。
「この、方が……!?」
ハーキュリーズ様も驚いてらっしゃいますが、それも当然。
彼の神は常に世の外側におり、見守る神ですから。
人の前に姿を現す等、幾久しくなかった事ですもの。
「本来であればこの宮は、戦女神が主人となるべき場。しかし彼女では平等や公平さに欠けてしまうでしょう?天秤を釣り合わせる為、わらわが選ばれただけにすぎないのよ。だからそう緊張し☆な☆い☆で☆」
「は……?はあ……」
まるで慈母の如き穏やかな声音から、お茶目な老女の声音まで変わりつつそうおっしゃるパルカ様に、戸惑うご様子をお見せになるハーキュリーズ様。
そうですわよね、初めてお会いする方は皆一様に驚かれるという話ですし。
つまりこの宮において、本来の試験官役は戦の神であり知恵を司るミネルウァ様となる予定でしたが、天秤宮に配するにはいささか肩入れが過ぎるので……というご配慮なのでしょう。
人の世の戦や英雄の試練など、幾度か知恵を貸してらっしゃるというお話は伺っておりますもの。
お役目故いたしかたない部分はあるのでしょうが、パルカ様がそうおっしゃるのならば、そういうものであるのでしょうね。
「……難しく考える事はないわ。楽にしていいのよ」
「は、ありがたく」
俗な言い方をすれば妖艶な熟女と評されるであろうご容姿をしたパルカ様は、お姿に似合わぬ気の回し方をしてくださったご様子。
髪を払うけだるげなその仕草こそ、実によくお似合いですわ。
「試練も半分という事で、この宮ではあなた方にしばし休息を与える事になっているの」
「休息、ですか?」
まあ、それは……。
わたくしとハーキュリーズ様、お互いに顔を見合せます。
「当然だけれど試練はあるのよ。でもそれも簡単なもの」
「簡単、とは?どのようなものなのでしょうか」
「せっかちねえ、焦っちゃいやぁン❤」
「……」
思わず黙ってしまったハーキュリーズ様のご様子に、パルカ様はふふっと謎めいた笑みを浮かべます。
「オーケィ、教えてあげるわ。先の獅子宮において、ネプテュヌス神より牛を賜ったのでしょう?要はそれの引き取りね。試練内容としてはこうかしら?『英雄ハーキュリーズよ、ネプテュヌスの褒美を受け取る為、クレータ島の王より牡牛を回収せよ』」
さすが、『直接のご兄弟以外でお父様に次ぐ力を持つ例外的存在』と言われるだけはありますわ。
ご神託なさる時には今までのどこか危うい雰囲気が嘘のように消え去り、重厚なる威圧感すら漂いました。
その威容に、ハーキュリーズ様も当然の如くひざまずきます。
「はっ!!必ずや………あの?失礼とは思いますが、確認させて頂いてもよろしいでしょうか。その、回収するというのは牡牛……で合っているのでしょうか?雌牛では無く?」
「……ネプテュヌス叔父様からは、牛乳がどうとか聞いておりましたけれど」
確かに、後で贈るとおっしゃっていましたが。
まさか、牛そのものを贈ろうとした訳ではありませんわよね?叔父様。
ついでに雄雌の判断がつかなくなるほど妄碌(失礼)した訳でもありませんわよね?
そもそも牛乳とは、子を産んだ雌牛から採れるものではなかったでしょうか。
疑問を素直にお伝えすれば、パルカ様はまたも少々面倒くさそ……いえその。
一応、お答え頂けるようでした。
「モノのついでと言うヤツね。休息を与える場とはいえ試練をさせない訳にもいかないし、あるいはただで褒美を与える訳にもいかないの。かの王はネプテュヌス神に贄を捧げるという約束を謀り、別の物で代用しようとした。すでに報いは受けているけれど、肝心の贄となるはずであった牡牛が返って来ない。それを取り戻すのが今回の仕事……試練よ、よろしくて?」
あの……使いっぱ、という言葉が脳裏をよぎったのですが。
素直に牛乳だけ頂く訳にはいかないのでしょうか。
「その報酬として、約束の物を授けましょう。言うまでもないけれど、傷付ける事まかりなりません。いいわね?」
「承知いたしました。必ずや、無傷にて御前にお届けいたしましょう」
「ああそうそう言い忘れていたけれど、彼の牛は非常に気高く美しい。言いかえれば、気に入らない者に対してはかなりの暴れ牛っぷりを発揮するとの事だけど……今の貴方ならば容易く抑えられると思うわ」
「ご期待に添えられるよう、尽力いたします」
「うふん」
パルカ様のこのご様子ならば、どうやら本当に危険は無さそうです。
正直ホッといたしました。
……何分、前回が前回でしたから、ね。
「ではさっそく出立いたします」
「そう?」
「あの、わたくしは……?」
どうやらこの様子では、付き添う必要もないようですが。
「そうねえ、乙女ちゃんにはこちらに来てもらおうかしら?」
「えっ?あ、はいっ!」
誘うようにひらりと伸ばされた腕に、現実感を失いかけます。
「ここより先は何時でも無い時、何処でも無い場所。気を付けて―――でないと」
「あ、の?」
幾度も姿を変えるパルカ様のお姿は、今また変化し老女から妖艶な貴婦人へと。
意味深なそのお言葉に、囚われそうになってしまいます。
いけない―――これ以上惑わされては―――
「戻ってこれなくなってしまうわよ」
「ユウェンタース殿!」
「っあ」
ハーキュリーズ様にやや強く呼ばれた事で、急に全てがはっきりした気がいたしました。
「行って、まいります」
「あ、は、はいっ!お気をつけて!」
「はい。ですから、御身も」
「……そうですわね、わたくしも気をつけますわ」
その言葉を聞いたハーキュリーズ様は、笑みを浮かべました。
いつもよりもやや深いといえる、その笑みを。
「よろしいかしら?」
「あ、申し訳ありません、大丈夫ですわ」
パルカ様にうながされ、神殿の奥へといざなわれます。
ですが、もうわたくしが、あのあやふやな感覚に再び呑まれる事はありませんでした。
「さて、彼が帰るまでの間、こちらで待ちましょうか」
通されたのは、意外にこぢんまりとした居間……の様な部屋、でしょうか。
客用の応接セットがある他、壁のあちこちには物が掛けられており、同じく壁に沿って配置された棚には数え切れぬほどの物が溢れています。
「あら、気になるものがあるなら、どうぞ手にとってご覧なって?」
「えっと、よろしいのでしょうか」
「ええ。どれも“イワク”付きの一品ばかり取り揃えたのよ?」
どうやらここは、客をもてなす場所であるのと同時に、パルカ様の蒐集品をご自慢する場でもあるようでした。
「そうねえ、お嬢さんなら……これなんかどうかしら?」
「まあ!かわいらしいお人形たち!」
精緻な彫刻を施された棚、磨かれた硝子扉の中に納められていたのは、数々の人形たち。
「このあたりを治める人の国では彫刻ばかりがもてはやされていて、あまり人形に目を向ける者はいないのが残念ね」
「そうですわね……。あ、だとすればこれらは?」
「うふ、ツテを辿る様にあちこちから集めて来たものよ。中には“自分から”来た“子”もいるけれどね……?」
「そ、そうなのですか?」
どういう意味でしょうか、考えるのが少し怖いのですが。
などと、いくつかの品、あるいは作品を見させていただいた後、まるでとっておきを出す様に見せていただいたのが件のお酒、だったのです。
「白乾児、ですか?」
「ええ、東方から取り寄せたお酒だと聞いているわ。なんでも、特定の条件を満たした者にしか効果が無いけれど、不思議な現象が起こる場合があるとかなんとか」
「……本当に大丈夫なんですか?そのお酒」
仙人と呼ばれる人たちがいらして、神々の様な事象を司るとか、あるいはそれを手伝う―――こちらでいうところの精霊の様な存在であるといった話は聞いた事がありますが、もしやそういった方が伝えたお酒なのでは……?
薬酒や霊酒などといったものは、世界中どこに行っても無い場所は無いほどですし。
話を聞く限りでは、呪いの類ではなさそうですが……。
「ほら、こちらよ?」
瓶から注がれ器に満たされたお酒は、一見変哲のないものに見えました。
「透明、なのですね」
少し意外です。
妖しい雰囲気のお酒かと思っておりましたから。
もう……思わせぶりな事をおっしゃる。
脅かせようとでもなさったのでしょうか?
どこか煙に巻くような物言いをなさいますし……。
そういえば、聞いた事がありました。
『運命』は定められたものであるが、『未来』は定まらぬものであると。
はっきりとした言い方をなさらないのは、運命でありながら可能性を信じたいという女神のご意思なのでしょうか。
そうであって欲しいような気もする……ような?
わたくしまで、あやふやな気持ちになってしまいました。
ともかく、です。
「さ、乾杯しましょ?」
「あの、本当によろしいのですか?」
「ええ、お嬢さんも気に入ったのでしょう?」
「味の想像がつかないので、なんとも……。」
「うふっ、それこそ飲んで確かめればいいのよ。さ、グイッと」
ぐいっと……飲む訳にはいきませんが(神ゆえに未成年でも許されてはおりますが、さすがに一気飲みは危険だからダメだとお兄様たちにも強く言われていましたし)ちょびっと、ちょびちょびっとずつ、口に……。
「あ、これ、かなりつよ……」
ど く ん。
「あ、ああ……っ!?」
からだが、あつい……っ!?
異変が起きたのは、割とすぐ後の事でした。
「うふふ、どうやら『対価』はきちんと『支払われた』ようね?」
「え……っ?」
「言ったでしょう?不思議な現象が起こる、と」
確かに、そうおっしゃってましたけど……っ!
単なる脅かしでは、なかったのですか!?
「それもまた運命♪」
そ、そんな!?
試練も半ばにしてこの状況、い、いいのでしょう、か!?
変異はおさまっていましたが、変化は治っておりませんでしたから。
動揺するわたくしに、女神は意味ありげな笑みをおくります。
「『効果』は一晩よ、だから『今宵』は泊まって行きなさい」
そ、そういう問題では……っ!?
ちょ、ちょっとだけ安心しましたけどっ!!
でも、だからって……!
正直複雑、ですっ!!(涙目)




