剣闘士、其の者の名は……
とある地方にある城市。
超巨大円系闘技場がある事でも有名なその城市に、剣闘士として生業を立てていた40も近い1人の男がいた。
彼はまだ20代の若造だった頃にふらりとこの街へやって来て、以降長い間、闘技で培った立派な体躯とその身丈よりも巨大な剣の1振りでもって圧倒的な強さを魅せる為、観客らから絶大なる支持を受けていた。
そんなある日の事。
今日の試合もまた圧倒的な勝利で飾り、観客からの雄叫びの様な声援を浴びた男は、その声に応える事もなく常の様に黙して戻り控えの間にて汗を拭っていたところ、雇い主であり、また彼の強さに惚れ込んで様々な援助を授けるこの城市の市長に呼び出しを受けた。
城市の市長―――運営責任者であると同時に、この街のコロッセウムの筆頭権利者でもある彼は、非常に珍しい事に、今日の勝利に対していつもの如く大げさなまでに褒め称える事もせず、むしろ机に両の肘を立て無言で床を睨みつけている状態のまま男を迎えた。
「いかがされましたか、市長殿」
「ああ君か。疲れているだろうに、急に呼び出して悪かったね」
日ごろの飽食で肥った体を揺らし、あわてて視線を前方へと戻す市長。
彼曰く「肥え太った自分こそがこの街が豊かな証となる」だそうだが。
一見民から徴収した税で贅なる暮らしを送っている様に見える彼だが、実際その暮らしぶりは多忙を極めている為、食に娯楽を求める事くらいしか出来ない事を、長くない付き合いの中で男は理解していた。
また、あれこれ難癖をつけて人を扱き使うなどと悪し様に言われがちな市長だが、それも相手を見定め、また有能な人物を無駄に遊ばせておく事はないとの考えによるものであり……まあ、彼の“コレ”は、とどのつまり面白くて金がもうかればそれでよかろう、の精神なのだ。
人柄さえ知ってしまい、それでいて自己の能力が優れているのだと発揮出来てさえいれば、これほど後援が心強い人物もいないだろう。
事実莫大なる報酬と個人的な依頼を引き受ける代わりに、男の仕事は剣闘士として試合をするのみにとどまらず、城市各所の警備から警邏隊の訓練まで、多岐に渡る。
あくまで上司と部下であり剣闘士と上客の間柄ではあったが、周囲の人間が邪推(主に市長が男を下僕のごとく好き勝手使う、など)する様な事もなく、半個人的な2人きりの時間にはこうして気遣うセリフもさらりと出る市長の事が、男は嫌いではなかった。
「いえ、どうぞおかまいなく」
「ふむー、本当に君は、いつまでたっても他人行儀で遠慮ばかりするねえ。……だが、そんな君だがこればかりは本当に残念でならないよ」
「……何か障りでも?もしや、先ほどの試合で何かございましたでしょうか。お申し付けいただければ何なりと、必ずやご希望に添える働きをいたしますゆえ」
心底不本意そうにため息をついた上司に、男はいぶかしげに問い、促した。
その一方で、心当たりのない男は原因かもしれない先の試合について思いを巡らせる。
何か不手際でもあったろうか?あるいは先ほどの試合、もっと観客向けに派手に演出すべきであったか?
それとも先ほど市長が言ったとおり、相手との距離の取り方を間違えて機嫌を損ねたか……。
男にとっても市長は大きな後援のひとつ。
寵を失う事は避けなければならなかった。
何しろ生活基盤はもとより、何よりも大切な1つの望みさえ、いまや彼の権力無くしては成り立たなくなっているのだから。
「おお、すまないすまない、そういう事ではないのだよ。個人的には今後ともこのコロッセウムにて存分に腕を振るって欲しいところだ。……だがな」
しかし、市長の話はそういった類のものではなかったらしい。
迷っていたようだった市長の目に宿る光が、不意にその色を変える。
ひたり、と鋭い眼光が男をとらえた。
自然、場の空気も改まる。
“やればできる”市長の、本気の……統治者としての瞳。
そしてこの城市にて絶対なる権力を持つ者は、男の眼を見詰めたままこう言った。
「剣闘士ハーキュリーズ。先刻大神ユピテルよりご神託が下された。―――『英雄たる素質あるものに、禁忌を犯した女神を連れ、十二宮を巡らせよ』と。……吾輩は、その『素質あるもの』というのが君だと思っておるのだよ」
両者の間にわずかに沈黙が落ちる。
「それは、本当なのですね?」
「ああ。名指しがあった訳ではないが、その場にいた神官、補佐官、コロッセウム職員のすべてが、満場一致で君の名を挙げたよ」
その言葉に、男―――ハーキュリーズは僅かに顔をしかめた。
「私は――――――私には、そのような力も素質もありません。ただ生きるに剣を振るい、望みの為に力を求めました。――――――かつて妻子を殺され、その復讐もままならないなか、こうして日がな用意された相手を屠るしか能のない……益体もない愚かな男です」
普段何も浮かべぬ顔に、今は明らかな暗い後悔を張りつかせて。
しかし、当の雇い主は首を横に振る。
「あれほどの戦いぶりを毎日のように見せられて、ただ人であると信じる輩がどこにおろうか。君ならば神の血をひいていてもおかしくはない。……風の噂で聞いた話によると、何でも外つ国では英雄を死後天に召したのち、苛烈なる訓練させているという。……いずれ来たる災厄に備えて、な。我らが住まうこの城市をはじめ、近隣一帯を纏め上げている城市国家同盟においても、それはありえぬ話ではないと思うておるのだよ。実際英雄という存在自体、さして珍しいものではない。……だから、君がそうであればよいと夢を見るほどには、吾輩らは君を買っているのだよ」
だからこの件、受けてもらえぬだろうか、と。
そう言って、上司であり市長である肥えた男はわざわざ椅子から降り、ハーキュリーズの目の前で深ぶかと頭を垂れたのだった。
「……おやめください、市長殿。これでは立場がまるで逆ではありませぬか」
「おお、それでは受けてくれるのだな!?」
「…………」
ぱっ、と顔を上げた市長の表情は明るい。
どういう訳か「この面倒な事態からようやく解放されるぞ」という言葉が聞こえてくるような気がする……のは気のせいだろうか?
「おおー、そうかそうか。では気の変わらないうちに……ささ、こちらです、こちらにおいで下され」
ささっと後ろを振り向き誰かを招く上司に、ハーキュリーズは内心でため息をついた。
……これだ。これに何度騙されただろうか。
いったん下手に出て、自分に有利なように事を運ぶ。
何の事はない。これがいつもの彼のやり方だった。
『金と道楽の為なら自尊心すら売り飛ばす』
いつだったか、酒の席で唾飛ばしながらそう語った彼の姿が思い起こされた。
「…………」
「…………」
ずいぶんと小さい。
それが、上司に連れてこられた人物を見て最初に思ったひと言だ。
「いかがですかな?彼が、当コロッセウムにて最強の剣闘士、ハーキュリーズですぞ?」
上司に促され、限界まで首をのばして顔を見ようとする相手。
「…………」
ぽ
お互いに見つめあい、先に視線を外したのは相手の方。
背丈にかなりの違いがあるので、うつむかれてしまえば相手の顔は見えなくなってしまう。
だが、どうやら伏せる瞬間に見えた顔色から、照れたのではないかと推測された。
相手はそのまま市長の(横に)大きな体の後ろに隠れてしまう。
怯えは、見られなかったが……。
「この方を連れて、『十二宮』を巡って欲しい。やってくれるな」
片手で背後を指し、あいた手でがしっと肩を掴む上司に、普段なら絶対にやらないであろう低い声と眉間にしわを寄せた表情を隠しもせず、ハーキュリーズは詰め寄った。
「……赤子連れで十二宮、ですか?」
確かに先ほど神託の話で、その名は出ていたが……。
十二宮とは天の運行に際し、太陽の鉄馬車の通り道にある十二の宮殿の事であり、同時に選ばれし番人が守る聖域でもある。
ただ人にとってはどう地上を歩こうと、どう海上を船で行こうと、どう天を仰いで羽ばたこうと足を踏み入れる事あたわぬ場所であり、天の頂と同様、あるいはそれ以上に重要視され信仰されるべき場所である。
そして、もうひとつ。
十二宮は試練の場。
神に奇跡を願った際、その願いに相応しき者か見極めんと、試練として十二宮のいずれの宮への道が開かれる場合があった。
試練とは宮に仕えし番人より与えられるもの。
その無茶振り……もとい苛烈さに、試練を超えるものはまだ現れた事がないとさえいわれる、そんな十二宮全てを巡る……?この歩く事さえおぼつかなそうな、小さな小さな子供と?
冗談ではない。
聞いていない、無茶にもほどがある!と言外に問いただすが、
「赤子ではない!このお方をどなたと心得る!禁を犯したとはいえ、幼くとも天より参られた女神様にあらせられるのだぞ!控えよ!」
ぐっ
口には出して言わなかっただけ、まだ自制心が効いているのだろうか。
権力に逆らえず、口惜しい思いをするのは久方ぶりだった。
「聞け、ハーキュリーズよ。君は……いや、そなたはこちらにおわす女神様を連れ、先も述べたとおり十二宮を巡ってほしい。ちなみにもれなく1宮につき1つの試練が課せられるとのお告げだ」
「……………」
世が世なら、「マジですか」とでも言いたかったであろうハーキュリーズも、さすがにそれに類する言葉は呑み込んだ。人前だったので。
「……理由は、お聞きになられたのですか?」
「うむ。かの女神は天の頂より“堕ちた”る神とおなりあそばした。とはいえ、いまだ神は神。神々の中でもとりわけ重要たるお役目を持つ、との事で、特別に復籍が認められたのだよ。だがしかし、失われた力を取り戻すためには試練が必要。その道の同行に“君”が選ばれたのだ」
……もはや言っても詮無い事かもしれないが、英雄云々は別としても、同行、そして恐らく試練とやらの障害の排除も己の役として決定されてしまっているようだった。
「なに、そういう儀式だと思えばいい。君にならできる!できるとも!きっと簡単だ!」
何やら暑苦しく勝手言始めた上司をいい加減流す事にしたハーキュリーズは、改めて小さな―――上司曰く『女神さま』とやらを見やる。
……やはり、小さい。
赤子ではないと言ったが、いっていても3~4歳。間違いなく幼子、だろう。
神の年齢が外見と同じ……とは言い切れないが、この小ささで頑強であるとは思えなかった。
また、仮に強き力を持つ神であるならば、元より同行の徒などいらぬはず。
―――そもそも言っていたではないか“堕ちたる神”と。そしてその力は“失われた”と。
常に最悪の想定はしておくべきだ。
試練というからには恐らく簡単にいく筈もない。
簡単ならば試練にならず、それでは試練の意味がないからだ。
何より行き先は“あの”十二宮。
間違いなく難関であろう試練とやらを、この小さな子供連れで?
「そのう、だなあ、正直返事をする間もなくご降臨なされたのでな、何の準備もしておらぬのだ。……人からはついにヤったか、とか、このド外道とか言われるし……」
返事もろくにしなくなったハーキュリーズにじれたらしい上司は、どういう訳か泣き落としに走ったようだ。
よよよ、と泣き崩れる様子がいかにもでワザとらしい。
……というかその話が本当であるのなら、上司も上司で“大神”から押しつけられたようだが……。
城市長に対する周囲の目もアレだが、ハーキュリーズにとってはあくまで仕えるべき雇い主であり上司。
そして剣闘士としても重要な後援者でもある。
嵌められた感はあるものの、仕事と言われれば割り切る事は出来そうだ。
……難易度がかなり無茶を言っているのを見ない方向でさえいれば。
「…………承知いたしました。この名にどれほどの価値があるかはわかりませんが、このハーキュリーズ、女神様の道中の護衛、お引き受けいたしましょう」
――――――こうして、子連れ(となった)剣闘士の、十二宮を巡る旅が始まった。
剣闘士の1日 例)ハーキュリーズの場合
1:朝から闘技場で試合→昼非番→夕刻、定時報告を聞いたついでに軽く鍛錬場で体を動かす
2:早朝稽古(同輩後輩の型を見る)→日中各班に分かれて警備→夕刻から夜、問題なければ城市の上司に報告して帰宅
3:早朝稽古(同上)→昼非番→引き継ぎを済ませてからの夜間警邏
4:日中非番→昼過ぎ各部署からの報告確認→夜試合(テンション高め)
5:朝軽く体を温める程度の運動→昼試合→夕刻、定時報告を聞いてから帰宅
ほっとくと鍛錬ばっかなので上司はまめに休めという