第3宮 双児宮 結末
「んだとぉ?あんた……俺に指図するって言うのかぁ?」
「そうではない。だが……」
「もうっ、やめてよ!」
「お前は少し、飲み過ぎだ」
「いーやっ、まだまだっ!これっくらいぃ、飲んだ内に入るかってんだぁ!」
「すでに呂律も回っていない。そのくらいにしておいた方がいい」
「うるせえ!」
「これは……いけませんねえ。どうやら、自分が酔っ払っているという自覚も無いようです」
最初は楽しい酒盛りでした。
弓使いのお兄様よりお預かりしたお酒は、ご本人様からも是非にと勧められて杯へと注がれ、お返しという訳ではありませんが、せっかくなのでという事になり、わたくしも―――不完全ではありましたが神酒をふるまったりして。
昔取った杵柄といっていいのでしょうか、わたくしもかいがいしくお酌をして回ったりなどし、楽しく過ごさせて頂いていたのです……が。
時が経つにつれ、お弟子さんのお1人……弓使いの方の呂律が怪しくなってきまして、では、そろそろ、という雰囲気になったところ……肝心の当人だけが終わらせる気が無いようで、こうして……ええ、ダダをこねられているという状況になっていました。
「あの、差し出がましいようですが、お酒、楽しく飲めていらっしゃいますか?」
「おおん?おうよ!めっちゃくちゃ楽しいぜ!これ以上ないってくらいになあ!」
話しかけるのには、少し勇気が要りました。
わたくしが給仕をしていた神々の酒宴では、ここまでハメを外し騒ぐ方はいらっしゃいませんでしたから。
一応は、身の危険があると知っておいた方がいいから念の為、とバックス様より話をされてはいましたが、その……今のこの方のような、いわゆる『酔っ払い』に相当する方と直接お話しするのは初めてで。
弓使いの若者は、杯を掲げてにっかりと笑われますが……どうしてでしょう、わたくしにはその表情が、何かを忘れたくて飲んでいるような、あるいは、何から逃げてたくて飲んでいるように見えたのです。
「お酒は楽しんで飲むものであると、わたくしの……友人も申しておりました。ですが貴方の酔い方は、あまり良いものに見えません。ほどほどにしておいた方が、よろしいのではありませんか?」
「んだとぉ!?てめぇに何が分かるってんだ!ハ、何が神だ!そんなもんくそくらえだぜ!俺の事なんざ普段は見もしねえくせによう、知った風な口きくんじゃねえよ、所詮役立たずのガキ風情が!」
声を荒げられて、わたくしは思わず震えてしまいます。
そんな風に、思われていたのでしょうか。
最初にお会いした時から、お酒を預けて頂いた、その時から。
「ユウェンタース様!」
ハーキュリーズ様は呆然とするわたくしを即座にかばってくださいましたが、どうしてでしょう、弓使いの彼は、今度はハーキュリーズ様めがけ突っかかっていってしまわれたのです。
「あんたもよぉ、さっきから上から目線でよぉ、いらいらすんだよなあ……」
「ケンカしちゃだめだってば!」
剣の少年が慌てて止めますが、彼はそれを振り払って立ち上がります。
「止せ!酒の席を台無しにする気か!」
「うるせぇ!てめぇも、いつもいっつも説教ばっかで、いい加減頭にきてんだよぉ!」
槍の若者が止めますが、そちらもかえって逆効果だったようです。
「どいつもこいつも俺が悪いみてぇによう……こうなったら……全部ぶっ壊してやる!!」
「止めてったら!」
「止せ!」
「いけません!ハーキュリーズ君、ユウェンタース様を連れて早くこの場を去りなさい!」
「し……っ、承知!」
残る、と言いたかったのでしょうハーキュリーズ様は、それでもその強靭な意志の力で己に課せられた役目を思い出したようで、ごくわずかな逡巡ののちにわたくしの手を取りました。
ああ、ですが、それですら悪手だったのです。
「おいちょっとまてぇ!てめぇらその酒、持ち逃げする気かぁ!」
言われてわたくしは、思わず抱えていた手の中を見ます。
大切に抱えていたはずの瓶は2つ。
わたくしの神酒と……そしてもう1つは彼から預かった酒。
決して持ち逃げするつもりなどありませんでしたが、状況がそれを許しませんでした。
「てめぇら、それが何なのか知っててやったんだろうなあ……一族の秘酒だぞ!それを、勝手に飲みやがってええ!」
勧めたのは貴方です!
そう言えたらどれほどよかったでしょう。
しかしすでに正気を失っている彼に対し、今言ったところで通じる気はしませんでした。
「~~~~~~~!!」
酒に呑まれ理性を失った彼は、かばう仲間に気付く事も無く、渾身の力でもってふるい落とし――――――弓を、つがえ。
「いい加減になさい!!」
とすっ
仲間たちに追いすがられる中で放たれた矢は、止めようとしたのでしょう、偶然にも射線のど真ん中に入り込んだキロン先生の胸の、やや左側―――そう、心臓のあたりを打ち抜いて――――――
「せん、せ……?」
誰かが、力なく呼びかけましたが、先生は胸から矢を生やしたまま、うつむき、ぐらりと揺れ……そのままどう、と地に倒れ伏してしまったのです。
「う、うわあああああああ!!」
「なっ!?」
「先生!?先生!!」
「先、生……」
“あの”ハーキュリーズ様が、呆然とされています。
その様子を見て私は、事態を把握し動き出しました。
「先生、これを」
ふたを開け、先生の口元に神酒を持っていきますと、わずかに口を開いてくださいましたので神酒を飲ませます。
心臓の近くだっただけ、きっとたまたま急所を外れたのだと自分に言い聞かせながら。
――――――そんな偶然の方が、あるはずもないのに。
丈夫なケンタウロス一族の事ですもの、きっとまだ大丈夫。
傷さえなかった事になれば、きっと大丈夫。
……そう思いましたし、思いこもうとさえしました。
ですが。
「どうして!?傷がふさがらない!!」
お弟子さんたちによって応急処置が行われ、矢を抜き止血され神酒を飲んでも、先生は苦しそうに息を吐くだけでした。
「……いいのですよ。……『これ』はあらかじめ定められていた『運命』。……やはり……『こうなった』のですね……」
うっすらと目を開けたキロン先生でしたが、その瞳はまるで、ここではないどこか遠くを見ているようでした。
「―――神よ」
まるで息を吐くようなか細い声に、お弟子さんたちもハーキュリーズ様でさえ、ふるり、と震えます。
今すぐにでも、彼が息絶えてしまうのではないかという焦り、そしてその失われゆく命を留める術が、手だてが無いのだという絶望を感じているのでしょう。
わたくしはただ―――
ただ―――それを見守ることしかできませんでした。
まるで―――『あの日』のように。
「彼が放った矢は呪われし毒蛇の猛毒を塗ったもの―――それは彼の慢心と優越の象徴―――そして劣等感のあらわれ―――それを知りつつ結果的に放置したわたしは―――教師失格……なのでしょうね。―――これは……罰です。わたしは『あの日』―――神により不老不死の命を授かりました―――。しかし―――知っていて『守る』事が出来なかった私は―――死ぬことのできない私は―――以後……永遠に苦しまねばならない―――」
「そんなっ!?」
「先生!?貴様ッ!」
「先生……何故、それを……。違う、違うんだ!俺は……っ、そんなつもりじゃ……っ!!」
悲鳴が上がります。
が、キロン先生はそれすら聞こえていないようでありました。
「神よ―――“約束”です―――どうかわたしを――――――わたしをころしてください」
ぼんやりとした表情の先生は、周囲の嘆きに気付いていないのでしょうか。
その方向けた方向にあるのは、驚き固まるばかりのハーキュリーズ様と、星々があまねく輝く美しき天空。
キロン先生は天空へ向けていたその目を、ゆっくりとこちらへと向けます。
まるで、伝えたい事は全て伝えきったとでも言うように。
「女神よ―――貴女に感謝を」
「何を……おっしゃるのです。わたくしは……」
きっとこの中で、一番役に立たない存在でありますのに。
「貴女の神酒で―――わたしは苦しまずに旅立てる―――」
「先生っ、何言ってんだ!」
「お気をしっかり、先生!」
「先生っ、せんせいっ!!」
逃れようの無い死という永遠の別れを前に、お弟子さんたちがキロン先生へとすがりつきます。
「わたくしは……何も」
「いいえ」
かすかに。
本当に微かにですが、目をつぶったキロン先生は首を横に振ったようでした。
「貴女のお持ちになっているその神酒は……確かに不完全であり、致死毒を中和するだけの力は無い。ですが―――それでも―――本来ならば気を失う事も許されないほどの激痛を―――取り除いているのですよ……ええ、完全に、ね」
ですから、貴女はそうやって泣かなくてよいと―――震える腕を持ち上げて、キロン先生はわたくしの頬に流れる涙をぬぐってくださいました。
これは……慰めていただいているのでしょうか。
それとも、叱咤でしょうか。
わずかなりとも先へ進んでいるのだと、だからこそ、あの幾度も挑戦し続ける竪琴の詩人のように死を恐れず前を“いき”なさいと、そう。
「キロン……せん……せい」
呆然とした様子のハーキュリーズ様が、先生の名を呼びます。
その呼びかけに、先生はやはりゆっくりと顔を向けます。
「ハーキュリーズくん――――――貴方には申し訳ないことをしました―――」
「先生……そんな……謝られるようなことは……」
「いいえ―――恐らく貴方はわたしの死を悲しみ悼み―――悲しむのでしょう。そして自分のせいだと責めるのでしょう―――?きっと―――貴方のご家族が亡くなった時のように―――」
ハーキュリーズ様が、ぐっと口の奥を、歯を食いしばられたのが分かりました。
図星、だったのでしょう。
「……私が、彼をもう少しでも気遣ってやれたなら……あるいは……」
は、とそこでハーキュリーズ様は目を見張られました。
キロン先生でもなく、どこか中空を見つめて驚愕します。
「“あの時”のプルートー神のお言葉は……ッ、これであったのか!!」
血を吐くようなその言葉に、わたくしも遅まきながら思い出しました。
あの時、そう、こちらへ来る直前に、叔父さまは何とおっしゃっていたでしょう。
『とっとと終わらせて次へ行く事をお勧めする』と。
そうおっしゃっていたのではありませんでしたか!?
「叔父さまは、この『運命』を―――」
ご存じだったのですね。そして恐らくお言葉から察するに、キロン先生もまた。
「嘆く事は―――ないのです。あるべき魂があるべき場所へと逝くだけの事―――。不老不死こそが、自然の中の異端であったのですから―――」
不老不死―――。
先生の、ハーキュリーズ様との年齢の合わなさや彼に向き合うお姿、ご様子に、ようやく得心がいった心地です。
きっと先生は先生らしく、天の頂に座す神々より何がしかの褒美として、その“変わらぬ命”を頂き受け入れたのでしょう。
優しく説く先生は、とてもお強い方です。
こんな時でも、導いてくださろうとするのですから。
きっとこれほど強くなければ、不老不死という地に生きる者にとって過ぎたるものを、抱えていられなかったかもしれません。
「“死というもの”は―――いつだって突然に―――しかし平等に訪れるものであり―――地上を“生きる”ものにとって―――それはまさに運命そのもの―――いえ―――運命の一部であり―――死もまた―――運命という大きな時の流れから―――逃れる事は出来ないのでしょう―――」
だから、反省はすべきであるが、過剰な自責は必要ないのだと先生はおっしゃいます。
「貴方が――――――やがて族長という役職を務める事に対し―――重圧を感じていたのは知っていました―――」
「せん……せい……」
こんな時でも優しく、いえこんな時だからこそ優しく、先生は弓の方に語りかけ諭します。
彼が負うものの重さを知っていて―――それを放っておいたのは自分なのだと先生はおっしゃいました。
あるいはそれは、死に逝くものが最後に告げる、告解であったのかもしれません。
「貴方自身に自分の道を見つけて欲しかったのです――――――が、今考えれば―――もう少し何か―――かけて差し上げられるような言葉も――――――あったように思うのです―――」
「先生っ違うんだ、俺が、俺が……っ!!」
「なか―――ないで……」
吐息が、だんだん細くなってゆきます。
「しっていて――――――じぶんのいのちをなげだしたのはわたしです。せめられるべきはわたしもおなじ―――」
「先生っ!!」「先生ッ!!」
皆さん泣いていらっしゃいます。
お弟子さんたちも、ハーキュリーズ様も、……そしてわたくしも。
「とわは―――ながい。だからわたしは―――わたしのよわさはうんめいをうけいれた―――だから―――」
「もうしゃべらないでくださいっ!!」
少年のその叫びに、先生は微かにクスリと笑われました。
「どのみちもうおわりなのです―――すきにしゃべらせてくださいよ―――ああいけません―――すこしじぎゃくてきでしたね―――」
最後まで、お弟子さんを、わたくしたちを気遣って笑わせようとなさる先生は強く、お優しくて―――まさに先生と呼ぶ名にふさわしい方でしょう。
「ああ―――うつくしい――――――」
「え?」
それは、どなたのつぶやきでしょうか。
「ごらんなさい――――――そらが―――いいえ―――せかいは―――こんなにもうつくしい」
「はい、先生……ッ!」
「「「美しゅうございますッ!!」」」
美しい夜空の下、弟子たちに看取られながら、その偉大なる先生の魂は肉体を離れ天へと召されてゆきました。
「戻ったか」
「……はい」
「……」
お酒をお返しし、キロン先生の―――ご遺体をお弟子さんたちに任せ、わたくしたちはアポロ様の鉄馬車に乗り神殿へと戻ります。
弓使いのお兄様は、最後にちら、とこちらをバツが悪そうな顔で見、「あんなこと、いうつもりじゃなかったんだ」とぽそりとつぶやきました。
謝罪のつもり、だったのかもしれません。
乗り込んだ車内では、お互いに終始無言のまま。
このような時、何をどう……話してよいのかわたくしにはわからなく、上手く話せればよかったのにという後悔だけが、静かに降り積もって行くような時間でした。
そんなわたくしたちの様子を見て、叔父さまは大体を把握されたようです。
「…………あの、キロン先生は……」
「うむ、受け入れは完了した。『予定通り』ではある」
その言葉に、ハーキュリーズ様はぎゅっと強く拳を握られました。
わたくしはそっと、その手に触れます。
どうか、その手が傷つきませんようにと願いながら。
それほどまでに、強く、強く、握りしめておいででした。
「叔父さまは―――知っておいでだったのですね」
隣の大きな体が、びくりと震えます。
表情は――――――まるで岩でできた仮面のよう。
怒りも悲しみも、悼みも自責も飲みこんで、ただまっすぐに前を向いていらっしゃいます。
彼はずっと、こんなつらい思いを抱えて生きてきたのでしょうか。
わずかな時を共に過ごしただけでも、突然の別れに驚き悲しんだのです。
ましてやハーキュリーズ様ならば、なおさらの事でしょう。
「“あれ”の死もまた、あらかじめ約束された喪失。……当人へ、託宣は伝えられていたはずだ。お前たちの試練と、その際に果たされるべき役目と共に。そして“あれ”は全てを受け入れた。人によって捧げられる生贄と、さして変わらんというのにな。それだけ……不老不死の生に飽いていたのであろう。変わらないという事、それ自体、生きている事と真っ向から反するが故に。……ユウェンタースよ、我は言ったな、『運命には誰も逆らえぬ、我でさえも』と。そうだ、我でさえも、だ。“あれ”のみが、我の伝えられる最大限の言葉であったのだ」
「……はい」
「人の死に立ち会う事も、また試練。永遠を望むのであれば、避けては通れぬ道よ。その意味、じっくりと考えるがよい」
「はい……叔父さま」
わたくしには、うなづく事しかできません。……今は、まだ。
「これにて第3宮双児宮の試練は終わりだ、次へ行くがいい。ハーキュリーズよ、腑抜けもかまわぬが役目、ゆめゆめ忘れるな。……姪を、頼むぞ」
「……はい、承知いたしております」
わたくしの隣に立つ英雄と呼ばれた方は、全てを飲み込む強い―――形は違えど先生と同じ『心の強さ』をお持ちの―――大人の男性でありました。
神殿の外へと出てみれば、そこにひろがっていたのは満天の星が輝く世界。
ですが、どれほど美しい世界が広がっていても、キロン先生と最後に見たあの星空にかなわない気がするのはどうしてなのでしょう。
――――――夜はまだ、始まったばかりです。




