第3宮 双児宮 開幕
「ここが、第3の宮……」
「先の2宮と比べると、いささか趣が異るようですが……」
闇が濃くなる刻限。
太陽はすでに地平に消え、闇が世界を覆い尽くそうとしていました。
その中に浮かぶ第3の宮……双児宮は、先の宮と違い黒色の神殿でありました。
中から漏れる光も、こうしてみるとただ不気味なように映ります。
「……ともかく、こうしていても始まりません。参りましょう」
「そうですな」
アポロ様は何故か、案内を拒否なさいました。
それはこの刻限が、あるいはこの神殿が、はたまたこの先、試練の番人として立ちはだかる御神が関係しているのかもしれません。
見上げていても変わりはないのを確認し、わたくしたちは2人きり、どちらともなく手をつないだまま神殿の中へと足を進めて行きました。
ヲヲォォォ……ヲヲォォォ……
回廊を1歩進むたびに聞こえてくる、外を吹きすさぶ風の音は、まるで誰かの怨嗟の声のよう。
苦しいと、助けてと誰かを呼ぶような、止めて、殺さないでと懇願するような。
隣を歩むハーキュリーズ様の表情は進むにつれてどこかこわばり、顔色も悪くなっていっているような気がします。
わたくしにとっても馴染みのある場ではありませんが、近しい雰囲気の場所を知っていたので、そこまで恐ろしくはありません。
ただただ、具合の悪そうなハーキュリーズ様の為にも早く終わって欲しい、そう願いながらたどり着いた先には……1柱の、背の高い男性神が待っておられました。
「よく来た――――――よく来た。試練を受ける者たちよ」
青白い肌、長身にして痩躯であり、ゆったりとした黒衣を纏うその上からでさえ、覗く腕は骨と皮ばかりに見えます。
陰湿な印象を抱かせる相貌。
鋭い目つきをされているようでありながらどこか不安定で、まるで影を見ているような薄い印象を与えてくるのは、その眼の下に湛える分厚い隈のせいかもしれません。
「生を生きるが故、人も……神さえも罪を犯さずしては生きられぬ……。その罪という名の底無し沼から救われたくば、もっと徳を積みたまえ。具体的に言うと“金”、“金”、そして“金”!そう、これは浄財。出来なければ今すぐ地の底に送ってやろうぞ!そして刑務作業(永遠の肉体労働、無休で無給のエンドレスサービス地獄)に従事するがいい!」『『殺メッ!』』「ガニイイイイイィィィ!」
……相変わらずのブラックっぷりですわ、プルートー様。
部下の方々も、ノリのいい方が揃ってらっしゃるようで……。
と、いいますか、その凶悪なほどに巨大なハサミを振り回している大蟹は……?
それにそのネタ。
お気に入りなのは以前から存じておりましたけれど、いい加減返して差し上げませんと。
死、そのものを司っていらっしゃるオルクス神さまが、草葉の陰で嘆いておられますよ?
ただでさえキャラが被っているせいで、よく間違われると悩んでらっしゃるのに。
「なに、地獄の沙汰も金次第というではないか。何処もやっている事、大丈夫だ、問題無い!むしろ我が冥府はこれでも、明瞭会計で通ってる方であるがゆえに!」(キリッ)
「自慢できるところではありませんわよ!?それ!」
「……あの、もしやその方は……」
あ、あら。わたくしとしたことが。
「……こほん、ご紹介が遅れましたわ、こちらはわたくしの叔父にあたります、冥界を統べる冥府の王神、プルートー様です」
「殺~~~メッ!そして彼は、あの九ツ首ヒュドラのいた毒沼に住んでいたが、そこの英雄によって気づかれぬまま存在そのものを消されてしまった哀れな友情厚き化け蟹『ガニィちゃん』だ!冥界と言えば蟹だからな!ちなみに主食は人間だそうだぞ!」『殺メッ!』「ガニィィィ!!」
「…………それは……なんと言いますか…………。ともかく、こちらこそよろしくお願いいたします」
どう答えて良いのか迷った挙句、流しましたわね?ハーキュリーズ様。
何やらわたくし、頭が痛くなってきた気がします。
プルートー神様は、部下の方々やガニィちゃんを下がらせますと、ひたりっ、とハーキュリーズ様のお顔を見つめました。
「ふむ。ハーキュリーズ、君の事はよく知っている。……かつての因縁もな」
その言葉に、ハーキュリーズ様はハッとした顔をされました。
そうです、いま目の前にいるのは冥界の主。
わたくしの父とほぼ同等のお力を持ち、世界の1/3を統べる死者の国の王なのです。
つまりは、かつて彼が愛した妻も子も、この方の治める国にいるという事になるのですから。
「無理を承知でお願いいたしますっ!妻と子に会わせてください!話を……いえ、せめてひと目でもいい、顔が見たいのです!」
「……」
胸が痛みます。
引き裂くような罪悪感と……そして彼に愛されているのがわたくしではなく、別の誰かであるという事実によって。
ああ、なんて罪深い。
今まさにわたくしは羨望しているのです。
もしかしたら、嫉妬さえしているのかもしれません。
この方に愛された奥様に……そして子供らに。
そして恐れておりました。
他ならぬ叔父の言により、わたくしの犯した“罪”がこの方に暴かれてしまうのを。
叔父はその件については触れず、ただ出来ないとだけおっしゃいました。
「今のこの場は我の力によって冥府と繋がってはおるものの、あくまで別の……女神ユウェンタースの試練の儀場である。我が冥界を歩む為に受ける試練の場ではない」
「それはっ……そうですが、しかしっ」
過去、冥界を訪れ亡き人に会いに行かれた方がいなかった訳ではありませんし、その為の試練というのも実は存在します。
そして、それについては特に秘匿とされている訳ではありませんから、ハーキュリーズ様もご存じだったのでしょう。
その時ではないと諭されてなお、ハーキュリーズ様はあきらめ切れない様子で言い募られますが、プルートー叔父さまは首を横に振られました。
「生者と死者が交流する事を、我は望んではおらぬ。それを許せば秩序は乱れ、世界は混乱するであろう。かといって完全に繋がりが断たれてしまってもいけない。お互いに閉じた世界では、何の為に死者と生者の世界があるのか、その意味が無くなってしまう。故に試練が存在するのだ。だが、お前の“それ”は我欲……自己の満足の為、であろう?最初からそれだけを望み、自らの命さえ担保とするだけの強き心、そして求める先に待つ魂そのものが目覚めを望まぬ限り、試練の門は開かれぬと知るが良い。お主の愛した魂は、傷を癒し新たに目覚めるその時まで、深い眠りについておる。巡り来る機会を無駄にしないという、その意地に敬意を表せども、冥界の主として安らかに眠る魂をむやみに起こす事は出来ぬ。……“この世界”とは、“この世界の住人”の為のもの。……我ら死界に属するものの為ではない。……諦めよ」
「そん……な」
茫然とつぶやき、膝をつくハーキュリーズ様。
どれほどの強敵を前にした時でさえ決して地につける事の無かった両の足が、今はがくりと折られ、ついには顔を覆ってしまわれました。
本当は慰めて差し上げたい。
貴方のせいではないと。
しかしわたくしには、その権利も無いのです。
ただただ、手を伸ばす事も出来ずにそばにいることしかできません。
そんなわたくしたちを見守っておられたプルートーさまは、さきほどまでのハイテンションぶりが嘘のように、何故か深い息を吐きました。
「まあ……試練が行えぬのも本当ではあるが、お主に会わせられぬにもう1つ理由がある」
「もう1つ、ですか?」
「それ……は……」
覆った手のひらから顔を上げられたハーキュリーズ様に、プルートー叔父さまは非常に疲れたご様子でその理由を述べられたのです。
「冥界と現し世の境に、川があるだろう」
「……忘却の、川ですわね」
ああ、思い出すだけでも心が痛みます。
あの川の水こそ、わたくしが犯した罪の象徴。
こうして幼くなる直前、ハーキュリーズ様に全てを忘れさせようと飲ませた、あの忘れ川の水です。
「そうだ。その川が先日、とある不心得者の手によって氾濫する事態に陥った」
「…………はんらん、ですか」
あの川の水量は、確かに年々増えて行っているという話でしたが……。
「端的に言おう。最弱様が川に仙桃投げ込んだ」
「何がどうしてそうなったんですのーーー!?」
あの方は確か、以前にも冥界に行って試練をお受けしていたと聞きますが、もしやその時に何かあったのでしょうか……?
「“あいつ”がやらかすのは、これで3度目になる。いいかげん出禁にしたいところだが……。っち、極東の始祖神と同じ事をしたところで、ヤツが最弱なのには変わりないというに。他神と合体でもしてろというのだ。ハッ、どうせ素材の方が強くて合体する意味も旨みも無かろうが」
叔父さま、舌打ちはさすがに……。
それに、合体は愛情とも言い換える事ができると思いましてよ。
思い入れが強ければ余計、ですの。
ですが冥界を出禁って、どれだけ嫌われてますか、その方……。
そういえば、北の方ではやはり同じように死後の世界に受け入れてもらえなくて、現世を彷徨い続けている魂がいるとか……。
どこの地域にも、そういう方が1人くらいはいらっしゃるものなのでしょうか……。
「2度目には、よりによって地上における監視員を手篭めにしおってあの男……。どれほど我の邪魔をすれば気が済むのだ。おかげでこちらはその都度被害に遭い、毎年冥界運営の資金繰りに苦労しているのだぞ!もはやあやつは歩く災害だっ!!」
まあ……。
いつも陰鬱な表情で冥界ギャグを飛ばしてくる叔父さまが、ガンギレておりますわ。
これはかなり激おこですわね……。
「兄者も……もう少し予算回してくれたって、ええんやで……」
「……父にはその旨、申しておきますわ」
心底疲れたようにちらりとこちらを見られたので、そつなく返答しておきましたわ。
「つまりそういう訳で、今はベテランの川渡しでさえ手が出せぬほど川が荒れている。ゆえ、試練は一時的に取り止めだ。寿命問題に洪水と、どうにかせねばならぬ案件が山積みで、あの嫁でさえキレかかっておるほどなのだぞ。とてもではないが、中に生者を入れるだけの余裕など無いわ……と、こうしていても話が進まんな」
「…………いえ、元はと言えば私が無理を申したが故。それに、身内同士で話し合いたい事もあると存じます。どうぞ、お気になさらずに」
「……そういえば『ケルちゃん』はどうしておりますの?……元気で……やっているでしょうか」
ハーキュリーズ様の言葉にふと思い出し、止める間もなく口にしてしまったのは、1匹の子犬の魂。
かつてわたくしと……そして幼かった頃のハーキュリーズ様とも遊んだ、あの愛らしい子犬の事です。
「…………でかくなったぞ」
「まあ、そうでしたか」
叔父さまの言葉に、わたくしは思わず頬を緩めます。
霊となった……生きてはいないはずの“彼”が大きくなったのはきっと、叔父さまが情厚く世話をしてくれたからなのでしょう。
「だが残念ながら、あまり賢くはならなかったな。人をすぐに信用し、容易く懐く。……お前のせいだぞ」
不本意だと言わんばかり、不満げにおっしゃる叔父さまですが、これで案外情熱家で人一倍の寂しがり屋さんであり、不義理を嫌い人情に厚い方だというのは、奥様をお嫁さんにした経緯そのものが証明していると思いますわよ。
「まあ、そんな事ありませんわ、叔父さまの方が永い事一緒にいるではありませんか」
微笑んで否定します。
そもそも“あの子”がわたくしと共にいた時間など、ほんの僅かに過ぎません。
ですからそう申し上げたのですが……。
「触れた時間がたとえ僅かであったとしても、与える影響が大きい事はままあるという事だ。……そこの男のようにな」
「……私、ですか?」
プルートー叔父さまは、急にハーキュリーズ様の方を見やります。
わたくしは、思わず肩が震えてしまいました。
きっと恐らく……いえ、確実に、わたくしが……わたくしとケルちゃんが天から落ちて、ハーキュリーズ様と出会った時の事を言っているだと気付いたからです。
「ま、雑談は今度こそここまでだ。……試練について話をするぞ」
しかしプルートーさまは、その事について深く追求する気が無かったようで、柔らかかった態度と声は急に引き締まった真面目なものとなり、本題である試練についてのお話を始めました。
「これまでの試練は討伐であったと思うが、今回は捕獲。対象は『エリュマントス山に住む人喰い大猪』1頭。まあ狩猟であるな。誰に手を借りてもかまわぬし、方法も問わぬ。現地でどう過ごそうが勝手だ。私としては“とっとと終わらせて次へ行く”事をお勧めするがね。なお旅程にはユウェンタースを必ず同行させるよう。……こんなところか」
非常に簡潔にまとめられた説明に、わたくしもハーキュリーズ様も言葉が出ません。
お仕事の時のプルートー様は、いつもこんな感じなのでしょうか?
「……その、私はともかく、ユウェンタース様を狩猟にお連れするのは……」
そうですね、いくら成長し、傷を癒せるようになったからといって、わたくし自身が何かと戦えるほど強くなったわけではありませんもの。
プルートー叔父さまも、その点は同意してくださいました。
「いや、捕獲に際してそばにいる必要はない。あくまで現地に同行させるだけだ。先ほども言ったが相手は人喰いとはいえ所詮は猪。おかしな呪いをかける事も、不可解なほどに強力な攻撃をしてくる事も無い。しかも動きは直線的であり単調。先の試練の討伐ほど難しい条件ではないだろうな。……せいぜい息抜き、他国の言い方をすればボーナスステージとでも思えばよい」
「……いえ、油断せずに行きましょう。お守りすべき方が、近くにいるというのならばなおさらです」
こうして、わたくしたちは一度神殿を辞する事になりました。
辞去の挨拶ののち、ハーキュリーズ様とともに背中を向けたわたくしに、叔父さまは言葉を投げかけてきます。
「……ユウェンタースよ、聞くがよい、そして知れ。運命には誰も逆らえぬ。それこそ我らが末弟であり長兄でもある大神ユピテル以外はな。出来る事はただ“全てを受け入れる”事のみ。そしてそれは、冥界の主である自分ですらも同じ事よ」
自嘲を含んだその言葉に、思わず振り返ります。
陰鬱であったそのお顔に、今は憂いの相が見えます。
「叔父さま?」
何をおっしゃりたいのかよくわからなくて、首をかしげるわたくしに、叔父さまは先へ行けとうながします。
「よい、ゆけ。忘れるな、時間は有限―――人だけでなく、今となっては我らもまた、いつか滅びゆく定めの中にあるのだからな」
その言葉に、自分の犯した罪と、やらねばならぬ事を思い出します。
「はい―――行って参ります、叔父さま」
「うむ」
その表情には先ほどの憂いは無く……愚かなわたくしは忘れてしまいました。
叔父さまの言葉について考える事を。
ああ、ですがその言葉こそ、叔父さまがくれた最大限の温情だったのです。




