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トロリとしたポタージュスープに色とりどりの野菜のサラダ、香ばしく焼かれたパンや熱いチーズオムレツ。
どれもこれも、私が食べてきたものと変わらない、むしろそれよりも美味しい食事に驚いてしまう。
人間と悪魔が同じものを食べているなんて、知らなかったわ……。
にこにこと私を眺めているガディの前で、少しずつ口に運ぶ私。
あの、ガディの発言の後、マドラル隊長がなにかをおっしゃろうとして、突然倒れてしまわれた。
誰も反応できないまま、その場に膝をついたマドラル隊長は、しばらくはそうして体勢を保っていらしたけれど、結局、意識を手放してしまった。
膝をついた時点ではっと我に返った私は、マドラル隊長の元へ駆け寄って、なんとか床に頭を打ってしまわれる前に、その上半身を受け止めることができた。
『ま、マドラル隊長!? どうなさったのですか? マドラル隊長!』
肩と両腕にかかるずっしりとした重みは、完全に気を失っている人物のそれだった。
呼びかけても返事がないことに、半ばパニックになりかけたとき。
『あぁ。魔人といえども、やはり耐えきれぬか』
『え?』
『人間の地にいるほうが長かったからの。まだ、この地に馴染めぬのだろう』
思わずガディを振り返ったとき、身体にかかっていた重量が消えた。
『あっ』
ガディを呼びに来たり、マドラル隊長を必死な様子で止めていた、あの、従者のような人……、人? あ、まあ、彼らがマドラル隊長を二人がかりで部屋へと運んでいた。
『心配するでない。寝れば回復するから、ベッドへ連れてゆくだけだ』
立ち上がって、マドラル隊長の方へ行こうとした私の肩を引き止めて、ガディはにこりと笑った。
『我らは朝食としようではないか』
ーーそれで、今のこの状況。
朝食にしよう、と言ったわりには、食事が並べられたのは私の前だけ。
「……ガディは食べないのですか?」
「おぬしを見ているだけでよい」
そんな、心底幸せそうに言われても……。
「あ、あの……」
「なんだ?」
私が口を開けば、すぐに返ってくる言葉。
それが心地よいと感じはじめてしまっている私は……。
ううん、それよりも。
「わ、私の《黒の印》? とかっていうものはなんですか? なぜ、あなたはお祖母様と夫婦になったのですか? あなたが私に固執するのはーー」
「む、待て待て。そう一度に尋ねても、おぬしとて理解できぬであろ」
た、確かにそうだわ。
でも、だって知りたいことがありすぎて……。
「全て答えるから安心せよ」
ガディの表情は、父親のように全てを包み込む柔らかなものだった。
接するたびに様々なガディを見せられて、私はどうすればいいのか、それもわからなくなってしまう。
「まず、《黒の印》は我の力を人間に移すためのものだ。人間の目には見えぬもので、血のように身体中を満たしている」
血の、ように……。
「マリーナとの縁を結ぶとき、人間のままでは負担がかかりすぎるのでな。マリーナに《黒の印》をつけたのだ」
「人間のままでは……って、お祖母様は人間ではなくなったのですか?」
「いやいや、そうではない」
思いがけない展開に慌てれば、ガディが即座に否定した。
「人間はここに馴染めぬのだ。だから、我の力をほんの一部、その身体に流し込むことで、彼女はこの地に染まり、我と共に暮らせるようになると、そういうことだ。人間であることには変わりない」
なるほど……。
少し安心した。
お祖母様、マリーナは、悪魔に魂を売ったのだ、と私はお母様から聞かされていた。
お母様はお祖母様のことを酷く嫌っていらっしゃるご様子だった。そして、きっと、その彼女から産まれたご自分のことも……。
絶対に秘密よ、と言われた名前を、お母様は亡くなられるまで口にすることなく、私も同じようにするのだと思っていた。
でも、私は口にしたどころか、その元である「魔人」とこうして対面して食事をしている。
……その上、求婚まがいのことまでされて。
「おぬしは間接的に《黒の印》を所有しておるだけなのでな。ここに馴染めぬといけないゆえ、マリーナと出会った場所でもあるし、あの《森》で暮らそうかと思っておったのだかなぁ」
お祖母様と《北の森》で出会ったの?
どうして辿り着けたのかしら?そして、一体、あそこでなにをしていたのかしら……。
というか、そんなことよりも。
「そ、それだけの理由で、アン様を傷つけ、《森》から精霊を追い出したのですか!?」
アン様は魔人に怪我を負わされた、とおっしゃってた。
あれを、もしかして、ガディが……?
「その、アンとは何者だ?」
「知っているはずです! 彼女は魔人に攻撃され、し、死にかけるまでのお怪我を……」
けれど、ガディは不思議そうに首を傾げるばかりで、なにも知らない、とでも言うように肩をすくめた。
「大方、どこぞのやつが我の動きに便乗して襲ったのであろうな」
「そんなーー」
「その者は精霊の『翼』を持っておったのだろうな。我らと精霊との争いは、永遠と言って良いほど続いておる」
仕方がない、というような言い方。
本当に、ガディがやったのではないの?
嘘をついてるようには見えない……。
いえ、わからないわ。なにを考えているのかも読み取れないのに……。
「マリーナと夫婦になったのは、我がマリーナの魂に一目惚れしたからだ」
えっ。
ちょっと、急に話題転換……っ。
まだ、アン様を襲った魔人の目星とか、聞きたいことはあるのに、ガディの関心ごとはもうすでに移ってしまっていた。
「美しかった。我を臆せず見つめる目も、不敵に笑う口元も、凛とした立ち姿も、強気な口調も、全て、全て……」
遠く、過ぎ去った過去を振り返っているように、うっとりと目を蕩けさせたガディは、ほんのりとその唇に笑みを浮かべた。
そうしている姿に、彼が人間であるかのような錯覚をした。
あんなにも、人間離れしている存在だったのに、今のガディは、そう、まるで恋するただの男の人のよう。
「マリーナは寿命を迎え、我が決して行けぬ場所へ逝ってしまった。……だが、マリーナはおらぬがマリーナの魂は存在する。その血と、我の《黒の印》がある限り」
きらり、と深淵の瞳が輝いた。
私を捕らえる。
どこまでも沈んでいってしまいそうな黒に、嵌ってしまわないよう、慎重に視線を手元に落とす。
「……つまり、私はお祖母様と同じ魂だと、そういうことですか?」
「全く同じ、というわけではない。人格や容姿、環境……、それらに伴って少しずつずれがある」
だけど、彼にとっては私と「マリーナ」は同じなのね。
お祖母様の死を語る声は、この世の終わりのような、深く暗く重いものだった。それが、すぐに柔らかな甘い心臓を掴まれるような声に取って代わられた。
完全にお祖母様の死を悲しんではいない。
私がいるから。
でも。
「私は、お祖母様とは違うわ」
私は、ルイーズ・ド・カナートだもの。




