6
日が落ちれば、外は暗くなる。
表通りは店からの灯りが漏れていたり、まだ僅かに人が行き来していたりしていたが、少し脇に逸れれば忽ち人気が無くなり、夜の冷たい気配だけが漂う。
そんな寂しい道を、唐傘片手に男が行く。
その背中にぽんと投げ掛けられたのは、鈴を転がしたような若い女の声だった。
「ねえ、お兄さん。お一人で寂しくありません?」
足を止めて振り返れば、佇む娘が一人。
闇夜に併せて笠を被っている所為で顔がよく見えず、男が目を凝らしていれば、娘はしなやかな足取りで近付いてきた。
「私も一人で寂しいの、ねえ……」
娘は男の袖をちょいと引いて、猫撫で声を零す。
すると、黙って娘を見下ろしていた男は目を細めた。
「それならば、物取りの美人局なんてせずに、お父上の居る家に帰ったらどうですか? ……弥生さん」
「ーーっ!?」
娘の肩が大きく跳ね上がり、被っていた笠がぱさりと地面に落ちる。
笠の下から現れた少女の驚いた顔を見て、緋桜はやはりか、と小さく溜め息をついた。
そして、顔色を蒼白にして動揺している弥生の肩を優しく叩くと我に返らせて、揺れる瞳をそっと覗き込んだ。
「すみません、驚かせてしまって」
「あ……わ、私……っ」
丸い肩がふるふると震えている。
酷く狼狽えているその姿に緋桜がどうにか落ち着かせようと思った矢先、弥生はその場に崩れ落ちるように膝をついて頭を深々と下げた。
「お、お願いします! 父はこの事も借金の事も何も知らないんです、だから言わないで下さい!」
「……借金?」
新たな問題の気配に、緋桜の片眉が小さく動く。
しかし、頭を下げている弥生はそれに気付かず、額を地面に擦り付けそうにしながら必死な声色で言葉を続けた。
「私、薬が欲しくて、でもお金が無くて……困っているところに声を掛けられたんです。金を貸してやるから物取りの手伝いをしないか、って……。悪い事だって分かってました! でも、どうしても辛そうな父を早く治してあげたくて、私……っ」
ごめんなさい、ごめんなさい、と涙声で謝罪を繰り返す弥生の姿はとても脆くて儚いものだった。
大切な父の為とはいえ、悪行に手を貸し続けるという重荷はどれほどのものだったか。
繰り返される謝罪の言葉からは良心の呵責を感じていたことが痛いほどに伝わってきて、当人ではない緋桜までもが心苦しさに顔を顰めた。
「……弥生さん」
今はひとまず彼女を落ち着かせようと、緋桜は静かに名前を呼んで頭を上げさせようとした、その時だった。
「ーー……」
一瞬だけ、寒気のようなものが背筋を駆けた。
嫌な気配を捉えた緋桜の眉間に皺が寄る。
そして、辺りをぎろりと見回せば、あちこちの物陰から夜の暗がりに紛れていたらしい男たちが姿を現し始めたのが見えた。
どの男も如何にも素行が悪そうな風貌をしていて、手には木刀などの武器が握られている。
「よお兄さん、俺たちの女を泣かせられちゃ困るねえ」
その内の一人、一際体格の良い男が下卑た笑みを浮かべながら緋桜に声を掛けてきた。
もしや此処までが計画だったのかと一瞬弥生の方に視線を向けるも、顔を上げた弥生は明らかに男たちに怯えていて、その様子からそうではないことが見て取れる。
それを確認した緋桜は、自分たちを取り囲む男たちを目だけで軽く見回してから溜め息をついた。
「佳月」
その瞬間、傍の路地から人影が飛び出した。
その影は男たちの間を素早く通り過ぎて、その勢いのまま弥生の腕を取ると軽々と抱き上げた。
「きゃっ……!?」
突然抱き上げられた弥生が目を白黒させているうちに、影は人一人抱えているとは思えない速さでその場から抜け出し、あっという間に弥生を危険な場から引き離した。
安全な路地に下ろされても、衝撃が抜けきらずにその場にへたり込んで呆然としている弥生に、その影は明るい声を掛ける。
「弥生さん、大丈夫ですか?」
「あ……貴女は……」
自分の顔を覗き込んで微笑みかけてきた少女を見て、弥生は目を何度も瞬かせる。見た目は自分と何ら大差の無い普通の娘なのに、あんなに易々と自分を運んでみせた。
まるで夢幻でも見たかのような表情をしている弥生に、佳月は少し悪戯っぽく笑ってから緋桜の方に目を向けた。
「さ、私たちは此処で待っていましょう」
「えっ? で、でもあの人が……」
「大丈夫ですよ」
男たちに取り囲まれたままの緋桜を思った弥生が上げた戸惑いの声を、乱れの無い凛とした声が止める。
そして、佳月はきょとんと自分を見上げる弥生に無邪気な笑顔を浮かべてみせた。
「なまくらだって、立派な刀ですから!」
一方、男たちは突如吹き抜けていった疾風に驚き、皆揃って唖然としていた。が、緋桜だけが平然としていることに気付いた一人が大声を上げる。
「今のはお前の仲間か! あの娘を返せ!」
「……嫌だと言ったら?」
「そんなの決まってるだろうが!」
平静を保ち続けている緋桜の態度が癪に障ったのだろう。男は激昂した声と共に木刀を振り上げ、緋桜へと襲いかかった。
それを合図に他の男達も武器を振りかざす。
屈強な男共と優男の緋桜。まるで猫一匹に野犬の群が牙を剥いて飛びかかる様な光景だが、その猫は微塵も動じることはなかった。
「ああ、面倒臭い」
一閃、宙を斬る。
ふわりと夜空に舞い上がるは大輪の紅花。
真っ先に緋桜に向かっていった男がそれに目を取られた一瞬の内、男が握っていた木刀の先端が地面に落ちた。
「なっ……!?」
驚いた男が慌てて見れば、堅い木刀には有り得ない滑らかな切り口。
一体何が、と視線を前に向けた男は、そこにあった光景に言葉を失った。
淡い月光が降り注ぎ、宵闇を背負ったその姿。
黒髪を夜風に靡かせて佇む彼の手には、紅の傘を脱いだ銀色の刃。月の明かりをその身に受けて鋭く光る。
「面倒毎はさっさと終わらせるに限りますね」
その言葉が耳に届くと同時に、男は意識を失った。
周囲にいた仲間達は動揺を隠せない。
瞬き程の時間で距離を詰め、自分よりも大きな相手をあっさりと斬り伏せてみせた目の前の優男は、今やまるで物の怪のように見えて仕方がない。
そんな恐怖を感じ取った緋桜は目を細め、刀の刃先を倒れている男の首に添えて口角を上げた。
「……さて、私は面倒毎が嫌いでして。出来れば残った貴方達には弥生さんを諦めて逃げて頂きたい。……それが嫌だと言うのなら、今後また問題を起こさぬよう、この場で皆さんを「大人しく」させますがーー……どちらを選びますか?」
緋桜はゆるりと首を傾げ、自分を取り囲む男達を見渡す。
口調は常通り丁寧だったが、声音はそれこそ刀の様に冷たく鋭いものだった。
「う……うわあああっ!!」
「ひいいっ!」
落ち着いた緋桜の態度は逆に恐怖心と威圧感を与え、一人が悲鳴を上げて逃げ出したのを切っ掛けに、男達は一斉にその場から逃げていく。
そうして全員が闇夜に消えていったのを見ると、緋桜は小さく息をついた。
「……本当の命知らずが居なくて、助かった」
ーーあの大人数を相手にするのは面倒臭い。
緋桜は傍らで気絶したままの男に目を向ける。
峰打ちで片付けたこの男が恐らくは統率者だろう。ならば目を覚ました彼を適当に絞り上げれば、少なくとも弥生にはもう手出ししないはず。
そうと決まれば叩いてさっさと起こそうと、緋桜が刀を引こうとした時だった。
「ーー……っ!?」
地面に倒れている男の体から、もくもくと煙が立ち上る。
夜の闇の中でも黒だと分かるその煙は明らかに異常で、顔を顰めた緋桜は咄嗟に飛び退く。
そして様子を窺っていれば、黒煙は空中で狐の形へと変わった。
「これは……」
緋桜が呟くのと同時に、狐の目が怪しい赤色に光った。
睨まれている気がして眉間を寄せる。
「……男達を相手にした方が楽だったようですね」
緋桜は溜息混じりに零すと刀を構えた。先程よりも緊張した空気を肌で感じ取る。
その緊張感がじりじりと燻って、焦れて、膨らんでーーそして一気に弾けた。
「……っ!」
先手を打ったのは、黒狐。
煙から生まれただけあって、質量を感じさせない身軽さで緋桜に向かって来た。
振り下ろされた前脚を刀で受け止めるも、動きに反してその衝撃は重く、緋桜は歯を食い縛って力を込める。
「ぐはっ!?」
しかし、そうして均衡を保てていたのも数秒だった。
不意に腹部を何かが突き上げて、緋桜は呻きながら後方へと吹っ飛んだ。
地面に背中を強く打ち付けて一瞬息が止まる。手から離れた刀が傍らに転がっていく。
「くっ……」
睨み付けた先では、狐が太い尻尾を揺らしていた。
ーーなるほど、今のはあの尻尾が。
そう思う事すら許さないと言わんばかりに、狐は緋桜の下へと空中を駆けて来た。そして八つ裂きにと前脚を思いっきり振り上げた。
「緋桜様に、手出ししないで」
その小さな姿はいつの間に居ただろうか。
細い指が狐の前脚に絡み、握り締める。
唸るように低い声で言った佳月の眼差しは、あどけなさが残る愛らしい娘の其れではなくなっていた。
それは、本能と怒りに染まった獣の如く。
「緋桜様を傷つける奴は、私が喰らってやる」
佳月の体を黒い霧のようなものが包み込む。
そうして闇夜に溶けたのも一瞬で、黒霧が晴れた其処には可憐な娘の姿は何処にも見当たらず、代わりに巨大な黒犬が狐の前脚を噛んでいた。
「《ギャアアアッ!!》」
そこで狐が初めて声を上げた。金切り声に緋桜は堪らず顔を顰めたが、黒犬は怯むこと無く牙を立てる。
尻尾を振り回されても、あっさりと前脚で狐の体を押さえ込み、そのまま地面に組み伏せた。
ぐちり、ぶちり、と何かが切れる様な音がし始めて、狐の悲鳴がこれ以上に無い程の大きさで響き渡る。
「佳月、そこまでにしなさい」
その一言で黒犬から殺気が引いた。
躊躇無く狐から牙を抜き、前脚を退いて、その場に起き上がっていた緋桜の傍へと下がる。
緋桜は黒犬の顎下を撫でてやると腰を上げて、放りっ放しだった刀を拾った。
そして、狐の方を見る。地面に横たわった狐は息はあるものの、襲いかかって来る気力は無い様だった。
「……お紺さん、居るんでしょう」
狐を見たまま緋桜がそう言えば、すぐ傍の路地からお紺がひょっこりと姿を現した。
「見つかっちゃったわ、流石は緋桜ね」
「馬鹿な事を。気配消す気も無かったくせに」
くすくすと愉快そうに笑うお紺に、緋桜はつい溜息を吐いた。
その反応も面白かったのか、お紺は笑みを絶やさないまま、地面でぐったりとした狐の首を掴み上げる。気が付けば狐は黒ではなく、何処にでもいるような薄茶色の毛色に変わっていた。
「野狐は狡賢いのが多いから。まあ大方、浪人たちを術で化かして稼いでいたところに困っていた子を見つけて、もっと稼いでやろうと欲を出したんでしょうね」
野狐は妖狐の中でも人に悪さをする者が多いとされている。狐の正体が野狐だと知った緋桜は驚く事も無く、ただ「やっぱりそうでしたか」とだけ言って頷いた。
「では、其方の狐はお紺さんにお任せします」
「あら……いいの? 佳月ちゃんにあげなくって」
お紺は首を傾げて黒犬を見る。
あれほど殺意で毛を逆立てていた黒犬は今やすっかり大人しくお座りをして、お紺の視線には挨拶するかのように尻尾を振った。
「ええ、狐の事は同類にお任せした方が良いでしょう?」
「まあ、同類だなんて失礼ね。私は野狐なんかじゃないわよ」
わざとらしく唇を尖らせたお紺は指を鳴らす。
すると、辺りには黄金の狐火が幾つも浮かび上がった。その明かりに照らされて傍の塀に映るお紺の影には、三角形の耳と九つの立派な尻尾が揺れている。
それを見た緋桜は小さく肩を竦めた。
「……失礼しました」
「ふふ、それじゃあ先に帰ってるわね」
そう言ったお紺の周囲を狐火が包み込む。
黄金の炎が消えた時にはお紺の姿は無く、緋桜は小さく溜息をつくと傍らに居る巨大な黒犬ーーではなく、少女の小さな頭を撫でた。
「ご苦労様でした、佳月」
「はい! 緋桜様!」
佳月は満面の笑みを浮かべる。
先程まで生えていた黒い尻尾はもう見当たらないにも関わらず、それを大きく振っているのが見える様な笑顔に、緋桜も自然と口元を緩めた。
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