3
福兵衛から依頼を受けた翌日。
緋桜たちは弥生が住むという長屋の前に来ていた。
「福兵衛さんが言っていたのは此処ですね」
「ですねー……」
佳月は大きな目をぱちくりとさせる。
自分たちが暮らす長屋も貧相だが、目の前にある長屋も負けず劣らずのものだったからだ。
しかし、一方の緋桜は平然としていて、長屋に目を向けたまま、ふむと首を傾げた。
「さて……どうやって弥生さんに話を聞きましょうか」
「普通に尋ねては駄目なのですか?」
きょとんとする佳月に、緋桜は顔を顰める。
「……顔も知らない相手が突然尋ねてきて調子を聞かれたところで、素直に答えてくれると思いますか?」
「あ、そうですね」
成る程、と佳月は真面目に頷く。
その単純さに緋桜は軽く肩を落とし、それから少し考えた後、持っていた唐傘をくるりと回して自分の肩を叩いた。
「よし、こうしましょう」
「何か策を思いつかれたのですか?」
自分よりも緋桜の方が頭がずっと良く回ることを知っている佳月は、期待を秘めた眼差しで緋桜を見上げる。
緋桜は「はい」と頷き、輝いた目を向けてくる佳月を指さした。
「佳月、貴女は今から腹痛に苦しんで下さい」
「……へ?」
「良いですね、では行きますよ」
「え、えっ、あの、緋桜様?」
急な命令に狼狽える佳月を無視して、緋桜は福兵衛から聞いていた部屋の前に行き、戸をたんたんと叩いた。
すると、少しの間を置いてから戸が開き、中から佳月と同じ歳くらいの娘が出てきた。なかなか可愛らしい顔立ちをしていたが、着ている着物は地味な上に煤けている。
この娘が弥生だろうと思いながら、緋桜はそれを表に出さず、戸惑うように自分を見上げている娘に言った。
「突然申し訳ありません、連れが急に腹が痛いと言い始めまして……どうか中で休ませてはもらえませんか?」
焦るように少し早口で言いながら、緋桜は自分の表情が乏しくて良かったと思う。感情が顔に出にくい分、声色をどうにかすれば、意外にも周囲は勝手に察してくれるからだ。
「大変! お連れ様はどちらに?」
そして案の定、この娘もあっさりと騙された。
本気で心配している様子の娘に、緋桜は若干申し訳なく思いながら佳月の方を向く。
「あれです、あのちまっこい小娘です」
「!!」
不意に出番を振られた佳月は目を丸くするも、緋桜から無言の威圧を感じると、慌てて腹を押さえて苦しそうに蹲った。
「う、ううー、おなかがいたいー」
「大丈夫ですか? 此方で休みましょう」
半ば棒読みで唸る佳月に駆け寄った娘は、少しも疑うことなく肩を貸して立ち上がらせ、気遣いながら佳月を部屋へと連れて行く。
「貴方様もどうぞ、狭い所ですが」
「すみません、お邪魔します」
緋桜は会釈をすると、戸を後ろ手に閉めた。
部屋は自分たちの暮らす部屋と同じくらいの広さで、家具も本当に必要最低限の物しか見当たらない。
あまりにも似ている貧乏加減に、緋桜は初めて入った気がしなかった。
「弥生、誰か来たのかい……?」
か細く嗄れた声に視線を向ければ、部屋の隅に敷かれた布団。そこには顔色が悪い男が横になっていた。
その男が少女を弥生と呼んだのを聞いた緋桜は、自分の予想が当たっていた事を知る。
(となると……此方の男性は父親でしょうか)
新たな予想を立てる緋桜の傍らで、弥生は腹痛のふりを続けている佳月を座らせながら男に言った。
「うん、急病の娘さんがいたから……」
「突然お邪魔してすみません。連れの腹痛が治まったら直ぐに出て行きますので」
「ああ……いえいえ、お気になさらず。此方こそ、こんな布団からすみませんなあ……」
そう言って力無い笑みを浮かべた男は緋桜たちを気遣ってか、重たそうに寝返りを打って背中を向ける。
その後直ぐに続いて、げほげほと苦しそうに咳き込むのが聞こえてきて、それを聞いた弥生は「おとっつぁん!」と血相を変えて駆け寄った。
父親のやせ細った背中を擦る弥生の姿を横目に見ながら、緋桜と佳月はこっそりと顔を寄せて囁き声を交わす。
「緋桜様、弥生さんの元気が無い理由って……」
「ええ、恐らくは父親の不調ですね」
「どうにかしてあげられないでしょうか……」
言いながら佳月はちらりと振り返る。
心配そうな目線の先には、背中を支えながら父親に白湯を飲ませる弥生の姿がある。
その視線を一緒に追った緋桜は軽く眉間を寄せ、首を左右に小さく振った。
「自分たちは医者ではありませんからね」
「そうですけど……」
「今の自分たちが出来るのは速やかに出て行くことくらいでしょう。理由も分かったし帰りますよ」
「ひ、緋桜様……」
「すみません、連れの具合も良くなったようなので、自分たちは行きます」
腰を上げた緋桜は佳月の手を引き、弥生に声を掛ける。
父親を布団に寝かせ直していた弥生はパッと振り向くと、慌てた様子で二人の傍に寄った。
「ご、ごめんなさい、何もお構い出来なくて。本当に大丈夫ですか?」
「ええ、ほらこの通り。顔色も良くなりましたし」
「むぎゅっ!? は、はなひへくらひゃい!」
申し訳なさそうにする弥生に見せるように、緋桜は佳月の頬を容赦なく抓る。むにょんと伸びた頬はつきたての餅によく似ていた。
痛みに顔を顰めながら必死に抵抗する佳月と能面のような顔で頬を抓り続けている緋桜を交互に見て、弥生は若干戸惑いの色を浮かべた目を瞬かせる。
「そ、それなら良いんですけど……」
「はい、では有り難うございました。ほら、貴女もきちんとお礼を言いなさい」
「うう……有り難うございました……」
緋桜は軽く頭を下げると、抓られた頬を撫でている佳月の後頭部を掴んで頭を下げさせる。
そして、呆然としている弥生に見送られて外に出た緋桜は、後ろ手に戸を閉めて歩き出そうとした。
「……何ですか、佳月」
しかし、数歩歩いたところで佳月がついて来ていないことに気付くと、僅かに顔を顰めて振り向いた。
弥生の家の前で立ち尽くす佳月が顔を上げる。その表情は如何にも不満そうにむっすりとしていて、膨れた頬は先程抓られた名残で赤らんでいた。
半目でじとりと睨まれた緋桜は溜め息をつき、動く気配のない佳月に歩み寄る。
そして、近付いても睨み続けてくる佳月の頭を、肩に担いでいた唐傘で軽く叩いた。
「きゅっ」
「抓った程度でいつまでも拗ねてないで下さい」
「……うー」
佳月は叩かれた箇所を押さえながらも睨むのは止めない。
小さな唸り声と共に向けられる抗議の視線。
それを真っ向から見つめ返していた緋桜だったが、やがて小さく息を漏らすと、目の前で丸く膨らんでいる頬に手を添えて撫で始めた。
「ほら、焼いた餅みたいで愉快ですよ」
「うー……」
「腹が減るから止めて下さい」
「はうー……」
睨んでいた目は甘く緩み、唸り声は幸せそうな吐息に変わる。
佳月は恍惚とした表情を浮かべて、自分の頬を撫でる掌にすり寄った。
淡々とした緋桜の言葉も、頬から顎までを撫でる手付きにうっとりとした今の佳月には届かない。
そうして二分ほど撫で続けた結果、さっきまでの風船面は何処へやら、佳月はいつも以上に上機嫌な笑顔を浮かべていた。
「では長屋に帰りましょう、緋桜様! 福兵衛様にお会いするのは明日ですし、今日は早めに休まないと!」
あっさりと機嫌を直した佳月に手を引かれて、緋桜は軽くよろめくも直ぐに体勢を立て直す。
そして歩調を合わせると、前を行く佳月の頭を再び唐傘でぽこんと叩いた。
「きゃうっ」
「ほら、直ぐに調子に乗らない」
「ご、ごめんなさい……」
興奮が鎮まった佳月は頭を抑えて頂垂れる。
ころころと一喜一憂するその様子に、緋桜が内心面白く思っていれば、ふと視界の端にある物が入ってきた。
それが何となく気になった緋桜が近付いてみれば、手を繋いでいた佳月も自然と引き寄せられる。
「どうしました、緋桜様?」
「いえ……こんな所に地蔵があるとは思わなかったので」
「えっ?」
覗き込んだ佳月は思わず首を傾げる。
道端に立っていた一体の地蔵。しかし、その姿は佳月の膝程度に小さくて黒ずんでおり、申し訳程度に赤い被り物が着せられて、供え物は野花が数本だけと寂しいものだった。
言われなければ直ぐに地蔵とは思えない姿を二人は見下ろす。
すると、不意に佳月がその場に屈み込み、地蔵に向かって両手を合わせた。
「……何を?」
怪訝そうにする緋桜に、佳月は顔を上げて笑う。
「弥生さんのお父上が元気になりますようにと、お願いしておこうと思いまして」
「供え物も無しにですか?」
「そ、それは……追々ということで」
気まずげに目線を泳がせた佳月は立ち上がる。
そして、緋桜が自分に対して何か言いたげな表情をしているのに気付くと、誤魔化すように笑って手を引いた。
***
そして翌日。約束通りやって来た福兵衛を部屋に上げた緋桜は、長屋で見た弥生の様子と現状を伝えた。
「ーーというわけで、弥生さんの元気が無かった理由は、父親が床に伏せていることによる気苦労だと思います」
「そうでしたか……」
報告を聞いた福兵衛は小さく息をつく。
そして、向かいに座る緋桜と佳月に深々と頭を下げた。
「有り難うございました。あとは私に出来ることを探してみようと思います。……あ、これは今回のお礼です」
福兵衛は懐から出した巾着を緋桜の方へ静かに差し出す。
自分の方に巾着をそっと引き寄せた緋桜は、その重さに一瞬だけ目を細めた。
「……確かに頂きました」
「また何かあれば、いつでも依頼に来て下さいね! 基本暇なので!」
「はい、そうさせて貰います」
佳月がにっこりと人懐っこい笑顔を浮かべれば、無邪気なその笑みに福兵衛も思わず頬を緩ませる。
「では、有り難うございました」
そうして、福兵衛は最後にもう一度礼を告げて部屋を出ていった。
緋桜は静かに閉められた戸を眺めながら、掌中に収まる小さな巾着をぽんぽんと弄ぶ。巾着が上下する度に金が擦れる音が鳴った。
重量感のある音を聞いて佳月は巾着を見る。
「福兵衛さん、随分と置いていってくれましたね」
「ええ、話を聞きに行っただけなんですけどね……」
掌中にずっしりとした重みを感じながら緋桜は頷く。
便利屋の料金はまず依頼された時に前金として幾らか貰い、残りは結果を見た依頼主に任せるようにしている。
適当な料金付けに佳月は「もし割に合わない安値を言われたらどうするんですか!」とよく心配しているが、今のところそのような問題には出くわしていないので、緋桜は今のやり方を変える気は無かった。実際は内容によっていちいち料金を考えるのが面倒なだけなのだが。
しかし、今回受け取った料金は面倒臭がりな緋桜ですら、些か眉を顰める程に不相応な額だった。
それも損をさせられたわけではないので、二人は余計に首を傾げる。
「……今からでも追いかけて、少しお返しします?」
申し訳なさから佳月がそう言えば、緋桜は巾着を鳴らしつつ少し考えてから首を振った。
「いえ、折角ですし素直に受け取っておきましょう」
「でも……」
「貰える時に貰っておかないと、また腹が空く羽目になりますよ?」
「うっ……」
普段の生活を思い出した佳月は苦々しい顔で口を噤む。
それでも割り切れないのか、戸口をちらちらと見る佳月に緋桜は溜め息を零し、巾着を懐に入れると佳月の頭を軽く叩いた。
「ほら、久々に蕎麦屋にでも行きましょう」
「……!!」
「まあ、どうしても心苦しいというのなら、自分だけ行ってきますけど」
「えっ?」
佳月が目を輝かせたのを分かっていながら、緋桜は素知らぬ顔で草履を足に突っ掛ける。
そして、戸を開けると肩越しに振り返り、おろおろとしている佳月に口元だけで笑ってみせた。
「さ、どうします?」
「……っ、緋桜様の意地悪っ!」
赤い顔をした佳月が一声吠える。
それを見た緋桜がくつくつと喉で笑いながら外へ出て行けば、直ぐに後ろから小さな足音が追ってきた。
.