司馬喜列傳
太行山脈中に、中山と呼ばれる国がある。
北狄・鮮虞の地であり、周の王族の子孫を自称したため、中山公は姫姓を名乗ったとされる。
この頃の北狄は部族単位に存在し、別の部族との協力関係を持たなかったため、脆弱であった。
中山君はたびたび中原諸国に攻められ、その拠点を追われていた。
この異国の地で栄達した男がいる。
名を司馬喜。史記を著した司馬遷の同族であり、元は衛に住んでいた。
衛は、周の武王の弟である康叔の国である。
元は周の東北部に位置する大国だったが、春秋の頃に北狄の侵攻を受けて都を移し、弱体化が進んだ。
この頃は帝丘を都とし、趙と魏に挟まれた小国である。
紀元前343年。衛では、成候が趙に属していたが魏に攻められて廃され、衛の平候が擁立された。
こうして衛は魏に属したが、その翌年、中山桓公が魏の宰相となる。
諸国に圧される魏は、趙と対立する中山と共同して互いを利そうとしたのである。
司馬喜は衛の危難など我関せず、宋に行く。
この頃の宋の剔成君は、元々宋の宰相である。
宋の戴公の子孫であることから担がれて、奢侈に更けた宋の桓公を追放して国を継いでいた。
司馬喜は宋の剔成君に仕えた。
しかしあるとき罪を犯し、足切りの刑に処されて、足を失った。
罪状は不明であるが、極刑とされてないのだから少なくとも殺人罪や謀叛などではない。
何らかの法令を破ったためか、あるいは主君の怒りを買ったためだろう。
中山では桓公が没して、成公が立った。
司馬喜は
中山成公の頃に中山を訪れ、中山成公に仕えたという。
それまで祖国を省みず、君主の来歴を重んじない態度であったからこそ、鮮虞の地を厭うこともなかった。
中山では、その臣の季辛・爰騫が互いを憎み合っていた。そこで司馬喜も季辛と対立した。
司馬喜は爰騫を暗殺すると、その罪を季辛に擦り付けた。
中山成公は、季辛・爰騫の対立を知っていたから、司馬喜の讒言を信じて季辛を処刑した。
司馬喜は、成公から信任を受けて楽地を与えられて、藍諸君に封じられた。
司馬喜は、中山の敵対国である趙の後援を受けて宰相の地位に着こうとする。
公孫弘がこれを知って間もなく趙から司馬喜を宰相にするよう使者が訪れるだろうと成公に告げるも、
実際に趙から使者が来たとき、成公はこれを公孫弘の策略だと疑ったため、公孫弘は恐れて逃亡した。
後、司馬喜は宰相となる。
士人を好み、田簡・張登らを門客とした。
紀元前327年。中山錯公が立つ。司馬喜は再び宰相に選ばれた。
成公の妻である江姫と陰姫が正后の座を争っていたが、陰簡は司馬喜を嫌っていた。
田簡は、司馬喜と陰姫の仲立ちをする。
「趙の使者に陰姫の美しさを告げれば、武霊王は陰姫を望むでしょう。そうでなかったときに中山の正后にすれば良いのです」
司馬喜は早速これを実行し、まずは陰姫の父に自身を頼らせた上で、趙の武霊王が陰姫を望んでいると錯公に告げた。
錯公が武霊王に陰姫を譲ることを拒むと、そこで陰姫を正后に薦めた。
紀元前325年。中山公錯は王号を名乗ろうとした。
この勝手な行動により、中山と同列になることを嫌った斉が趙・魏と組んで攻め込もうとした。
張登は司馬喜に献策し、自ら斉に赴いて、斉の宰相・田嬰
の説得に当たった。
曰く、中山に王号を認めて親交を結べば、趙と魏は中山が離反して斉についたと考えて攻め込むだろう。
その後に王号を禁じれば中山は存続し、中山は斉に属す道しかなくなる、と。
張登は、斉から帰ると、その足で趙・魏に向かった。
そこで曰く、斉が中山に王号を許して軍勢を動かそうとしている。故にこれに先んじて中山に王号を許すべきだ、と。
而して、中山は王号を許され、斉と断交して趙・魏に属した。
以来、中山王は国内において天子と称す。
紀元前314年。斉の宣王は、孟軻の献策を受けて燕を攻めた。
子之が簒奪した燕への侵攻は、征伐であり正しいという孟軻の確信は、将来的な斉の破滅を約束したものだったが。
このとき中山は、斉が燕に侵攻したのに便乗して司馬喜を派遣して燕を攻め、数十の城を奪った。
司馬喜はこの戦功を賞され、三世に渡り死罪を許さざること無し、との特権を得る。
紀元前310年。中山王錯は、司馬喜に遺言し、太子の補佐を恃まれた。
そして趙と親密にしないこと、勲功を挙げても王位を簒奪しないことを約束する。
中山王シシが立つと、司馬喜は三度、宰相に選ばれ、王シシから仲父と呼ばれて敬われた。
ほどなく司馬喜は中山で死んだ。
紀元前308年。中山を偵察していた趙の臣李疵は、帰って趙の武霊王にその国情を告げた。
曰く、中山君は賢者を求めており、人々は名声を求めることに躍起となっていて農を怠り兵は脆弱になっている。
そのような情勢で滅亡せざる国は無し、と。
そして中山は、翌年から趙の侵攻を受けることになる。
紀元前307年。中山は、趙が侵攻してくると、房子で交戦する。これを打ち破ると、さらに便乗して攻めて来た燕軍を破った。
趙の武霊王は房子での敗戦以来、匈奴の戦術を模倣して取り入れた。
其れを、胡服騎射という。
後、中山侵攻を再開すると趙の武霊王は乗馬に適した胡服を纏い、中原の国で初めて弓騎兵の軍勢を派遣した。
中山は敗戦を繰り返す。
紀元前300年頃。亡国の中山に、楽毅がいた。
祖先の楽羊が霊寿を魏の文候から授かって以来、代々その地に住んでいたのでる。
趙の侵攻の際は、自ら降伏したのか、あるいはこれに抵抗して敗れた後にその勇猛さを買われたのだろう。
いずれにせよ趙が霊寿を攻め落としたとき、楽毅は趙の武霊王に召されてその将軍となった。
中山王シシは都を失うと、斉に逃れた。
趙の武霊王は、中山王シシが斉で没したのを機に中山王尚を擁立するが、ほどなく再び中山を攻めた。
中山王尚はさらに斉に寄って東方に移り、扶柳に居す。
つまり彼もまた斉を後ろ盾にしようとしたのだろう。
紀元前296年。子の惠文王に王位を譲って主父を名乗った趙の武霊王に、中山の本拠が攻め込まれる。
中山王尚は囚われて膚施に送られ、中山国は滅んだ。
司馬喜の死後、十余年のことである。
司馬喜の名は史記には記されず、戦国策などに残るのみだった。
彼の栄達は20世紀に入った後、中山の存在した場所で発見された方壺銘文によって証明された。




