下
そして、現在。
「ああ、これは、もう、だめだなあ」
え?
「俺、がんばった」
え?
「秋山さん、それ、嘘じゃないよね」
とろけるような、蜂蜜よりも甘ったるい、笑顔で。
背筋が粟立つような、少し掠れた、熱の籠った、色っぽい、声で。
否は許さない、とばかりに、彼は言う。
初果の顎をすくいあげ、腰を引き寄せ、額を合わせ。
近過ぎる距離で、ねえ、と囁く。
「嫌いに、ならないんだよね」
「…………お、おが、くん?」
「答えて、初果」
かっ、と顔が熱くなった。
彼の呼ぶ、初果という名前が、とんでもなく艶やかに響いたので。
動揺した彼女は、ついこくこくと頷いた。頷いてしまった。それを見て、彼はさらに嬉しそうになった。
「俺を、好き?」
こくこくこく。
「声で言ってよ」
「……っ、え」
「あはは」
さっぱり状況が掴めない!
おろおろする初果を見下ろし、彼は楽しそうに笑い声をあげた。近い。声が、近い。顔も、近い。
いやいやいやいや。
待って待って待って。
なに、これ?
「ああ、かわいい」
ちゅ、と何かがこめかみに触れた。さら、と髪の毛を梳く指。長いそれは節を持って、でもなめらかで。字を書くのが上手な、オガくんの指。
それが、初果の髪を数束すくいとり、匂いが嗅ぐ。そしてキス。
「………………は……?」
茫然と呟いた。
だけど、彼は気にも留めない。
「初果、こっちを見て」
のろのろと、言われたままに視線を向ける。
「俺はね、初果、きみがすきだよ」
……え?
「ん……っ」
思考が完全に停止した瞬間、あたたかなものが唇をふさいだ。渇いた皮の感触。くちびる。食むようにくわえられたかと思えばくちじゅうで吸われ、次第に、どちらのものも湿っていく。溶ける。互いの唾液が混じり合う。音を立てて嬲られる。角度を変えるたび、ふたり分の淫猥な息遣いがあふれる。何度も何度も重ねられる。むちゃくちゃに貪られて、入り込んだなまぬるいものが歯列をなぞる。ぞくり、と産毛が逆立った。
え、え、え。
え。
ちょっと。
待て。
待って。
「……っふ、ぁん」
やばいなんか変な声が出た!
冷静に冷や汗を掻く理性とは真反対に、どんどん頭は靄がかってとろけていく。わけのわからない痺れが甘く狂おしく身体の芯を走り抜け、くたくたに腰は砕けていた。意図せずして白いシャツに爪を立てるみたいにしてしがみつく。密着する。なぜ、なぜ、今日は、オガくん、セーターを着ていない! 走り回って暑くなりましたか! 心臓がばくばくとけたたましく警告する。離れろ、危険、正気に戻れ。なのに、離れない。離れられない。離してくれない。
なんてことだ。
彼は、男の子だった。
そもそも文科系の初果の力では太刀打ちできぬ!
がくん、と膝が落ちた。ずるずるとしゃがみこむ。くす、という笑みが耳に触れた。ぴくんっと震えた刹那耳たぶを甘噛みされる。ひ。喉の引き攣れるような音が鳴った。オガくんの唇はやがて頬、唇の端、喉元と降りてくる。あばばばばば、これ、これは、これはまずい。そしてその手はさらに不穏な動きをする。セーターの下にもぐりこみ、つつ、と指さきでこすられる。それだけでも瀕死寸前なのに、いやに執拗に撫でられる。調子に乗った手はだんだんと前へ移動し、少ないふくらみへと伸びた。
「ちょ、ま、え、お」
「だーめ」
う。
うあ。
なんだ、その、甘い声音は。
オガくんの頭が初果の首筋に埋まる。ちゅう、ときつく吸い上げられる。刺すような痛み。歯があたる。もう一度。今度は、より、下へ。ちょ、あれ? いつのまに首許をこんなにくつろげていたの。嫌な予感の通りに彼は真っ白な初果の鎖骨のあたりをれろりと舐めた。きゅうっとえもいわれぬ感覚が這い上がってくる。
ふっ……と意識が途切れそうになった。
しかしその瞬間、コンマ数秒のうちばかり我に返った彼女は衝動的に腕を突っ張らせた。
「や、——め、て! ってば!」
どん、と押したものの、あまり意味はなかっただろう。だけども、ようやく落ち着いたらしいオガくんが、名残惜しげに頭を離す。しかし、片腕は彼女を抱きかかえたまま、もう片腕はやんわりと胸を押し上げるように触れている。
ふるふるとおぼつかない人差し指を、そのひとに向ける。
彼は、いつも通り、やさしく、おだやかに、目を細めるようにして、微笑んでいる。
「あ、の……オガ、くん……?」
「うん」
「ほ、ほんと、に、オガく……」
「そうだよ、ずっと一緒にいたでしょ」
「————ああああっ、待ってちょっととりあえずその触り方やめて!」
絶叫すると彼はようやく胸を解放してくれた。が、しかし、今度は宥めるように頭を撫でてくる。
「髪の毛、きれいだなあ」
「……っ、……っ!」
なんだこれええええ。
「おおおおオガくん、どっ、どうしたの。ねえ。頭打った? いつものちょっと気弱なオガくんはどこいっちゃったの!」
「うわ、ひどいなー。そんな風に思われてたのかあ」
「オガくんってば!」
そうだ、何かあったに違いない。何か彼の気を狂わすようなおっそろしいことがあったのだ。だからこんな、なんか、こ、こんなおかしなことに。
「まあ、あったといえばあったけど」
ふんわりと、まるでいつもの彼のようにのんびりと言う。
でも騙されない。
その眼差しはどこか面白そうに、そして獲物を狙う獣の目をしている。
「でも、俺はね、ずっと、我慢していたんだよ」
「……が、がまん?」
「うん。ちゃんと、見極めていたつもりだったんだな、これが。嫌われたら、嫌だし。元も子もないしね。慎重に、慎重に、時期を窺っていたんだ」
「……?」
何を、言って、いるんだろう。
ていうか、何?
何のはなし。
……なんか、めちゃくちゃ、怖いんですけど。
真っ赤に染まった夕焼け空から、落陽の光が切り裂くように差し込んでいる。つ、と自分の口の端から、銀の糸が引いていることに気づいた。自分を見つめる、男の瞳で。
心臓が早鐘を打つ。
息をうまくできない。
酸欠になりそう。
あつい。
「でも、初果が、好きだなんて、言っちゃうから」
「は?」
はにかむように頬を染めて、なぜか責任転嫁してきた。
「まあ、俺もね、だてに観察してきたわけじゃないので、そういう意味だとは、もちろん思ってないけどね」
「ちょ」
「でも、こう、嬉し過ぎて、ぷっつんきちゃったんだよね。理性が」
「りっ……」
「でもまあ、安心してね。これからはちゃんと自制するから。押し通せるラインを見極めてやるよ」
「は、え?」
「——もうそろそろ、ね。一年が終わっちゃうでしょ」
「え、あ、うん」
「そしたらこうして、委員で関わることも少なくなるから」
それは、初果も思っていたことだった。淋しい、とと惜しんでいたし、できれば彼とはずっと笑い合う仲でいたかった。
でも。
オガくんは、悠真は、うっとりと、首を軽く傾げるようにして、微笑を借りて初果を捕らえる。
「だいぶ、仲良くなれたと思うんだ」
「……わたしも、思ってました、けど?」
「うん。だからね、そろそろ、きみを落とそうとは思ってたんだ」
——は、い?
今、なんと、おっしゃった。
「な、ななな、なぜ……」
「言ったじゃん。俺は、初果が、好きだって。ずーっと、きみが、欲しかったんだよなあ」
「ど、え、な」
「理由?」
こくこくこく。首振り人形の如く頷く。
「そうだなあ、去年も、同じクラスだったでしょ。たわいない話を向けてくれたり、困ってるときにわたわた声かけてきたり、何でもないことみたいに助けてくれたり。友達とのんびり喋ってるとことか、ときどき、こっちに笑ってくれたり。そういうのが、ぜんぶ、好きだよ」
「……そ、そんなの、他のひとも、してる、よね」
「うん。むしろ、初果より話すひとも、手助けしてくれるひともいるね。でもねえ、俺は、なんでか、初果が好きになっちゃったんだよねえ」
ああ。やめて。そんな、目、で、わたしを、見るな。心臓が破裂して、死にそうになる。たぶん、今、耳まで真っ赤になっている。
「こういうのは、理屈じゃないから、仕方ないね」
「……お、オガくんは、ねこ、かぶってたの?」
思わず訊ねると、彼はきょとんとした。意味が分からない、って表情だ。……え、まさか無自覚。愕然とする。
「べつにそんなことはないよ。今だって、いつも通りだと思うけど……あー、ちょっと緊張してるけど」
「いやいやいやそこじゃない! そこじゃないよ! 何照れてるの! だってなんでこんなオガくん押せ押せタイプじゃないよね!?」
「ああ、そのことかあ」
納得、とお仏様の顔。野獣のくせに!
「それはだから、我慢してただけだよ。意識してない男に詰め寄られたら、嫌だろうから。あからさまにアタックしないよう、気をつけていただけ」
「い、いしき」
「そう。もうちょっとで、天秤を傾かせられそうだったから。予定がはやまったけど、まあいいか」
よくない。
「初果」
とろりと全身を絡めとる声に、ああ、腕の中から抜け出せない。そのひとは、優しい顔で、控えめに微笑んで、ちょっと照れたように、でも猛禽の目で、初果をやわらかく抱きしめながら、軽やかにねだる。
「はやく、俺を好きになって」
きみを、たくさん、愛したいから。
毒を含んだ蜜のような睦言に抗うには、もう遅かった。
だって、初果は、とっくのとうに、やさしい彼が好きだった。
友達という言葉で誤摩化すほど。
ああ————でも、だけど。
(本性が肉食だなんて、聞いてない————!)
ロールキャベツ男子が書きたい!と急に思い立ってがーっと書いてみました。本当は短編のつもりだったのですが、予想外に長くなったので分割。少しでも楽しんでいただけたら幸いです。ちなみにオガくんは肉食系ですが俺様強引系ではない、強気系野獣です。すごくどうでもいい!
それでは! ここまでおつきあいくださってありがとうございました!