夏の病室
8月29日。市内病院のベッドの上。
おれはもう、死ぬのだなあ。そう思いながら、夕暮れ時の夏空を見上げていた。太陽は既に傾き、夜が姿を現し始めている。遠き山の峰の向こうに沈んでいく太陽と、青々と茂った山の対比がとても美しいとおれは思う。この個室の病室で四季の彩を目にしてきたが、やはりおれは夏の風景が一番好きだった。少し蒸し暑いが、夕暮れ時は耐えられないほどではない。ぬるい風を部屋に入れるため、おれは窓を開け放つ。
思い残すことは沢山ある。だが、自分の体調くらいはわかるものだ。長年付き添ってきた身体でもあるし、医師や看護師の口調から、もう先が長くないことは知っていた。家族を悲しませるなあ、とかなんとか考えてきた一夏も、もう終わる。蝉のように、夏の終わりと共に死を迎えるのも風情があるのかもしれない、と諦観しはじめて、早くも一週間だ。
窓の外から手にしていた新聞に視線を移し、咳払いを二回。ゆっくりと新聞紙をたたんで、サイドボードに載せる。
「随分と、諦観しているのね」
ふと、少女の声が聞こえた気がした。もうおれを見舞いに来るやつなどほとんど居ない。だから、おれはすごくびっくりした。目を見開き、声のしたほうをまじまじと眺めてしまった。
「女、の子?」
「……死神よ」
紺色の落ち着いた雰囲気のワンピースの上に、クリーム色の外套をまとった少女が、窓辺に腰掛けていた。右手には大きな鎌を持って、背中には灰色の翼がある。紫色の瞳が、宝石のようにきらきらと輝いている。不吉な容姿ではあるかもしれないが、不思議と恐怖心は湧かなかった。
「おれの魂を、持っていくのか」
「その心算」
「……そうか」
小さな囁きは吐息のようで、おれは一言も聞き漏らすまい、と耳をそばだてた。
「あなたの命の灯火が消えたら、持っていく。その前に、伝えたいことを、伝えたい人に告げた方がいい」
「ははは……家族はもう、おれのことなど気にしちゃいないがね」
「どうかしら。あなたがそう思っているだけかもしれない」
にこり、と目を細めて笑う姿は、とても死の遣いとは思えなかった。
「冥府の川はとても冷たい。だから、川を渡るときに、きっと生者の温もりを恋しがる。あなたの持つ炎が消えてしまわぬうちに、その温もりを思い出して」
窓辺から病室へと、死神の少女は降り立つ。そしておれの骨ばった手をとって、そっと握った。その手があまりにも冷たくて、おれは少し哀しい気持ちになった。
「お嬢さんの方が、冷たい手をしとるじゃないか」
おれはもう片方の手を、死神の手にのせて、そっとさすってやる。温もりがうつるように。
「ヒトの命は、温かいのね。……ありがとう。死神に優しくするニンゲンなんて、珍しい」
「あんたも、その仰々しい翼がなけりゃあ、人と変わらないじゃないか」
少女は、悲しげに瞳を伏せ、おれから手を離した。首を小さく振り、再び窓の桟に足をかける。
「また来るわ。次は、あなたを迎えに」
「おう」
おれは片手を上げ、横に小さく振った。少女は一等美しい微笑を浮かべて、おれに向かって呟いた。
「……翼無き者よ、その温もりを大切に」
そうして、灰色の翼を羽ばたかせ、次の瞬間にはもう少女は居なくなっていた。
ひょっとすると、夢でも見たのかもしれない。耄碌したのか、と子や孫達には言われるだろう。おれはそれでも、久々に家族の顔を見たいと思った。半分拒絶していた人々と連絡を取るために、電話にしわがれた手を伸ばし、震える手でゆっくりと番号を押し始めた。