4(完)
4
鉛で殺され。
皮を剥がれ。
別れを告げた、狼の王。
その雄々しい姿が、目の前にあった。
「須王、さん…」
それはもはやオオカミの名であった。
須王とは、なるべくして王となる、という意味だ。
なるべくしてオオカミ―――斑は、『須王』と言う名を継いだのだ。
だが目の前にいる王の姿に比べ、オオカミは己の状態に飛び上りそうなほど羞恥を覚えた。それほどまでに、目の前の狼は偉大で優美だった。
(何だ、この体たらくは)
老いて汚れた己の毛皮。弱った躰、脆くなった牙、割れた爪。
そんな成りで『須王』と名乗る事に対する、烏滸がましさ。
オオカミは時を忘れて剥製となった王を見詰めた。その眼には勿論生気はなく、彼が生きているわけではないのだと如実にオオカミに伝えてくる。
(今のおれを見て……貴方は落胆するだろうか…?)
オオカミは問いかけたかった。どんな言葉であろうと返して欲しかった。
そんなこと、不可能だと解ってはいても。
もっと貴方と話したかった。
もっと貴方と旅がしたかった。
もっと貴方を理解したかった。
もっと。
いつまでも、続けばいいと願っていた。
オオカミの背後で、キュッと踏みしめるような音が響いた。ハッと振り返ったオオカミの前には、モップを持った人間が立っていた。
「うわぁぁぁッ!!?」
心底驚愕した人間の悲鳴を聴いて、オオカミは飛びつくように走り出した。舌打ちを零して人間の横を駆け抜ける。衰えた己は、いつでも勝敗を冷静に考えるようになっており、食事以外ではほとんどが逃げの選択であった。尻餅をついた人間に構う余裕すらなかった。
オオカミは資料館を駆けた。所々で、その姿を目撃した人間たちの悲鳴が聞こえてくる。
逃げなければ。オオカミはただそれだけを思って駆けた。
人間たちに見つかった。捕まるわけにも、殺されるわけにもいかなかった。
(ああ……!)
一度だけ、須王が連れていってくれたときに見た景色。薄紅色で満ちた雄大な花弁を思い出す。
(ヨシノ………ヨシノ!)
須王が願った、王の安らぎ。
それがとてつもなく恋しかった。
資料館を出た外にも大勢のヒトが出歩いていた。どよめきと悲鳴を聴きながら、オオカミは疾風のように地に爪を立てた。割れて痛い事など言い訳にすらならない。血が出ていても関係ない。
ただ走り抜けた。駆け続けた。
目の前に立ち塞がった人間には躊躇無く歯を剥いた。吼えた。威嚇した。
そして道を空けさせる。
邪魔をするな。
私は王だ。
町を出て、再び戻った土の地面に足が安心した。止まりそうになって、オオカミは山の中に身を隠した。
さすがに走るのは限界で、蹌踉ける体力に舌打ちを零しながら一歩一歩ゆっくりと前に進んでいく。
暴れる心臓は、もはや破れる寸前だった。倒れ込みそうなほど、苦しい。
「こんな、ところで……!」
こんなところで、死ぬわけにはいかないのに。
この程度で死にそうになっている自分が狼の王であるなんて。これ以上ない滑稽な話だ。
剥製となった王の姿が目の裏にこびりついて離れない。
衝動を抑えきれずにオオカミは力一杯吠えた。天に向かって仲間を呼んだ。慟哭の咆吼が山の中に響き渡る。
返るはずのない、この国に生きる最後の狼の叫び。しかし、オオカミの耳には遠吠えが返った。
「………――――。」
幻聴、なのかもしれない。
とっさにオオカミは思った。信じるには、たった今現実を見たばかりで夢すら抱けなかった。
それでも。
無様な王であるオオカミは、それに縋っても許される気がした。
オオカミは脚を上げた。最後の力を振り絞って駆けた。全身全霊、命を燃やしてオオカミは走り続けた。
返ってきた遠吠えが、須王のものに酷似していたからだ。
待って。
まだ行かないでくれ。
オオカミは力尽きるまで、走った。
* * *
花吹雪く方からゆるりと歩いてきた王を、斑は軽く尻尾を振って迎えた。
『いいのかよ?』
『……なんのことだ』
王は決して振り返る事はなかった。斑もその後を追い、それ以上尋ねなかった。
捨てたわけでも忘れたわけでもないだろう。
けれど王は、選んだのだ。
己の安らぎではなく、仲間の為。もう此処にいられないとわかっていたから。
『―――行こうぜ』
斑が後ろから須王を追い抜いた。気遣う素振りを見せなかった斑に内心安堵して、須王は呟くように言った。
『ああ、行こう。………長い旅になる』
王の言葉が耳に届いた斑は振り返った。そして、ふっと口の端を上げる。
『ついて行くさ』
アンタが行く場所なら、どこまでも――――。
* * *
懐かしい匂いに包まれた気がして、オオカミは瞼を開けた。
静寂に満ちた森の中で、オオカミはひっそりと体を横たえていた。背を向けていた枯れ木を一度振り仰いで、再び頭を下げる。
(……意識が、遠のく………)
眠るように意識が途絶える事が増えた。躰にも力が入らない。
死期が近付いている。
オオカミはただ冷静にそう感じた。
現に、もう一歩も其処を動けそうになかった。動けてもどこへ行けばいいのか、此処がどこなのか、わからなかった。
微睡みの中、オオカミはかつての記憶を思い返した。そして走馬燈のようだと心のどこかで自嘲する。
思い返すのは仲間と共に過ごした幸福なときばかり。
実際は苦労も悲哀もあった。
それでも、ヨシノの元で暮らしていたときの記憶は、オオカミにとって安らぎであった。
過ぎてからでないと気付かない、無くしてからでないと解らない、そんな幸福だった。
(………須王、さん)
もうその名で呼ぶなと、あの王なら言うかも知れない。
(アンタはヨシノの他にも…………、安らぎを、得られたのか……?)
たとえ答えはわからなくても、そうなら良いと願う。
(“じぃ”が、言ったみたいに…)
自分が、そうなれていたなら光栄だけど。
それを確かめる為に問う相手は、もういない。
仲間もなく孤独に逝く己を少しだけ不幸に思った。
(いまさら、だけどな……)
そうだ。
なにが不幸なんだ。
ヨシノの咲く地に生まれ、飽食に育ち、仲間がいて、尊敬に値する王が居た。
(……………おれで良かった)
すべてを背負ったオオカミの王を、最期まで孤独に置かなくて良かった。
確かに鉛で殺され、皮を剥がれ、あんなふうにヒトの晒し者にされて。
(それでも……王たるアンタの気風は、誰にも壊せない………)
ヨシノを愛し、仲間の誰もが誇った王の姿は、人間にも強く映ったのだろうか。
あの冷たい建物のなかで、彼の姿だけが輝いていた。彼の気高さを残そうとした人間の気持ちだけなら理解しても良い。
思い返してオオカミは笑んだ。
(やっぱり……どう考えても、おれは王の器じゃないな……)
犬相手に気取った態度を取った過去を思い出す。彼は望んだ場で死ねただろうか。
―――生きてりゃ体は傷付くし、心は汚れる。―――
―――でも信念を貫けばオイラの誇りは壊れない。―――
誇りとは何だ。
誇りで生きているわけではない。
ゆっくりと瞼をあげた。視界はぼやけていて、一点に集中しない。鼓動も聞こえなくなっていく。
視界が、世界が、すべてが曖昧になり、蜃気楼か夢のような不明確な景色。
その、はずなのに。
「…………………………さくら?」
桃色の花弁が一枚、ふわりとオオカミの鼻の頭に乗った。
ヨシノを思い返すと力が湧いた。オオカミは目を凝らして上を見上げる。だが其処には、巨大な枯れ木があるだけだ。
幻だ。
鼻に触れたと感じたのに、よく目をこらすと花弁はない。
(…………ヨシノ……)
王が恋い焦がれた美しいさくら。記憶のなかで、繁栄の証のように優美な姿であった。
「………あぁ……」
オオカミはうっすらと眼を細めると、吐息のように呟いた。
「…………ここに、居たんだな……………………ヨシノ」
オオカミの視線の先は、枯れ木の幹に注がれた。別れてからどれだけの年月が経ったのか定かではない今、その印は奇跡にも思えた。
幹についた四本の斜め傷。オオカミのものよりも些か大きいそれは、間違いなく狼の爪痕だった。
王者の爪痕だ。
繁栄の象徴。須王の愛した母なるヨシノ。
彼女はもう、花を咲かせる事のない枯れ木になっていた。奇しくも狼たちの末路を追ったかのように。
「……………」
オオカミは眼を眇めた。
いつのまにか、オオカミは故郷へと帰ってきていた。仲間たちと共に過ごした古巣に還ってきた。
未練などもはや無い。
オオカミは瞼を閉じた。その裏で、銀色の毛並みが見えた。
ずっとオオカミの前にいた。誰より大きく偉大な姿は、『須王』と言う名に相応しい誇り高い狼だった。
その王が求めた安らぎの元で、この国に生きる最後の狼は静かに畢生の幕を下ろした。
【終】
最後まで読んでくださってありがとうございました。