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―――――銃声が轟いた。
視界いっぱいに、真っ赤な血が飛んだ。
目の前で、ぐらりと倒れたその躰は。
誰よりも大きく、思い焦がれた、銀色の毛並みだった。
* * *
オオカミは鼻を鳴らした。冷たい雪解け水を舐め、伸びてくる緑色の葉を踏みしめる。
(ああ、春の匂いが近付いている)
縺れそうになった足を立て直し、風の匂いを感じ取った。
そよそよと、老いた毛並みに靡く気の早い春風に、オオカミは目を閉じた。体を休めながらでないと動けなくなった事に、何とも情けないものだと自嘲が零れる。
(……ヨシノ)
心の声が、届いたのかも知れない。微かに懐かしい花の匂いがした。
そんな張り詰め続けたオオカミの気が、ふと癒されて緩んだときだ。
突如ガサッと近くの草藪から音がして、オオカミは機敏に、しかし大袈裟に、臨戦態勢を取った。そして目を瞠る。
一瞬だけ見えたのは、夢にまで現れた銀色の尻尾。
「………っ!」
それを見た瞬間、オオカミは駆けだしていた。石を飛ばし、地面に爪を立て、草藪を飛び越える。
久々の全力疾走に鼓動がついていかない。衰えた筋肉が悲鳴を上げている。それでもオオカミは走っていた。たった一瞬、目の端に移った銀色の尻尾を追って。
オオカミは走り続けた。呼吸が間に合わなくても、手脚がもげそうなほど軋んでも。
幻のように霞んで消えた、オオカミの道しるべを追って。走り続けた。
オオカミが我にかえったときには、いつのまにか山の中から舗装されたコンクリートの上にたどり着いていた。その硬い地面を構わず走り続けたせいで爪が割れ、じくじくと痛み出す。そうしてやっと、オオカミは駆けるのを止めた。
荒い息を整えながら、辺りを見回す。後先を考えずにこんなに余力が無くなるまで走って、今誰かに襲われたらどうする事も出来ないとオオカミは背筋に緊張を走らせた。
もう若くもないのに、どうして今更、こんなに愚かな真似をしたのかオオカミにも解らなかった。だが、理由などなくても構わなかった。
オオカミはいつも、銀色の尻尾を追いかけていたのだから。
其処はもう山につながる人里だった。朝方の為か、幸運にも辺りにヒトの姿は見えなかったが、慎重に構えてオオカミは道の端の溝に降りた。山から流れる冷たい水が、オオカミの足を洗って血を流していく。火照った躰には心地よかった。
そこで、オオカミは躰をコンクリートに凭れさせた。コンクリートの冷たさが、躰の熱を冷ます。ゆっくりと己の躰を見下ろした。いつの間にか弱く、みすぼらしく、老いた躰となっていた。
(情けないものだ…)
自嘲が零れる。縋るように必死になって。
仲間もなく、老いて、独りで、惨めで、醜悪だ。
いったい、王とは何だ。
誰が為の王だというのだ。
ああ、ヨシノ。
お前の元に、早く、この命が尽きる前に―――。
急激に焦りが生まれる。思うように躰が動かず、もどかしい。
ふと、オオカミは懐かしい匂いをかぎ取って、顔を上げた。その匂いは、誰より焦がれ、目指し、望郷の念に近いものをオオカミに思い起こさせた。思わず体中の毛がぞわりと逆立ち、心臓よりさらに奥のココロが締め付けられた。
(まさか……)
銀色の尻尾を思い出す。オオカミは辺りにヒトがいないことを確認して、静かに駆けだした。向かうのは街の中心だ。
人口の少ない街なのか、そういう時間帯なのか、めったにヒトの姿は見られない。まれにヒトを見つけても、上手くかわして先を急ぐ。
今度は高揚感に鼓動が高鳴る。直感に誘われるまま、街の中に入っていく。そんなに大きな街ではないようだが、近くに学校があるらしい。ヒトの子供の声が聞こえた。
再びオオカミは、視界の端に懐かしいものを捕らえた。銀の尻尾。慌てて振り返ると、そこは通り過ぎようとしていた資料館の入り口だった。
その入り口は、営業中という古びた立て札と共に、誰もが気軽に入れるように内開きに開かれていた。係員の姿は見えない。辺りにヒトはいない。
オオカミは注意深く、その中に入っていった。薄暗く続く廊下を音も立てずに進んでいく。中にもヒトはいなかった。
それを良い事に、オオカミは己の中で響きだした緊張と警鐘に目を瞑り、奥へ向かった。
地元の民族研究がメインであるこの資料館は、それほど大きくなかった。オオカミが一番奥の部屋にたどり着くまで一本道で、それもまた、すぐであった。
うっすらと輝くライトに眼を細める。資料館内の暗闇に慣れてきていたところだったので、見えるようになるまで少し時間がかかった。
だがそのライトに照らされたものを見て、オオカミは息を呑んだ。思いがけず、自分と同じように獣が居る気配を感じ、反射で身構えようとして、それは失敗に終わった。
獣の気配。だがそれは、もはや生きてはいなかった。
「………」
目の前にある剥製となった一匹の獣。蝋で固められても、まるで生きているかのように雄々しい立ち振る舞いで、その優雅さを保っている。
息が詰まった。
―――銀のように美しい毛並みを持つ、狼。
オオカミよりも、王らしい姿。
思わず漏れた声が震えた。見開いたオオカミの眼が驚愕に揺れる。
「…………………須王、さん」
かつて目の前にいる王に『斑』と呼ばれたオオカミの胸に、裂けんばかりの悲しみが溢れた。
* * *
――――とうとう、二匹になってしまった。
苛酷な旅だった。オトナになる前に、チビ共はどんどん減っていった。戦いに負け、寒さに負け、飢えに負け、女も男も関係なく、仲間はどんどん倒れていった。
須王は決して振り返らなかった。ただ黙ってついてくる者だけ許した。吹雪く中、須王がやっと振り返ったとき、其処には斑だけが居た。
「……っ、須王さん」
「斑」
須王は、少し思案したように、はじめて戸惑った姿を見せた。斑が初めて見る、王の躊躇だった。
「もう、いいんだぞ」
吹雪の中でも確かに届いたその言葉に、斑は足を止めた。
「もうついてこなくてもいい。好きなところへ行け」
「………なに、言ってんだよ」
「見ての通りだ。もはや我らに繁栄はない」
この先の繁栄を夢見てヨシノの元を旅立った。その末路は、変える事の出来なかった未来を先伸ばしただけだった。
情けない王だと、須王は己を責めた。
そして初めて、最後までついてきた斑を不憫に思った。
「お前はまだ若い。好きなところへ行け。お前の一生を、思うように生きて良いんだ」
須王は歩を進めた。斑はその場に止まったままだった。動けなかった。
「……ねぇ、須王さん」
小さな声で斑が須王を呼び止めた。微かに震えているのは、寒さのせいではない。
「おれはもう、いらねぇの?」
ぴたりと、須王の足が止まった。
「もういらねぇ? 必要じゃないのかよ」
「……そうじゃない。だが」
今から続くのは、破滅の道だ。
その道を行くのは、王たる者だけで良い。
それなのに。
「勝手に決めんなよ。独りで進んで、誰がアンタを王だって認めるんだよ」
斑は須王の隣に並んだ。もう、須王と並んでも大差ないほど大きな体。
「アンタが王であることがおれたちの誇りだ。好きにしろというなら、黙っておれを側に置いてくれよ」
斑の瞳が、須王を見詰めた。
「アンタの一生を一番近くで見させてくれよ。おれの王」
そう言って深く跪いた斑に、須王は言葉を失った。須王が王たるために、斑は最後まで付き従う者になるという。
このとき胸に広がった温もりは、須王に安らぎを与えるのに十分だった。
「ばかだとは思っていたが……」
「なんだよ」
ムッと口を尖らせる斑と対照的に、須王ははにかんだ。
「好きにしろ、斑。どうやら私には、まだお前が必要らしい」
その言葉に斑は嬉しそうに尾を振った。傷を舐められたときのように、くすぐったそうだった。
「須王さん、ヨシノの元に行こう?」
須王は頷いた。元より、斑と別れてそうするつもりだった。
だからこそ斑がそう言った事が嬉しかった。いつの間にか、理解者を得られない孤高の王では無くなっていたことに、虞どころかむしろ幸福を感じた。
(帰ろう。斑と共に)
我が安らぎ。母なる象徴。
ヨシノの元へ――――。
* *
硝煙の匂いがする。そう気が付いたときには、囲まれていた。
一週間まともに食事をしていなかったから、体力は極限であった事も原因だと思う。斑は危険を察知出来たにもかかわらず、思うように躰が動かなかった。
『――――斑ッ』
須王が斑に体当たりをした。斑は地面に倒れ、代わりに須王が足を撃たれた。
『須王さ………!』
一瞬だけ、斑と須王の目が合った。
―――――パァンッ!
斑の目の前で、須王の躰が傾いだ。鮮血を飛ばしながら狼の王が苦悶の表情を浮かべる。人間の放った小さな鉛の玉一つで。斑が、狼たちが、敬い誇った王が倒れた。
それは、斑が想像もしなかった光景で。
何が起きたのか解らなかった。解りたくなかった。
ただ倒れた須王の躰の下から広がっていく鮮血に気付いた途端、斑はこれ以上ないほど混乱し、ただわけもわからず喪失の恐怖に襲われた。
『須王さんッ!』
駆け寄ると、須王が血を吐いた。ぞわりと背筋が冷え、噛みしめた奥歯が軋んだ。
『……っ、……ま、だら』
ぐぐっと身を起こそうとした須王は、激痛と出血量にもはや自身の先が長くない事を悟った。諦めたわけでも投げ出したわけでもなく、ただ事実として、それを受け入れた。
そうして、阿呆のようにぼけっと突っ立っている斑にきつい眼差しを向ける。
『何をしている、斑……さっさと逃げろ…!』
硝煙と、ヒトの匂いが近付いている。叱りつけるようにそう言った須王に、斑は戸惑った顔をした。泣きそうに、躊躇うように歯を噛んだ。
須王を置いていけない。
そんな事を言って困らせるほど、斑は幼くなかった。また経験で、負傷した須王と共に連れ立って逃げる事が困難だと、解る。
解るけれど、感情は理屈ではなかった。
王が此処で果てるというなら、それに最期まで付き合う覚悟はいつでもあった。
そして須王も、そんな斑の気持ちを知っていた。だからすべてを受け渡すかのように、須王は小さく口角をあげた。
『―――行け、斑。最後に残ったお前が、この国に生きる狼の王だ』
その言葉に斑は決意した。鼻先を王に近づけ、別れを告げる。王も鼻先を斑に向けた。
最後の狼が二匹。鼻先を交差させて挨拶を済ます。それは兄弟の契りのようであった。そして途端、斑は駆けだした。斑のすぐ後ろで地面が弾かれる。ジグザグに駆けて藪の中を走ると枝が身を裂いた。それでも斑は走り続けた。
風下を目指し、高台を登る。長く走り、斑はやっと足を止めた。
遠くで、網に囚われた誇り高き狼の王が見えた。身を伏せて、斑はそれを見ていた。人間たちが集まって、彼らは手に持っていた黒い筒を、囚われた狼に向けた。
そしてもう一度、銃声が響いた。
人間たちは王の素晴らしい毛皮を見て、それを鋭利なナイフで剥ぎ始めた。あまりの出血に、斑の元にまで血の臭いが届いた。
それを斑は、ただ黙って、最後まで見ていた。
感傷なんて湧かなかった。なぜなら、須王は最期まで王たる存在だった。
憤怒などあるわけがない。なぜなら、須王は決して誇りを折られたわけではないからだ。
孤独、矜持、責任と緊張。
いまなら、須王の気持ちがわかる。
なぜなら斑はもう、この国に生きる最後の狼。
誇り高き狼の王となったのだから―――。