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須王の誘いを断る女など居なかった。須王の周りには常に何匹かの女が侍り、群れの中では次の世代も生まれていた。
「須王さん! 二、三日は留まらないと無理だ。チビ共、凍死すんぜ」
斑の言葉に須王も頷いた。
この大地の冬は厳しい。確固たる王の存在は偉大で、須王の群れの統率は完璧だ。獣を捕らえることは容易く、冬ごもりの前である今でもなんとか仲間の分をまかなえる程度には過ごせていた。だがこの地に慣れない為、問題なのは環境だった。
しかし一カ所に留まり食料を取り尽くしてしまう事を畏れた須王は、群れを連れ、常に旅を続けていた。しかし秋に生まれた子供たちには苛酷だ。特にここ二、三日は例年にない冷え込みで、もう一度大きな狩りをしないと旅に出る事は叶わない。
「狩りに行く。斑、皆を集めろ。組を分ける」
子供を護る組と狩りの組だ。背を向けて歩み始めた須王の後ろから、斑が急いで声をかけた。
「オレは狩りがいい!」
「……お前は居残りの方だ」
ゆっくりと振り返ってそう答えた須王に、案の定、斑は噛みつくように抗議した。
「なんでだよ! 前もそうだった!」
「うるさい。私に逆らうな」
口答えした斑は須王に引っかかれたが、それでも負けじと食い下がる。
「納得できねぇよ!」
「さっさと集めてこい」
聞く耳を持たない須王の態度にあからさまに不満を示しながらも、斑は群れの方へ戻っていった。
「坊やが臍曲げたんだって?」
一人で休んでいた須王に、唐突に声が掛けられた。気配と音でその存在に気付いていた須王は、ゆっくりと眼を開けて声の主を見た。
白く老いた毛並みの狼。群れの中では『じぃ』と呼ばれているが、須王は彼を『霜』という名前で呼んだ。
そして霜は斑の事をいつまでも『坊や』と呼んだ。
「お前も手加減しないな。坊やの顔まで傷だらけだったぞ」
「いつまでもぐずぐずと喧しいからだ」
食い下がる斑を払うたびに引っかいた。いまや傷だらけで、やっと斑は言う事を聞いた。
王に逆らう方がどうかしている。須王はそう呟いて再び顔を伏せた。
「不器用なのは相変わらずか。いい歳をして」
「…お前も傷を付けられたいのか霜?」
飄々と、霜は笑った。群れの中では一番年長に当たる霜に、須王も本気にはならない事を知っていた。
「群れがあってこその王だろう? そんな扱いをしていちゃ、ついてこなくなるよ」
「私は王だ。逆らう事は許さない」
「たしかに、王が弱音を吐くことは許されないが」
「何が言いたい」
プイと横を向いた須王の横に、霜は近付いて囁くように告げた。
「弱音はいかんが、本音は語っても許されるんだぞ。わしが言いたいのはそれだけさ」
「……」
応えず、須王は立ち上がると狩りの組が待つ方へ歩き出した。霜はそれを黙ったまま見送ると、群れの方へ戻っていった。
子供達が無邪気にじゃれ合う真ん中で、斑は仏頂面で伏せていた。近付いてくる霜に気が付いた斑は、耳を立てると視線だけ向けた。
「……なんだよ、じぃ」
子供達は霜の周りをクルクル回ると、楽しそうに跳ねる。
「だめだよ“じぃ”」
「“まだら”はご機嫌ナナメなのー」
「王サマに怒られたからー」
子供達の言葉に、斑は大人げなく牙を剥いて唸った。
「うるせぇよお前らっ」
「「「きゃー」」」
怖がるよりは楽しそうに、子供達は母親の所に走っていった。それを見ていた霜は吹き出して笑った。
「あんなチビにまでからかわれるなんて、いつまでも童心だねぇ坊や」
「“じぃ”も、うっせー。笑いに来たんならどっか行けよ」
「わしも居残り組だからねぇ。老体は無理しないんだよ」
「狼とは思えねぇな」
「ふははは、よく言われるわぃ」
霜は斑の横に座った。傷だらけの姿で、斑はぶすっと目を細めると再び伏せた。
「須王はね」
「おい、今は須王さんの話はすんなよ。腹立つから」
「まあまあ。独り言だから」
マイペースにそう言う霜を、斑がやめろとはいえない。どこかへ行こうかとも思ったが、あいにく此処を離れたら狩りに行かずに残った意味がない。此処が群れの中心だ。
「…須王はね、ヨシノが好きなんだよ。母親のように恋人のように、ヨシノを愛していたんだ」
「……?」
「須王は、王だからね。誰にも弱音は吐かないし、媚びない。不屈の誇りとカリスマを持っているが、それ故に須王は安らぎの場を失ったんだ」
「……なんだよ。群れの中では、休めねーってか」
「なんじゃい、わしの独り言に入ってきおって」
「めんどくせーこと言うなよ。なに? 続きは?」
ふふふ霜じぃさんの話術に嵌ったな、と笑い続ける霜にツッコミを入れてやるほど斑も優しくない。仕方がないので霜は自称独り言を続けた。
「須王はヨシノの前でしか本音を語らなくなったのさ。いや、正確には語れなくなった」
辛い事も悲しい事もおくびに出さず、仲間を奮い立たせる為に常に立ち続け、戦い続ける。そしてふと気付いたとき、ヨシノの前でだけ体を休めるようになっていた。
「誰かがヨシノに近付く事を酷く嫌った。王である姿しか、須王は見せられなくなったんだ。王の誇りゆえにな」
「………なんでそんなこと解るんだよ、じぃ」
「年の功だよ、年の功」
斑はムッと口を尖らした。霜とは逆の方へ顔を背けて、ぽつりと漏らす。
「年の功、とか。そんなんいつまで経っても追いつけねぇじゃん……」
しっかりとそれを耳にした霜は一瞬目を丸くしたが、直ぐさま吹き出した。
「ふははは! かわいいな坊や!」
「うっせーぞ、ポックリ逝っちまえこのクソジジー」
霜には解った。斑が誰に追いつきたいのか。
孤高の狼。誰より気高く強い、我らの王。
霜は眼を眇めた。
「…断腸の思いで須王は決意した事だろう。仲間の為に、王として、自らの安らぎを手放したんだ」
ヨシノ。
斑は霜の顔を見た。霜の穏やかな瞳を見て、斑も体を起こした。
「なあ、斑」
霜は斑の名を呼んだ。
「お前が、なってやりな。孤高の王が安らぎに帰ってくる場所に」
斑は居心地が悪そうに尻尾を揺らした。
「……おれじゃ力不足だろ」
「そんなことはない。少なくとも須王はお前が思っているよりも坊やを信頼しているよ」
「どこが?」
心の底から問われた疑わしいその声にうっすらと笑い、霜は立ち上がった。
「不器用な王だが、ちゃんとくみ取ってやりな。どーして坊やが、いつも『護りの組』にいるのか」
その意図を。考えろ、と霜が諭す。
思いがけない言葉に斑は目を見開いた。ぐぐっと伸びをして霜は長く息を吐く。
「やれやれ、年寄りは独り言が多くてイヤだねぇ」
そういって老狼、霜は塒の方へ歩いていった。その後ろ姿を言葉もなく見送った斑は、ハッと我に返えると誤魔化すように独りごちた。
「……………っていうか、須王さんが帰ってくる場所はおれじゃなくて、チビどものところだろぉがよ」
まったく、恥ずかしい事を言ってくれる年寄りだ。
須王と斑は仲間、それどころか王にとっては配下に過ぎない。
血の繋がった兄弟でもあるまいし。
須王にとって、斑はいくらでも替えが効く存在だ。
「……!」
その時、斑の鼻に異臭が届く。
群れとは違う獣の匂い。緊張と怒りを孕んだそれは。
「―――――敵襲だ!」
守りの要、斑の吼える声が、群れの全員に響き轟いた。
* * *
狩りに出ていた須王の耳にも、遠吠えが届いた。仲間内で連携をとり、遠くの者にも情報が届くように須王は日頃から計らっている。それが効を成した。
狩りを終えたばかりでちょうど帰還の寸前だった。あとの始末は残った者に的確な指示を出した途端、須王は風のように駆けた。脇目もふらず一心不乱に須王が走れば、誰も追いつく事は出来ず、須王は最速で群れを目指した。
(斑……!)
護り組として残した、あいつがいる。
(私が行くまで、持ちこたえろ……!)
土と血の臭いをかぎ分け、藪を飛び抜けてその姿を目の当たりにした須王は、微かに息を呑んだ。
少しだけ土の盛り上がった大地の真ん中で、血塗れの斑が爪を地に食い込ませて立っていた。周りに他の狼の姿はない。臨戦態勢のまま、斑が須王に背を向けて立っていた。
「斑!」
須王が駆け寄ると、斑の身体からふっと力が抜ける様が見えた。
「……須王さん、ごめん」
斑は見た事がないくらい弱々しく呟くとそっと視線をずらした。その先にあるものを見て、須王は声を張り上げた。
「―――霜!」
横たわる、老いた白い狼。須王が駆け寄ると、霜はゆっくりと瞼をあげた。眼は自身の血で濡れている。
「……なんだい。早いお帰りじゃないか」
弱く呟く霜の声に、須王は辺りを確認した。隠れていたらしい子供達の、おずおずとした姿が見え始める。皆と同じように戦っていた母親たちの所に行き、甘えるように顔をこすりつける。
「坊やたちが追い払ってくれたよ…。ここら辺が縄張りの獣たちをね」
霜が呟いて、須王は斑を見た。その視線に気付いて、斑はひょこひょこと霜の元に近付いてきた。
「じぃ…」
小さな声に、霜は笑った。
「そんな顔をするんじゃないよ、斑。わしは此処が潮時だったのさ」
霜の横たわる身体の下から、ゆっくりと血が滲んでいた。須王が霜の向かいに座ると、斑も横に並んだ。
「ヨシノも綺麗だがね。わしは生まれ育った地に舞う雪が好きだったよ。だからこの地に眠る事は、むしろ望むところなのさ。ははは」
笑う霜の周りに、子供達も集まってきた。ぽつりぽつりと集まってくる仲間たちに、霜は笑いかけた。須王だけは静かにその場を離れた。
仲間たちに看取られて。老狼が息を引き取ったのは、寒い寒い雪が降る日であった。
斑は須王を追った。須王はひとり、大地を見渡せる高台にいた。
恐らく血の臭いをかぎ取って、須王は斑に気が付いていた。斑が顔を俯けながら近付くのを止めると、須王は柔らかく尻尾を振った。
「此処に来い、斑」
須王は雪を見詰めていた。斑はゆっくりと須王の後ろまで来ると、やはりまた足を止めた。
「ごめん、須王さん」
「何を謝る? 霜が死んだのはお前のせいではないだろう」
直前まで霜は笑っていた。
「むしろこれで良かったんだ。霜はきっと、次の旅に耐える事が出来なかったろう。あれが望む……この地に眠れて良かったんだ」
斑が横に並ばないので、須王が一歩下がった。そして項垂れる斑を、横に押し倒す。
「うわっ」
「…なんだこの怪我は。他の者たちはもっと綺麗だったぞ」
「痛っ! しょーがねぇじゃん! おれだってがんばってたんだよ! イテェって!」
そんなことはわかっている。
きっと誰よりも、斑が戦った。みんなを護った。一番傷付いて、一番哀しんだ。
「なんだよ! チビどもは護っただろっ!?」
べつに、『誰か』じゃなくても良い。
『自分自身』でも構わない。無事であれと、疾風の如く走った自分が確かにいた。
………そんなこと死んでも教えてやらないけれど。
須王は斑の首元に顔を寄せる。通った鼻先で血の臭いを追う。怪我を見つける。他の獣の、牙の跡。
「みんな、すべてを護ろうなど……百年早い」
そう言いながら須王が斑の傷口を舐めると鉄の味がした。傷口を舐めると斑はさらに痛そうに身をよじる。
「だが、よくやった。お前のおかげだ」
霜のことは仕方ない。
暗にそう言って血が固まった傷を舐め続けると、斑は困ったように振る舞いながら須王に好きなようにさせた。
「アンタの褒め方は痛いよ」
そう言うが、斑はくすぐったそうだった。須王が誰かを褒める事はめったにないからだ。
きっとこれからも、苛酷な旅に仲間はどんどん減っていく。死んでいく。
それでも、斑がした事は決して無駄にならないのだと、教えてやりながら。
霜と入れ違いで降りだした雪が積もる前に、須王はまた、旅を続ける事を決意した。
斑は薄暗い空を眺めた。灰色の空から、霜の毛皮のように白い雪が降ってくる。
確かに斑は須王にとって、仲間の一人にしか過ぎない。いくらでも替えが効く存在だ。
そのはずなのに。いつまでも傷を舐めてくる王に、斑は一抹の優しさと寂しさを垣間見た。
(なぁ“じぃ”。おれは、なれるかな?)
――――孤高の王が、帰ってくる安らぎに。