1
狼が主人公の物語です。
この国を見てきて幾星霜。
長い長い時を経て、私は故郷を探し始めた。仲間と共に旅立ち、その仲間が散った今。故郷の想いを馳せるようになったのはいつからだったろうか。
私も歳を取った。
だからこそ急いでいる。焦っているのだ。
歳を取りすぎて、いつ来るともしれぬ寿命を恐れている。猛々しく遠吠えをし、仲間たちと駆け回ったかつての古巣が懐かしく恋しい。ゆえに苛酷な旅を続けている。
我が名は須王。
この国に生き残る、最後の狼なり。
1
『ヨシノ』
小さく呼びかけると、彼女はいつでも微笑むように花弁を舞わせた。
『私は旅に出る。仲間たちと、いつ帰るとも知れぬ旅に…』
此処での暮らしは悪くない。生まれ育った地であり、既に知らぬことなどない。
だからこそ解るのだ。もうすぐこの地の食料が尽きるという事が。
『私は王だ。仲間たちを飢えさせるわけにはいかない』
柔らかな風が体を撫でていく。全身の毛並みが滑るように流れた。須王は鋭い瞼を薄く閉じた。そして悔恨の念に襲われる。
『我らはこの地に甘え過ぎた…すまないヨシノ』
獲物を追って、繁栄を築いた。しかしそれは、破滅へと向かっていた。獲物を捕りすぎたのだ。
須王は前足を延ばした。そして目の前にある幹に、斜めの傷を付けた。誰よりも大きく鋭い、王の爪で。
『もう此処には戻ってこられないだろう』
狼の王は、優しい瞳で彼女を見詰めた。誓いの傷が消えない事を祈る。
『ただ安らかに。・・・ヨシノが此処で、いつまでも息づく事を願おう』
さらばヨシノ。
たとえ身は離れても、魂は此処に―――。
* * *
オオカミはゆっくりと眼を覚ました。素早く体を起こして身震いを一つ。
冷たい風に硝煙の匂いが乗っているのをかぎ取ると、オオカミは風下に駆けた。昨夜より、火薬の匂いの距離が近づいている。不愉快だ。
劈くような銃声と、鼻につく匂い。人間が生み出したものは嫌いだ。
あれで多くの仲間が散っていった。
「――――いたぞッ」
人間の声が響いた。風下からの声に、オオカミは眉間の皺を深めた。いくら自慢の鼻であっても、予知までは叶わない。
声に続いてオオカミの足下で地面が弾けた。仲間たちが倒れていった鉛だ。筒を構える人間たちの姿を見つけ、オオカミはそちらに向かって駆ける。
慌てて銃口を向けても遅い。同士撃ちを恐れて引き金を引けない人間たちの隙間を縫って、オオカミは林の中に飛び込んだ。
川の浅瀬を見つけたので、オオカミは駆け足で渡った。川の中の砂利が跳ねて痛かったが、逃げるときに川で匂いを消すのは常套手段だった。人間に対して有効かどうかは別として。
向こう岸に渡ったあと、体についた水を飛ばすとオオカミは自分の足を見た。微かに血の臭いがすることに勿論気がついていたが、改めて見ると出血が多い。銃弾が掠ったのだ。
何度か舐めて、血が止まったのを確認するとオオカミは歩き出した。少し痛むが、歩ける事に安堵する。
安堵して、オオカミは少しだけ視線を下げた。
なんだこの体たらくは。
何故、私が逃げているのだ。私は、横に並ぶ者などいない、無二の王だというのに。
またじくじくと足が痛み始めた。立ち止まっては血を舐め取る。
最後に食事をしたのが三日前。そろそろ狩りをしなければいけなかったのに、この足では不利だ。血の臭いは強い。普段草ばかり食べている獣を相手にしても、警報になってしまう。
オオカミは完全に立ち止まった。しかし生きる事まで立ち止まるわけにはいかない。
最後まで須王についてきた、年下の仲間がいた。
名を斑といい、名の通り黒と白の毛並みが入り乱れ、灰のような色をした狼だ。ばかで、無垢で、突っ張っているのに素直で。須王も目を掛けていた可愛い弟分だった。
『須王さん! ちょっと待ってくれよ』
先頭を歩んでいた足を止めて振り返ると、仲間たちが少し遅れている事に気がついた。
誰もが王への進言を躊躇っている中、彼だけは王である須王を恐れなかった。馴れ馴れしいと須王が噛みつく事も多かったというのに、傷だらけの体で懲りずに彼は口を挟む。歯を剥いて楯突く。それが楽しかったなど、須王は一度も言ってやらなかったけれど。
進む速度を緩めても、振り返るたび仲間はどんどん減っていった。飢えと旅の厳しさに負けて。
最後の最後まで、足下はふらふらでもしぶとい奴も居た。
『ついてくるなと言われても、オレはアンタについていく』
そう言っていたのに、死んだ。
驚くほどあっけなく。
より強い獣が噛み殺したのならもっと何も思わなかった。自分でとどめを刺したなら尚のこと気にもしなかった。喰うか喰われるかの中で、力及ばず死んでいくなら何も思わなかったのに。
彼は人間の鉛で殺されて、引きずられ、その皮をはがれた。
人間に対して怨みや悲しみなんか無い。ただ気持ち悪く。
それがとてつもなく嫌だった。
『オレ知ってるっすよ。アンタがヨシノの前でだけ素直になるの』
ヨシノに最後の別れを告げて戻った須王を、斑だけが待っていた。無視して前を通り過ぎると、斑は尾を振ってついてきた。気まずくなって後ろ足で蹴ると、楯突くように引っ掻いてきたので噛みついた。喧嘩になる度、いつも須王が勝った。
『いってぇ! 手加減しろよ!』
『うるさい。文句を言う前に勝ってみせろ』
喧嘩をしてもついてくる。ぶつぶつ愚痴を零しても、決して須王を裏切らない。
まるで血を分けた兄弟のように―――。
「……おいおい旦那。どうしたんだい?」
突如声を掛けられて、オオカミはハッと我に返った。立ち止まったまましばらく呆けていた自分に気付いて愕然とする。もっと若いときには考えられない失態だ。血も流れ出し、その臭いが鼻を突く。
声を掛けられた方を振り返ると、一匹の狼が居た。
(いや…)
違う。
「なんだ貴様。犬が私に何のようだ」
骨格、毛並み、三角の耳。形は狼に似ているが、胴体は一回り小さい。目の色は榛色だ。色のせいか穏やかな印象を受ける。狼じゃない。
目の前の犬は、オオカミの切り返しに一瞬驚いたように目を丸くしたが、すぐに笑い出した。
「えっらそうなやつだなぁ。こんなところでホケッとしてたら、痛い目見るぜぇ?」
ついさっきも川向こうで人間たちが銃を放ったんだ、と続けたのを聞きながら、オオカミは背を向けて歩き出した。犬はオオカミの愛想の無さを気にした様子もなく後ろからついてきた。
「あ、知ってた?」
「……知ってるもなにも、狙われたのは私だ」
「あそう。じゃあその足は人間にやられたわけ?」
後ろ足を引きずる様子をからかわれて、オオカミは振り返りざま大きく歯を剥いて威嚇した。
「おっと。機嫌悪ぃね」
身軽に避けた犬に舌打ちして、オオカミはそれ以上構う事もなく去っていく。
かすり傷なのに、足はどんどん熱く痛くなっていく。血が垂れる足を舐めるたびに、ついてくる犬との距離が狭まる。
徐々に息も上がり、視界が歪んでくる。思わず蹌踉めきそうになり、頭を振ると後ろから声が掛かった。思いのほか近くで。
「人間にやられたんだろ? ならタダの傷じゃねぇよ。やつら変なクスリ使ってんだ」
犬はオオカミに駆け寄った。もうオオカミは威嚇など出来る余裕もなかった。息が荒く、長く伸ばした舌から唾液が垂れていく。
「隠れて休んだ方がいい。それが抜けきるまで二日はかかる」
犬がそう忠告したとき、オオカミの意識は途切れた。
『すっげぇな…!』
若い瞳を輝かせて、斑はヨシノを見上げていた。
満開のヨシノを見て、斑は嬉しそうに駆け回った。ガキか、と呆れる須王を気にもせず。
『こんなに綺麗な景色、初めて見た…』
こうやって斑は素直に感動するだろうと思って、連れてきた。連れてきた甲斐もあるというものだ。そんなこと、わざわざ教えてやらないけれど。
『ずりぃなアンタ! いままでこんな景色独り占めにしてたのか!』
そんな風に怒る斑が可笑しくて、須王にしては珍しく、声を上げて笑ったのだ。
「――――生きてるかー?」
瞳を開けると目の前に犬の姿があった。起きあがろうとすると足が縺れて崩れるように元の位置に戻った。ひどく体が重く熱っぽい。
(雨の匂いがする)
薄目を開けて辺りを見渡すと、どうやら崖に穴を掘った洞窟に寝ているらしい事が解った。ぱっくりと開いた洞窟の入り口の外で、シトシトと雨が降っていた。
目の前で身を震わせて雨を飛ばす犬を見て、オオカミは喉の渇きを覚えた。
視線に気付いた犬は、身軽にてけてけとオオカミに近寄って水を含んだ尻尾を差し出した。オオカミは犬の尻尾を舐めて、少しだけの水分を乾いた舌に吸収する。
「…此処はどこだ」
「オイラの住処さ。ほら食うかい?」
目の前に投げ出された鳥の肉に、オオカミは目を見開いた。一瞬躊躇し、だが結局は口にする。がつがつと食べると犬は満足そうに笑った。
「ところでアンタ変わってるな。そんなに大きな体のヤツは初めて見たよ」
不思議そうに呟かれた犬の言葉に、オオカミは動きを止めた。
(まさか)
「オイラも結構デカイ方なんだけどねぇ」
(犬と勘違いしているのか……?)
無理もない。
オオカミは素直にそう思った。狼がこの国から衰退していって、もはやオオカミが最後の一匹なのだから。
「結構な傷もたくさんあるな。アンタ苦労してきたみたいだ」
犬は笑った。オオカミは笑えなかった。犬はそれをオオカミがまだ本調子ではないのだと解釈した。
「ほら、寝た方がいい。まだ人間たちがウロウロしてるんだ」
体はまだ重い。頭も熱く、瞼も重かった。だがオオカミは耐えて問う。
「人間たちは、何をしている…?」
この山に入った途端、オオカミは狙撃された。火薬の匂いに一早く気付いて駆けだした。しかし撒いても撒いても、彼らは追いかけてくるのだ。
「ああ。この辺、犬狩りが流行ってるんだよ」
さらりと犬は言った。あまりにアッサリと言われたので、オオカミは聞き間違いかと思った。
「い、犬狩り?」
「うん。…オイラたちはここに棲んでちゃいけないんだってさ」
複数形でいわれた言葉の端に乗った意味に、気がついた。ここには他に犬の仲間はいない。
「狩られたのか」
「うん」
犬は頷いた。雨の音がことのほか大きく響く。
「人間を恨んでいるか」
「べつに」
でもちょっと寂しいなぁ、と犬は笑った。そんな顔をオオカミは知っている。毎日、水面を見るたび見かける表情だ。
オオカミは怪我とクスリで鈍った頭をゆるく振る。気の迷いや同情だと思われたくなかったから、意識をなるべく持っていると犬に知らせて。
「私と共に来い」
ぴくりと、犬の耳が立った。
「共に来い。長い旅になるが…」
犬は少し唸ったあと、舌を出した。
「…むり。オイラ行けねぇや」
へへっと犬は苦笑する。オオカミは少しだけ苛立った。
苛立つ理由を知っている。この感情の名前を知っている。だから放ってなどおけない。
狼は叫んだ。
「ここにいても長く保たん! ここはもう…」
「うん。それでもさ」
犬は一度、言葉を切った。
「ここはオイラの故郷なんだよ」
その言葉に、心臓が締め付けられるように鳴り、きりりと痛む。
「ここで生まれて、育って、大切なものたちに逢って、多くを学び、悲しみを覚え、それでも愛しい場所なんだ」
犬はオオカミを見た。優しい榛色の目が狼を写す。
「―――アンタなら、わかるんじゃない?」
わかるから。
だから誘っているんだと、思う。
同じ想いを共有して欲しいと望んだ。死ぬなら、此処で。此処は自分の死ぬ場所だと。
(私が死ぬのはヨシノのもとで、だ…!)
唯一の悲願。成就まで、生き延びて。
「ごめんな。誘ってくれてアリガト」
オオカミは吠えた。思うようにいかない体がもどかしかった。思うように動かない犬に腹が立った。
「黙れ! 私に逆らうな!」
「……ゴーマンだなぁ」
けらけらと犬は笑った。オオカミはなにも可笑しくなかった。
ふらつく脚を叱咤する。回りそうな視界を制御する。考えがまとまらない頭を奮い立たす。
「私は、王だ!」
だから口答えするな。
だから私についてこい。
だから。
死なせたくない、と。思うのに。
「……お前は死にたいのか…?」
犬は穏やかに微笑むばかりで。
「熱いねぇ旦那。でも、オイラはアンタに仕えてるわけじゃないからね。言う事なんか聞いてやんないよ」
目の前にいるのは犬だ。人間に飼われ、媚びを売り、従う事が好きな生き物。
そのはずなのに。オオカミは目の前にいるのがそんな輩とは思えなかった。
「オイラはしたい事をするだけさ。生きてりゃ体は傷付くし、心は汚れる。でも信念を貫けばオイラの誇りは壊れない。……だろ?」
それは真理だ。そして理想論だ。
「こいつはオイラの一生だ。オイラが思うように生きて、望んだ場所で死にたいのさ」
誇りだけを護るというのか。
それが大切なのか。
それだけが。
オオカミにも崩せない、強固なる信念だ。オオカミは身体を横たえて、目を閉じた。
「………お前には、誇り高き狼の血が流れているようだ」
犬は軽快に笑った。
「オイラはオイラさ。でもそういって貰えるなら鼻が高いさね」
陽気な笑い声に、オオカミは小さく呟いた。
「ばか者が……」
数少ない同胞。
仲間が居るから王だった。
『須王さん!』
仲間が呼ぶから王で在れた。
たった独りで旅をして、王とは名ばかりの。
「……誰かに声を掛けて貰わなければ、私は気付く事すら出来ない」
惨めな王だと。誰に言われずとも知っている。
それでも――――。
「もう行くのかい?」
翌朝。まだ足には痺れが残っていたが、時間がない。歩ける事を確認し、ゆっくりとオオカミは歩を進めた。犬は名残惜しそうに尻尾を振った。
「身体には気をつけなよ。もう若くないんだから」
「ほざけ」
オオカミは半分だけ振り返った。身を伏せて尻尾を揺らす犬を見て、オオカミは忠告をかけた。
「貴様こそ、人間に気を付けろ。彼らは食事以外の理由で命を狩る」
「知ってるよ」
「私の最後の仲間は、鉛で殺され、皮を剥がれた。お前がそうならない事を願うよ」
「やさしいね、旦那」
犬は身を起こした。そして尻尾を振るのを止めた。
「そんじゃあオイラは、旦那が故郷に帰れる事を祈っているよ」
大きな体、強靱な爪、強固な意志と結晶のような誇り。それが何を語っているのか、犬は本能で知る。
「あんたに会えて良かったよ。誇り高き一匹狼……」
ふっと笑って、オオカミはその山を離れた。徐々に身体が慣れていき、次第に走れるようになった。
山を駆け下りて、ふと匂いに気付いて歩を止めた。黙って振り返る。
―――――――パァ……ン!
一発の銃声が、静かに悲しく、遠く離れた犬の故郷に轟いた。