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尾巻き逃避(2)


 少年の一人はずば抜けて背の高いノッポで、あとの二人は取り立てて特徴が見当たらなかった。

 一瞬だけ垣間見えた彼らの間は、乾燥し切った空気のように張り詰めているように感じた。

 なんだか剣呑な様子が気になり、ぼくは水路の縁に前足を掛けて路上へ顔をのぞかせた。

 そこにあったのは記憶していた通りの光景で、ノッポの少年に向けて他の二人が何やら刺々しい剣幕で言い募り、ノッポの少年もただの木偶の坊のように突っ立てるだけではなくて鋭い弁舌で言い返しているようだった。

 言い争っている三人の様子をしばらく眺めていたぼくは、彼らから少し離れたとこにある電柱の脇にいる女の子を見付けた。

 この位置からじゃ後ろ姿しか見えなくて、彼女がどんな表情で彼らのことをうかがっているかは想像するしかなかった。

 白くてもこもこした上着の中央に四角い箱が背負われたその後ろ姿は、まるで暗所に咲く一輪の花のような印象で、彼らのことをひっそりと見守っているようにも思えた。

そうこうしているうちに、少年たちの方は暴発寸前にまで迫っていた。

 そしてついに一人の子がノッポの少年の胸倉に掴み掛かった。でも身長差がありすぎてその姿は子どもが大人の首にぶら下がろうとしているみたいに滑稽で、むしろ可愛らしさすらあった。

それでも当の本人たちは真剣で、胸倉を掴まれたノッポの少年はその手を振り払おうとして掴んでいる少年の肩を力強く突き飛ばした。

 爪先立ちで体勢の悪かった彼は、枝から離れた枯葉みたいに簡単に突き放されて路面へと尻もちを付く。それを見て今まで静観していたもう一人の少年が眉間にしわを作って、何か罵声のようなものを口にした。

 いよいよケンカが始まりそうなだなぁ、ってゴミ箱前の猫とカラスの対決を観戦するみたいな調子でぼくがそう思っていると、電柱の影にいた女の子が突風に吹き飛ばされた種みたいに飛び出していって、もう殴り合う寸前だった彼らの間に突如として割って入った。

 傍から見ていたぼくですら出し抜けすぎる彼女の行動にびっくりしたんだから、ケンカをおっぱじめようとしている少年たちはそれ以上に驚いたはずだ。

 飛び込んできた少女を見た少年たちは、まるで自動車が目鼻の先をかすめていったときのような驚きを顔に張り付けていた。

そして不運なことに女の子が入っていったタイミングも位置もまた悪くて、それは尻もちをついていた子が勢いよく立ち上がってノッポの少年に拳を突き上げたまさにその瞬間で、彼女が割って入った位置は彼の拳が矢のように飛んでいく延長線上だった。

 殴りかかろうとしている少年はもう拳の勢いを止めることができなくて、半ば諦めるような表情でそのまま少女の脇腹の辺りを殴りつけた。

 殴打の音は僅かなものだった。あんな毛皮みたいなふわふわした上着を着ているんだから衝撃なんてそんなにないと思った。でも少女は小さなうめき声を吐いてそのまま足元にうずくまってしまった。

 それが契機になって、少年たちの争いは冷水を浴びせかけられたかのように止まった。

 止まったはいいけど屈み込んだ少女を見下ろす少年たちはみるからに困惑していた。

 さっきまでケンカをしていた相手だったことを忘れたみたいに互い互いの顔を見やって、目先で何かを伝えようとしているみたいだった。

 やがて長身じゃない方の二人がこの責任の所在を求めるかのようにノッポの少年の非難を始めた。

 ノッポの少年に罪過を向けるため、考え得る限りの言葉を二人の少年は口にしたみたいだった。その羅列が真実なのか難癖なのか、前後関係を知らないぼくには判断の仕様がなかった。もしかしたら彼らが言う通り、長身の少年がこの諍いの元凶なのかも知れない。それがどうだってぼくには関係ないし、そろそろこの姿勢もつらくなってきたからいつも通りに戻ろうかな、なんて思っていたはずだった。

 見ていた光景のどれが切欠になったのかは分からない。

 気付けばぼくは、縁に掛けていた前足に力を籠めて後ろ足で強く地面を蹴りつけていた。

 身体がふわって浮いてすぐに前足の重みが増した。このまま何の対処もしなければ縁に乗せていた前足がずり落ちて、ぼくは背後の水路へ仰向けに倒れ込んでしまうのは目に見えていた。

 だからぼくは、後ろ足で手前の壁を蹴り上げていって重心を上へ上へと移動させていく。滑り落ちそうな身体を前足で堪えながら、もがくようにして水路の上を通るホドウへと到達した。

 そしてその気勢のままガードレールの下をくぐり抜けて彼らの元へと駆け出した。

 二人の少年はまだ口汚い罵りを続けていた。

 それはもう、そもそもの目的から逸れてしまっているようで、とにかく目前の敵を言葉で完膚なきまでに叩きのめすことのみに心血を注いでいるようにしかみえなかった。

 ぼくは、さっき女の子がやったみたいに彼らの間に飛び込んだ。そしてとにかく全力で雄叫びを上げた。

 突然すぎるぼくの登場に悪態を吐いていた二人の少年だけじゃなくて、ノッポの子も屈んでいた女の子も唖然とした顔をして怯んでいた。

 それでもぼくは叫ぶことを止めなかった。

 こうやって灰色のカーテンのなかに悠を連れ去ろうとするアイツに向けて叫ぶことができたらいいな、と何度も思いながら、でもいざその場面になったら竦んで何もできない自分自身を叱咤するように、とにかく肺から声という声を吐き出し続けた。

 声は明澄な冬空を突き抜けて街中に響いた。

 冷気でぐわんぐわんって揺れる声はまるで赤ちゃんの泣き声のようだった。

 どのくらいそうしていたのかは覚えていない。

 たぶんそんなに長い時間じゃないと思う。

 二人の少年は声に押されるようにしてじりじりと後退りしていって、ある程度の距離が取れたら背を向けて全力疾走していった。

 彼らの姿が路地の角を折れたのを見てからようやくぼくは吠えるのを止めた。

 すぐ横から安心したようなため息が小さく聞こえて、そっちを向くと屈んでいた女の子と視線がぶつかった。最初のうちは強張っていた女の子の表情は、ぼくが何もしてこないのをみて花が咲いたみたいに朗らかな笑顔になっていった。その暖かな表情があまりにも似合っていて、たぶんそれが彼女の本来の顔なんだと思った。

 その笑顔をずっと見ていたいと思っていたんだけど、女の子はふいと立ち上がってノッポの少年へ向けてしまった。


「あの、ありがとうございました。あの人たち、イジワルばかりしてきて困ってたんです」


 はにかんだ様子で女の子にそう言われたノッポの少年は気まずそうな笑みを浮かべて、二人の少年たちが走っていった路に視線をやってからぼくのことを指さした。


「俺は何もしてないよ。助けてくれたのは、このイヌだよ」


 犬とは随分と不躾な呼び方だな、と思ってちょっと腹が立った。女の子はぼくの存在を今頃思い出したかのように腰を屈めて、「ありがとね」と微笑みながら細い指で顎の下を撫でてきた。

 悠の触り方とはまた違う優しい感じで、ぼくは思わずその心地よさに目を細めてしまう。立っていた腹もすんなりと元の位置に座った。


「でも大丈夫ですか? さっきの話を聞くかぎり、あの人たちと同じ学年なんですよね? あとで仕返しされたりしないですか?」


 女の子はぼくの後頭部へと手を移動させながらノッポの少年に言った。


「うーん、されるのかなー」


 彼らからの仕返しを怖いと思わないのか、のんびりとした口調で少年が答えると、


「もしされたら、今度はあたしが助けます!」


 女の子は断言するように言い放って、鼻から勝気な息をふき出した。その興奮の度合いがぼくの耳裏を掻く指先からも伝わってきた。


「いやぁ、女の子に助けられるのは、ちょっとね……」


 そう言いながらも満更でもなさそうな顔で少年は大きく体を揺すった。

 そこで会話は何ともなしにぷつりと途切れ、少年は話の接ぎ穂を探すようにして辺りをキョロキョロと見回して、またぼくへと行き着いた。


「こいつ、野良犬かな?」


 少女はぼくの顔をまじまじと見やり、何か閃いたかのように口を開いた。


「あたし、この子が沼崎さんの家から出てくるところ、見たことありますよ」

「んじゃあ、野良じゃないのか」


 少年の呟きとともに再び沈黙が場に戻ってきた。

 その瞬間を待ちわびていたかのように女の子はぼくから手を離して、気合を入れるようにして小さく息を吸ってから言った。


「あの、名前教えてもらってもいいですか?」

「名前?」


 何を聞かれたのかよく理解していないような顔の少年を糾弾するように女の子は、「名前です!」とはきはきとした声で繰り返した。

 その勢いに少年は、路傍のブロック塀に押し込まれるように後退して、言葉を詰まらせながら答える。


「え、えっと――矢野です。矢野彰介」


 女の子は手櫛で髪の毛を整えてから、


「あたしは、近藤絵里っていいます」


 訊かれてもいないのに自分の名前を口にしてから、何か思い出しているみたいに首を捻って続けた。


「もしかして、妹っていますか?」

「え、ん。いるけど?」


 少年の返答を聞いたコンドウエリは、ススキみたいに整った眉を残念そうに下げた。


「あー、あたしたぶん、妹さんと同じクラスです」


 なぜだか消沈しているコンドウエリに対して、ヤノショウスケは妹の話題になった途端に色めき立った。


「本当ッ?! そっか、そっか! きみは瞳と同じクラスか!」


 先ほどとは打って変わって生き生きし出したヤノショウスケをみたコンドウエリは、さも不満あり気に唇を突き出して素っ気ない調子になって言う。


「はい、同じクラスですよ。でも瞳ちゃん、地味だからクラスであまり目立たなくて、友達もあんまりいないですよ」


 それを聞いたヤノショウスケは、魂を抜かれたみたいに生気を失くし、「そっかぁ」と面伏せになって数回呟いてから突然顔を上げてコンドウエリに言った。


「じゃあさ、近藤さんが瞳の友達になって上げてくれないかな?」

「え? え……はァ?」


 それが考えもしていなかった返答だったのかコンドウエリは棘の削がれた声を発する。


「うん、お願い。瞳も引っ込み思案なだけで悪い子じゃないからさ、近藤さんならきっと打ち解けると思うんだ」


 とんとん拍子に進展させていくヤノショウスケに不平がありそうなコンドウエリだったけど、それでも頼られるのが嫌じゃないのか、「そこまで言うのなら」と乗り気ではなさそうに装いながら頷いた。

 さっきまでの形勢が逆転する様がなんだか可笑しくてぼくはニタっと笑う。笑うと胸が暖かくなったけど、この場に悠がいないことが暖まった胸のなかでただ一つの冷床のようにわだかまっていた。

 ここらが引き潮だと思い、ぼくはくるっと頭としっぽの位置を変えて、そっと場を離れた。

 二本ほどデンチュウを通りすぎたところで、


「ワンちゃんありがとねっ!」


 コンドウエリの跳ねるような声が背後から聞こえた。ぼくは振り向かずに一吠えして応えた。

 足裏から伝ってくる冷感がぼくの歩みを鈍らせようと企んでいるみたいに四つの足を締め付けてくる。ぼくは負けないように地面を強く蹴りつけて前へ前へと身を乗り出すようにして進んでいく。足は自然と駆け出すような勢いで前後して、鼻先で突っ切った冬の冷気が体毛をいなしながら側面から後方へと流れていった。

 ぼくは冷気に研ぎ澄まされて一本の矢になった自分の姿を想像する。

 泣きたくなるくらい綺麗な三日月の弧から射出されたぼくは、凝縮した大気に削られて耳を劈くような音を立てる。朗々と響き渡るぼくの音は街中の生き物の鼓膜を揺らす。揺れた鼓膜は脳を振動させて、耳にした生き物が抱えている鬱屈とか怯懦とか悲しいものを体内から一掃する。

 ぼくはそんな世界を空想しながら、この嵐のように昂ぶった気持ちを秘めたまま悠の家の窓をぶち破れればいいと思った。

 少しずつ景色は見知った街並みに戻っていく。

 槍みたいな竹垣に囲まれた和風邸宅はよくお菓子をくれるお爺ちゃんの家。

 その隣はぼくの姿を見た途端、熊にでも遭遇したみたいに大声を上げるおばさんが住んでいる一軒家。

 そして、その隣が――。

 ぼくが出て行ったときのまま半開きになった門扉の隙間を抜けて、全身に乗った速度を殺さないよう庭へと駆けて行く。

 四本の脚はそれぞれが単独した生き物のように、ただしそれぞれが互いの位置を気遣うようにして滑らかに稼働した。

 こんなにも四肢が独立して動き出すような感覚は生まれて初めてだった。平静の状態だったら驚いて感動して、そこら中を駆け回ってしまうかもしれないけど、今のぼくの目線には灰色のカーテンが掛かった窓しか映っていない。

 ぼくは口の外に出てきた舌を心持ち奥へと引っ込めて、爪先に力を籠める。狙いを一点に定め、心のなかで跳躍する拍子を合わせたそのときだった。


「トオッ!」


 悠の呼び声が聞こえて、ぼくは前足で庭の土を抉るように急停止した。突発的な行動に対応しきれなかった四足には、筋肉の繊維がぶちぶちと切れるような痛みが奔った。

 体勢の崩れていた身体をおもむろに直して、ぼくは庭を見渡して悠の姿を探す。

 灰色のカーテン。

 ごつごつした家。

 色素の薄れた芝。

 生け垣。

 朽ち木――。

 ぼくは全力で駆け出して、ダンボール小屋の傍でお地蔵さんみたにしゃがみ込んでいる悠へと飛び付いた。悠は少しびっくりしながら、でも相変わらずぼくの名前を優しく呼びながら、笑みをつくった口からフウリンのような涼やかな笑い声こぼしてぼくを受け入れてくれた。

 いつだって悠は、こうやってぼくを抱き締めてくれる。何もして上げられないぼくを薄い胸板に収めて、細い二本の腕を背中に回してくれる。そんな悠にぼくができることといえば、精々、涎だらけの舌で傷付いた肌を舐めてやるくらいだ。

 細い切り傷が付いた手の甲や青い痣のある脇腹、赤く腫れた目元をぼくは丹念に舐め回す。こうやって舌を這わすだけで悠の身体から痛みを舐め取ることができればいいな、簡単に傷跡をぼくの身体に移すことができればいいな、なんてぼくは思うんだ。

 思えば思うほど、ぼくは夢中で舐めるようになっていって、ふと見上げると悠は、頬を引き攣らせて笑っているのか泣いているのか分からないような顔をしてぼくを見下ろしている。

 その曖昧な表情を見てしまうとぼくは、どうすればいいのか困ってしまって、動かしていた舌を止めて悠をじっと見つめ返す。悠はそんなぼくの頭を静かに撫でて、本当に小さな声で「トオ、ありがとう」って言う。だからぼくは安心して、「どういたしまして」って吠えて、悠の身体から陰りを取り去るためにまた舐め回し始める。

 本当に――。

 本当にこのまま時間が凍りついて、いつまでも解けずにいてくれたらいいなって、ぼくは思う。

 そしたらぼくたちはいつまでもこのまま一緒で、痛みも悲しみも心臓も止めて、ずっとずっと幸せに包まれていられるのにね。

 そんなぼくたちを覆い隠すようにして、沈みかけの日はゆっくりと暮れていった。

 眩んだ視界に映る景色は昼間の正気を失い、どれを見ても無関心な死物のようになってそこにあり続けた。

 悠の腕に一際強い力が加わったかと思ったら、それを潮にして悠はぼくから離れ、家へと帰っていった。

 その晩ぼくは、灰色のカーテンの奥でかすかに灯った光をいつまでも見つめていた。



 明くる日、アイツにしっかりと手を握られながら登校する悠に、ぼくは一段と大きく吠えかけた。

 ぼくの声を聞いた悠は、青白い顔に薄っすらと笑みを浮かべて小さく手を振って家を後にした。

 しばらくぼくは、庭に降り注ぐ太陽の下でぱたぱたとしっぽを振っていた。

 水色に澄み渡った空には雲一つない。この季節は空が灰色の雲に覆われていることが多いからこんな清々しい日は意外と珍しい。

 知らず知らずのうちにしっぽを振る速度が速くなっていた。

 体毛の先にまでうきうきとした気分が詰まっているような気がしてきて、ぼくはあることを思い付いて早速決行に移すことにした。

 閉じた門扉を押し退けて表の道路に出る。辺りを見回して人がいないことを確認してからぼくは素早く駆け出して、あの水路を目指す。

 何度か登校中の子どもに見付かりかけながら、ぼくはガードレールの下を滑るように潜り抜けて水路に降り立って、悠が通うガッコウの方角へ鼻を向ける。

 まだ日が高くないから水路はどこか湿っぽい。真上から聞こえてくるジドウシャの走行音や子どもたちの騒ぎ声に、いつも以上に警戒心を逆立てながら進んでいった。

 数が減っていったのか子どもたちの声は段々小さくなっていって警戒を解き始めていると、突然、ぼくがいる少し先のホドウから、ぬっと水路をのぞき込む人影が現れた。

 ぼくは反射的に逃げ場を求めて横の壁に身を寄せる。

 それが原因になってぼくの存在に気付いたのか、水路をのぞき込んだ影はぼくの方へと顔を向けた。

 それは、悠よりちょっとだけ年上の少年に見えた。

 取り立てて際立った外見ではなくてよくいる子どもって感じだったけど、その少年と目が合ったぼくは、体内の奥底から湧き起こってきた恐怖によって気付けば全身の体毛を逆立てていた。

 その瞳をぼくはよく知っていた。

 朽ち木に空いたうろのように空っぽで、ぼくのことを投擲の的としてしか見ていないような暗い瞳。

 アイツの顔にあるのとよく似た瞳。

 見掛けはとても平凡なのに沈鬱に湿った布のようなものをまとっているように見える少年は、深呼吸のようにゆっくりとした速度で空っぽな瞳にぼくを吸い込もうとしているみたいに、ただじっとぼくの姿を暗い瞳孔に収め続けていた。

 間にあるガードレールや高低差の存在を忘れてしまうくらいの恐怖に駆られていたぼくの胸では、今すぐ引き返せって警告するみたいに激しく心臓が唸っていた。

 ぼくは恐怖で硬直した脚を引きずるようにして後退する。そんなぼくを相変わらず少年は見つめ続けていたが、誰かに呼ばれたのかゆるゆると背後へ振り返った。

 その好機を逃さないはずはなく、ぼくは素早く身を翻して来た道を全力で駆け戻った。

 苔が付着した左右の壁が濁流のような速度で流れていく。それはぼくが、どれほどの速度で立ち向かうべきものから逃げているのかを間接的に伝えてくる。

 いつまでぼくはこうやって、立ち向かうものを前にして逃げ続けるのだろう。

 昨日はあれほどまでに気持ちが高ぶっていて何でもできそうだったのに、どうして今は見るものすべてが研ぎ澄まされた刃物のように見えてしまうのだろう。

 悔しくて、悔しくて涙が出る。

 こんなにも弱虫なぼくにもいつか、悠の手を引いて街を歩める日が来るのだろうか?

 そんな甘い空想をして、ぼくは奥歯を噛み締めた。

 分かってる。

 ぼくはもう、全部分かってるんだ。

 どんなにぼくが引き留めても、空で輝いているお日さまが山の向う側へ沈んでしまったら、悠はあのカーテンの奥へと帰ってしまうんだ。

 窓ガラスを破りさって連れ出しても、夜が来れば悠はアイツの元へと帰っていくんだ。

 灰色の壁が迫りくるようにしてぼくを水路の奥へと誘っていく。

 蹴り上げた小石が弾けるようにして壁に激突した。昨日痛めた足がきりきりと痛み出し、ぼくは速度を緩めながら呼吸を整える。

 あの苔のなかに落ちているのはなんだろう?

 ああ、あれは、羽をもがれた蛾の死骸だ。

 もう光を目指すことのできない、憐れな骸だ。

 ぼくは脚を止め、口先で苔をかき分けて死骸を口に咥える。

 どうしてやろう。

 どうしてやろう。

 どうしてやろう。

 そう考えあぐねている間に、ぼくの顎は死骸を強く噛みしだいていた。

 牙によって突き破られた蛾の体表から僅かにあふれ出た体液は、深い苦みをもって舌の上をじっとりと這い流れる。

 その味は、ぼくが大嫌いな味だった。




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