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尾巻き逃避(1)

 冬の寒さで枯れてしまった芝の上に、ぼくはべったりと伏せていた。

 顎の裏を力なく刺す芝を感じながら耳を澄ませば、センロを軋ませるデンシャの音が寒空の果てから聞こえる。近くで聞くとその音の大きさにビックリするのに、こう距離を取ってみると子守唄のようでそれほど悪いものじゃない気がしてくる。

 近すぎれば嫌になるけど、離れるとそうでもなくなる。

 人間が作り出すものは、そんなふうに不思議なものばかりだ。

 ジドウシャ。ウデドケイ。ケイタイデンワ。デンシンバシラ。ガードレール。本当に生きるためにそれらが必要なのだろうかってぼくは不思議に思う。


「でんしゃ」


 ぼくの隣に屈み込んでいた悠が呟いた。

 さっきまで無心で芝を毟っていたけど、間遠に届いてくるシャリンの音に気付いた途端、悠は至福のときみたいな表情で聴き入っていた。外気の寒さで鼻頭を赤らんで、笑みを浮かべた口から吐き出された吐息は濃霧のように真っ白だ。

 ぼくは悠が笑っているだけでとても幸せだ。

 幸せすぎてすごく苦しくなる。苦しくて泣きたくなってしまう。泣いたら悠は受け止めてくれるだろうか。ぼくの涙を悠は受け止めてくれるだろうか。

 そんなことを考えていたら目元が少しばかり霞んできてしまった。照れ臭くてぼくは前足を鼻の上に乗せて瞳を隠す。こうすれば悠は気付かない。そう思ったけど、やっぱり悠には隠しごとはできないようだ。


「トオ、トオ」


 悠は何度もぼくの名前を呼んで体を揺さぶる。ぼくは欠伸をして面倒くさそうなフリをして油断させてから、わっと起き上がって悠に伸し掛かって顔中を舐め回す。頬から鼻へ、そして唇から一気に額へと舌を移動させ、何度もその順路を往復させる。

 悠はくすぐったそうに目を細めてそれからぼくに反撃をしてくる。指をくま手のように立て、ぼくの首や耳の裏や引っ掻いてくる。引っ掻くといっても、その手付きは撫で回すっていった方がいいくらい優しいものだ。

 首や耳を触られると頭の奥の方がぼんやりとしてきて、しっぽをブンブン振りたくなる。その行動は幸せを感じている証拠だって知ったのはつい最近になってからだ。


「トオ――」


 悠の声が耳元で何度も鳴る。

 ぼくは幸せになる。

 ぼくは幸せについて考えたことがある。

 幸せは、空に浮いている雲が何かの拍子に頭のなかに浮いたみたいにモヤモヤしている。でもそのモヤモヤは、悠とお祭りへ行ったときに食べさせてもらったワタアメみたいに甘い。どこまで食べ進んでも甘い雲だ。

 それで幸せってものを上手く言い表せているか分からないけど、この気持ちが悪いものじゃないってことくらい理解できる。だからぼくもお返しに悠の頬を甘噛みしてやる。そうしてやると悠も喜んで幸せそうな顔をするからだ。

 ぼくみたいにしっぽを振ることができない悠は、代わりに口からフウリンのような笑い声を出す。それはとても不思議な声音で、目を閉じて聴き入ってしまいたくなる。

 綺麗に並んだ白い歯の列とピンク色の舌。

 そこから響いてくるフウリンの音色。

 ぼくと悠はじゃれ合いながら、まるで一つのゴムボールになったみたいに芝生の上を転げ回る。

 庭に散らばっている鉢植えの破片や放り出されているゴムホースをぼくと悠は転がりながら弾き飛ばす。転がって転がって、庭を囲んでいる生け垣にぶつかりそうになったら方向転換をしてまた転がる。時間がこのまま霜みたいに凍りついてしまえばいいと何度も願った。

 でも、ぼくと悠の時間は、デンシャが止まるときに上げる顔をしかめたくなるような甲高い声によって融解した。


「悠ッ! 汚れるからやめなさい!」


 その声は、ぼくを包んでいた甘い雲を瞬く間に彼方へと吹き飛ばしていった。

 ぼくは瞬時に動きを止めた。けど、じゃれることに夢中になっていた悠にはその声がとどいていなくて、伏せたぼくの背中に跨って無邪気に首元に抱きついて遊んでいる。


「トオ、トオ」


 頭を揺さぶられて目が回りそうになったけど、ぼくは門柱からこっちに向かってくるアイツの姿を、どんな微細な兆候も見逃さないようにしっかりと焦点に収め続けた。

 悠はまだアイツの接近に気付いていないみたいだった。

 小さく吠えてアイツがいることを報せてみたけど、何かに心を奪われているときの悠を止めることはぼくでも難しい。その間にも、アイツは肩を怒らせて距離を詰めてくる。

 ぼくは前足をピンと立てて、背中に乗った悠を庇うような姿勢を取る。振り落されまいとして悠が首に巻いていた腕に力をこめた所為で、ぼくの喉がきゅっと締め付けられた。


「悠! 早くソイツから離れなさい!」


 アイツが叫ぶ。

 首に巻き付いていた悠の腕から力が抜けたのを見計らって、ぼくはガバっと口を開いて、吠えた。

 アイツは、ぼくの口のなかに並んでいる鋭い牙の群れを見て、さすがに少し怯んだようだった。でも、ぼくの威嚇を虚勢だと知っているアイツは、すぐに剣幕を取り戻して近寄ってくる。

 悠はぼくの背中で冬眠している虫みたいに大人しくしていた。首元に巻き付いている腕から力強さはなくなったけど、その代わりに微かに震えていた。

 ぼくが悠を守って上げなきゃいけない。

 それを十分に理解しているはずなのに、ぼくは、ぼくの背中から悠を引きはがして、嫌がる腕を強引に引いていくアイツの脚に噛み付くことはおろか、鋭い威嚇の声すら発することもできずに、玄関へと連れてかれる悠にただただ小さな謝罪の一吠えを吐き出しただけだった。

 悠を家のなかまで連れて行ったアイツは、じろりとぼくを睨んでから割れんばかりの音を立てて玄関の戸を閉めた。それは、ぼくと悠の間にあるいろんなものを音波に変えたかのような隔絶とした音だった。

 びりびりと振動する空気を耳に受けながら、ぼくはしばらく聴覚に集中する。

 閉じられた扉から微かな泣き声が聞こえてきて、矢も楯も堪らず飛び出そうと前足を宙に浮かしたけど、それより先はどうやっても動かない。

 戸一枚しか隔てていないはずなのに、冷却された外気を縫って聞こえるデンシャの音の方が遥かに身近に感じた。

 石像のように宙で固まっていた前足を芝の上に戻し、ぼくは心持ち頭を下げて庭の角へとすごすごと向かった。

 雑草が伸び放題のその場所には、ぼろ屑みたいな庭木が一本あって、その根本には五枚のダンボールをガムテープで接着させただけのみすぼらしい小屋がある。

 それがぼくの住み家だ。

 庭を囲む生け垣はアイツが手入れをしないので伸び伸びと生長している。その所為で小屋の周辺は日中も日当たりが悪い。

 それに時々、心ない人間が生け垣の向こう側からモノを投げ入れてくる。その度にぼくはびっくりして、まるでここをゴミ捨て場みたいに扱っていることに腹が立つ。

 だからぼくは、注意を喚起するために生け垣の隙間から人影が見えたら低く唸るようにしている。そうすると小さな子どもは逃げていくけど、大人は気にも止めないで平然とモノを投げ捨てていってしまう。

 住み家としての環境は最悪だけど、この小屋は、ぼくがこの家にやって来たときに悠が一生懸命に建ててくれたものだからとても大切なものだ。

 ぼくは小屋のなかに入ってゆっくりと反転して腹ばいになる。さっきまでぼくと悠がじゃれ合っていた枯れ芝に弱日が落ちて黄色く輝かせている。毛羽立った芝の上には、フウリンのような悠の笑い声がまだ残り香みたいに漂っているような気がした。

 思わずぼくは折り曲げていた関節に力を入れようとして、庭の先にある窓に引かれている灰色のカーテンが僅かに揺らめいたのを見て、止めた。

 ダンボール製の小屋に比べて悠の家は岩盤みたいにどっしりしていて、とても頑丈そうだ。それは見かけ倒しじゃなくて、一昨日の雪の日だってぼくの小屋は屋根に積もった雪の重みで半壊しかけて大惨事だったのに、悠の家はビクともしなかった。

 でもぼくは、あの頑丈な家が羨ましいとはちっとも思えない。

 悠の家は、晴れの日も雨の日も平日も休日も関係なく、まるで外側からの目を気にしているかのように窓という窓に灰色のカーテンが引かれていて、外部から遮断されている。あのなかに入ったこと一度もないけど、あれじゃ昼間でも微かな光しか差し込まないはずだ。

 人間はそれでも平気で生活できるたくましい生き物なのかも知れない。でも、もしぼくがそんな薄暗い世界に放り込まれでもしたら――って想像しただけで、嫌な記憶が勝手に思い起こされてきて、ぼくは窓から目を逸らした。

 気を紛らわせるために、街中に響いている音に意識を放つ。耳にとどいてきた音はいろんな音が混ざっていて、一聞きしただけでは判別ができない。

 ぼくは鼓膜で音を紐解くように分解していき、元々の出所を突き止めていく。

 重く擦れる音はデンシャやジドウシャのシャリンが回る音。

 泡みたいに弾けているのは子どもの笑い声。

 カン、と突き抜けていったのはアキカンを蹴飛ばした音。

 眠たくなるような布団を叩く音。

 枯葉を運ぶ空風。

 散らかった落ち葉を竹ぼうきで掃く音。

 小さな溜め息。

 街中のそこかしこから鳴っているその一音一音が、この街の鼓動になっているんじゃないかってぼくは密かに思っている。

 そしてその仕組みは、ぼくの心臓でも同じで、悲しいとか寂しい嬉しいとか楽しいとか、いろんな感情がぼくの心臓を速めたり遅めたりして逐一調子を変えているんだと思う。

 怒っているときや嬉しいときは速くなって、寂しいときや眠いときは遅くなって。

 ふと、今のぼくはどんな気分なんだろうと思い立つ。

 ぼくは胸を強く地面に押し付けて、ゆっくりまぶたを下ろして聞き耳を立ててみた。

 鼓膜を揺さぶったのは、静かで、でもとても重い心音。

 それがたぶん、今のぼくの気持ちなんだ。

 そう推測を下していたら、突然、ガラス窓に激しくなにかが衝突する音がして、灰色のカーテンがひらひらと揺れた。

 その灰色の揺らめきが、ぼくの胸のなかに小さく収まっている心臓を少しずつ速めていく。

 あのカーテンの先では、一体どんな光景が広がっているのだろう?

 ぼくのちっぽけな脳みそじゃ、それは、具体的な像を結びはしない。

 でも、真っ暗で行き場のない空間に閉じ込められることの怖さをぼくはよく知っている。

 暗闇のどこへ向かっても壁にぶつかってしまって、お腹も空いてノドも渇いて、息を吐くたびに身体から力が抜けていって、息を吸っても垂れ流しになったおしっことうんちの臭いしかしなくて、叫びたくても乾いたノドの皮がくっついて声にならなくて、次第に瞬きの回数が少なくなっていく。

 そんな世界と同じものが、もしかしたらあの灰色のカーテンの奥で繰り広げられているんじゃないかって。

そんなところに悠がいるなら、今度はぼくが助けに行かないと。あの暗くて狭い地獄のような箱から取り出してくれた悠を、今度はぼくが出して上げないと――。

 ぼくはいきり立って小屋から飛び出す。

 でも。

 それだけだった。

 悠がアイツに連れ去られていく度、ぼくはいつもこうやって奮起する。だけど、小屋から勢いよく躍り出て芝生を足の裏で踏みしめたところで、身体中にみなぎっていたその意気は、まるで日を置いた風船みたいに萎んでいってぽとりと地面に落ちてしまう。

 ぼくはこの岩みたいな家のなかに入る方法を知らないし、たとえなかに入れたとしても追い出そうとしてくるアイツを突破しないと悠のもとにたどり着けない。悠のところへ行けたとしてもどうやって悠を連れ出そう。

 そうやって問題点を宙に並べて、ごつごつした壁を前に必死にそれを克服する方法を考える。

 そうしている限りぼくは立ち向かっているような気になれるけど、そうしている限りぼくはいつまでも立ち向かえない。

 押し寄せてきた虚しさから逃げるようにして、ぼくはアイツが開けっ放しにした門扉の隙間を抜けて外へ出た。

 ずっと家のなかから聞こえていた悠の泣き声が少し小さくなる。このままどこか遠くへ逃げてしまえば、もうこんな気持ちにならなくてすむ。でもそれは、悠を見捨てることだ。


「あ、犬だッ!」


 近くから突然聞こえてきた子どもの声に、ぼくは頭が真っ白になって脇目もふらず路地裏へと逃げ込んだ。

 近づいてくる足音が恐怖心をさらにあおり立て、ぼくは慌てて逃げ場を探す。

 目に付いたのはガードレール先にある用水路だった。そこまで走っていってのぞきこむと、なかは水が流れていなくて乾いていた。ぼくはガードレールをくぐり抜けて、思い切って用水路へと飛び込んだ。それと同時に路地の入口から声がした。


「あれ? いなくなった」

「ちぇっ。行こうぜ」


 残念そうな声が遠のくと、ぼくはやっと引き締めていた気をほどく。

 上に戻ろうと思って見上げると、水路は思った以上に堀が深かった。無理やり上ればどうにかなりそうだったけど、ぼくは容易に上がれる場所に行き着くまで水路を進むことにした。

 左右を挟むコンクリートの壁には苔が毛玉みたいにフサフサとくっついている。威嚇の声を上げれば緑色の毛玉はたちまち動き出しそうだ。

 そんなことを考えていたら、足元から漂ってきたカビの臭いで思わずむせ込んでしまった。

 水路の先に黒い影を見付け、徐々に近寄っていくとそれは地面を突いているカラスだった。

 カラスはぼくと目が合うと、濡れたビーダマみたいな瞳でぐりぐりとぼくの姿を観察してから、「カー」と一鳴きして飛び去っていった。

 なんだか馬鹿にされたようなきがして腹が立ったけど、ぼくはしれっとした顔で先を目指していく。

 さっきカラスが突いていた地面の個所には、なにか小さな欠片のようなものが転がっていた。近付いてみるとそれが蛾の死骸だった。体の半分をごっそりと喰いちぎられて目みたいな模様のハネも片側しか残っていない。

 これじゃとてもじゃないけど天国まで飛んでいけないな。そう思ってぼくは、せめてもの弔いにと亡骸を水路の端に寄せてやる。

 ふかふかの苔に包まれた蛾の表情は、何だか穏やかに笑っているように見えた。

 蛾に別れを告げてから、再び水路を直進していく。

 上の道をジドウシャが通過するたび、石ころを巻き込む音がして水路の地面にその影が過ぎった。

 ジドウシャの音がなくなると、今度は子どもの金切り声が多くなる。ぼくは、見つかるんじゃないかって冷や冷やしながら身を屈めて進んでいった。

 子どもたちの声はぼくの進行方向とは逆向きに流れていく。口々に交わされる会話のなかには、ぼくが知っている単語もあればまったく聞いたこともない単語もあった。耳に入ってはそのまま通過していく会話のなかで、『ガッコウ』という単語だけがぼくの耳に残った。

 ガッコウ。

 悠もそこに行っているから何度か耳にしたことがある。

 もしかして、彼らが来たこの先へ向かっていけば、ガッコウに着くのだろうか?

 ぼくの足取りは、まるで未来が開けたかのように軽くなった。でもすぐに現実を思い出して、軽くなっていた分、戻ってきた重みは何倍にも重く感じた。

 たとえガッコウに行ったとしても、そこに悠はいないのだ。悠がいるのは、あの灰色のカーテンの先なのだ。

 気落ちして、項垂れて、このままこの用水路に横たわってしまおうか、そう思った矢先のことだった。

 上のホドウから一際鋭い声がとどいてきて、驚きのあまりぼくはとっさに飛び跳ねてしまった。

 その拍子にホドウの様子がちょっとだけうかがえた。

 地面に着地したぼくは、さっき見えた景色をもう一度頭のなかに思い描く。

 T字路の中央辺りに三人の少年がいた。




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