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昔日のなき声(1)



 たとえばギラギラした夏の日差しにかがやいた川面をみたとき、うすいマブタの裏側では、ズボンのすそをたくし上げたお兄ちゃんがあらわになった長い脚を川に浸して、底にあるかもしれないめずらしい形をした石ころを求めて水中へと腕を沈めている場面がうつし出される。

 お兄ちゃんが川底をまさぐる度に水面で反射している光はマンゲキョウのように形を変え、細かなしぶきによって小さな虹が何重にも折り重なる。

 本当はそんな幻想的な景色じゃなかったはずだけど、よみがえるお兄ちゃんとの思い出には決まって星の粉を散りばめたかのような小さなかがやきが瞬いていた。

 だからこそわたしは、現状のお兄ちゃんが嫌で嫌で仕方なかった。

 川畔で膝を抱えて黙り込んでいたわたしに、太陽よりもまぶしい笑顔で、勾玉のような石ころを見せてくれたお兄ちゃんはもういなくて、いるのは、一日中部屋にこもってゲームをして、わたしが帰って来るとその日の成果を口早にひろうするやせ細った人だ。


「――瞳ちゃん?」


 名前を呼ばれたわたしは土手の下を横断する川の流れから目を外して、呼び掛けの主であるコンちゃんに向ける。となりで体育座りをしていたコンちゃんは、パッチリとした二重マブタにぐっと力を入れて、わたしのことをにらんでいた。それはコンちゃんが怒っているときの合図だったから、わたしは少しドキッとしながら「な、なに?」となるべくシゲキしないように笑って聞いた。


「あ、やっぱり瞳ちゃん聞いてなかったんだ」


 コンちゃんはつやつやした唇を突き出して不満顔で言った。


「ご、ごめんね」


 とりあえず謝っておくことが彼女を落ち着けるのに一番だって知ってるから、わたしの口は真っ先にそう返した。


「ふん。瞳ちゃんってホントに自分勝手だよね――でも、いいよ。許したげる」


 その高飛車なセリフはわたしをちょっとだけムッとさせたけど、あのつやつやの唇から出てきたんだから悪意はないんだって言いきかせて無理やりおさえこんだ。


「うん、ありがとう」


 思ってもいない言葉を平然と口にしたわたしの唇は、コンちゃんのものよりも汚いような気がして、わたしは自分の下唇に触れてみた。少しだけささくれ立っているけど、とくにおかしなところはない。手を離して唇に触れていた指先をみる。カエルのあぶら汗みたいなネバネバした液体なんてものも、もちろん付いてない。


「仕方ないからもう一回だけ話したげる」


 そう言いながらもコンちゃんは早く話したくてウズウズしているみたいで、つやつやの唇から次々に言葉を出し始めた。わたしはそのほとんどを聞き流して、コンちゃんの淡い桜色の唇にじっと熱い視線を向けていた。


「昨日の夜ね、あたしの家の隣の家でね、バタバタバターってすごい音がしたの」


 桜の花びらを貼りつけたみたいにきれいな色。たぶん、この前お母さんに買ってもらったって言ってた色つきのリップクリームを付けてるんだ。


「あたしビックリしてベッドから飛び起きちゃったんだ。そしたらすぐにお母さんが部屋に入って来たから――」


 よく見るとマブタもきらきら光ってる。くっきりした二重の上で光ってるコンちゃんのマブタは天の川みたいにきれい。ウィンクをしたら、ひゅって流れ星が飛ぶかもしれない。


「地震かな? ってきいたの。母さんは『隣の家から聞こえてきたみたい』って教えてくれて、あたしの部屋の窓から重川さんの家をのぞいたの。あ、重川さんっていうのはお隣の家のことで、あたしの部屋二階だから窓からちょうど重川さんの家のリビングがのぞけるの」


 髪形だって、わたしみたいに味気ないポニーテールじゃなくて、お人形みたいにふわふわしてて、くるくるしてる。わたしがそんな髪形にしたらきっとみんなから笑われちゃうけど、コンちゃんの髪の毛は少し茶色がかってるからかすごい似合ってる。


「わたし気になっちゃってね、もっと見てたかったんだけどお母さんがもう寝なさいっていうから仕方なく寝たの。そしたらね、今朝、重川さんの家の前にパトカーが何台も止まってて、近所の人もいっぱい集まってて――ねぇ、聞いてる?」


 着てる服だってそう。同じものを着てるとこなんて見たことないくらい、いろんなのを持ってて、そのぜんぶがすごくカワイイ。黄色いチューリップみたいなワンピース。フリルがいっぱい付いたお姫さまみたいなブラウス。イチゴのソースとホイップクリームが順番にサンドされたみたいなチェックのスカート。


「聞いてるよ」


 今日は英語がプリントされたTシャツとハーフジーンズ。コンちゃんにしては大人しめな着合わせだけど、そのかわりに赤い宝石がついたネックレスと左腕にある黒地に白ドットのシュシュがきわだって地味な印象は全然ない。


「ならいいや。それでね、わたし急いでお母さんに聞いたの、なにがあったの? って。お母さんは『事件みたいよ』って言ってた。――瞳ちゃんはどう思う?」


 唐突に意見を求められたわたしはすごく慌てて、


「うん、カワイイ」


 って心のなかで思ってたことをそのまま言ってしまった。

 わたしのあまりにもトンチンカンな答えにコンちゃんはマブタに力を入れたみたいだった。もしかしたら星でわたしを打ちぬく準備をしているかもしれない。

 そんなバカなことを考えてたら、コンちゃんのマブタの上にイナズマみたいな青い筋がぷくっと浮いた。わたしはマズいと思って、耳のなかに残っていたコンちゃんの話を必死にかき集めてやっと、「わたしも事件だと思う」って返した。


「やっぱりそうだよねっ!」


 コンちゃんのマブタからイナズマが消えて、きらきらが戻ったことにわたしはほっとする。


「それでね、あたししばらく窓から見てたの。十分くらいそうしてたかな、急に玄関が騒がしくなって警察の人が玄関から家の前に停まってる救急車までブルーシートを、こう、やって壁みたいにして広げたの」


 次ヘマをしたら今度こそ怒らせちゃうと思ったから、わたしは両手を頭の上まで掲げるポーズを取ったコンちゃんの話を真剣に聴いた。


「あたし刑事ドラマとかでそういうのみたことあるから、すぐに『あ、サツジン事件だっ!』ってピーンときてね、もう心臓がバクバクになっちゃった」


 コンちゃんはその場面を思い出したのか胸に手を当てた。

 心臓の音をたしかめているその手にある五つのツメは、オレンジ色のマニキュアがぬられていて、なんだか手全体が紅葉みたいだった。


「しばらくそのまま待ってたらね、玄関から白い布がかけられたタンカが出てきて停めてあったワゴン車に運ばれていったの。ああ、あの布の下にシタイが横たわってたんだなって思ったらね、もう背筋がゾクゾクーってしてきちゃって。ドラマが現実になったみたいで、あたしワクワクしながらもっと玄関から何か出て来るんじゃないかって思って見続けてたの……」


 ずっと早口だったコンちゃんは、思い出したくないものを思い出しちゃったみたいに言葉をにごし始めた。


「見続けてたんだ。でもなかなか変化がなくて、あたし飽きて来ちゃって、玄関からリビングの方に目を移したの。そしたらね、リビングの窓辺に重川さんの奥さんと嘉孝が立ってたの」


 ヨシタカっていう名前に聞き覚えがあって、わたしは記憶を探ってみた。ああそうだ。コンちゃんとの会話のなかにも何度か登場していた男の子の名前だ。

 とても頭が良くて物知りな子で、わたしたちとは違って私立の小学校に通ってる。たしか学年はわたしたちより一つ上。

 コンちゃんは事あるごとに、嘉孝は生意気だって言ってたけど、それはたぶんコンちゃんと気が合わなかっただけじゃないかなってわたしは思ってる。


「リビングにその二人がいるってことは、あのシタイが誰だかってくらいあたしはすぐ『推理』できたんだけど……」


 いつも気丈なコンちゃんのこんな姿をみたのは初めてだった。おっきなシェパードを飼ってる沼崎さん家の前を通るときだって眉一つ動かさないのに……。

 わたしの視線から自分がどんな様子なのかさとったのか、コンちゃんは強いまばたきを一度して少し緊張した声でつづけた。


「その二人はね、自分たちのお父さんが死んじゃったっていうのにね、なんだか嬉しそうに微笑んで寄り添ってるようにみえたんだ」

「え? 嬉しそうに?」


 コンちゃんは雪みたいに白い喉をごくりと鳴らしてうなずいた。


「なんだろう、なんだか二人とも遠足の前日みたいな感じで」


 わたしは遠足日の前夜を思い起こしてみる。布団にもぐってもぱっちりと目が覚めていていつまでも眠りに落ちないあの感じがすぐに思い出せた。


「うん、なんとなく分かる」


 相槌ばかりで気の利いたことが言えないわたしに、コンちゃんはケイベツするような目をむけた。わたしは気まずくなってコンちゃんから川へと顔をむけた。すると横顔にコンちゃんの視線をばしばし感じた。

 土手から見下ろせる河川敷の波打ち際にはアシがたくさん生えていて、川上から吹いてきた風でしゃらしゃらと音を立てるのがここまで聞こえてきた。川の流れは穏やかだけど岸にぶつかる瞬間だけは犬みたいに凶暴になって河川敷にかみついた。そのときに上がったしぶきはラメみたいにきらきらしてて、音を鳴らすアシに雨みたいに降りかかる。葉っぱに落ちた水滴は太陽の光を反射してかがやいて、味気のなかったアシがとてもすてきな植物に思えてくる。

 そうみえてしまうのも、あの植物がアシって名前だとお兄ちゃんがおしえてくれたからなのかもしれない。

 わたしは、お兄ちゃんからいろいろ教えられた。

 それは勉強の役にも立たないことばかりで、一生しらなくてもいいようなことなのかもしれないけど、人見知りで友達の少なかったわたしとってはかけがいのないことばかりで、いまでも胸のなかに大切にしまわれている。

 変なかたちをした石ころがよくある場所。街中を見下ろせる木のありか。その木を上るときのコツ。つつじの花のミツの吸いかた。逆上がりのやりかた。なわとびの飛びかた。セミの捕まえかた。

 そのぜんぶの記憶に光の粉がふりかかっていて、目をつむればタンスから洋服を取るように簡単に思い出せる。

 実際に目を閉じかけると、「あたし、もう帰るね」と横にいるコンちゃんが立ち上がる気配がした。

 わたしは何か言わなくちゃってあせったけど、コンちゃんはそのまま土手の上の遊歩道をモデルさんみたに腰をくねくねさせながら歩いていってしまった。

 コンちゃんの後姿をわたしは言葉もなく見送る。土手を下りて住宅地の方へと消えていってから、ようやくわたしは立ち上がってジーンズのお尻についた草を手ではらう。土が湿っていたのかちょっとだけ濡れていた。それが気持ち悪かったけどガマンして、わたしは遊歩道をコンちゃんとは反対方向へと歩き始めた。

 向こう岸までかかっている川橋のずっと奥に都市のビル群がマボロシみたいにかすんでみえる。この川はちょうどそのビルのほうから流れて来るから、なんだか都心部からはき出された汚水がこの街まで流れてきてるような気になる。

 わたしは一度だけお母さんに連れられて新宿にいったことがあるけど、道の端から端まで人がいっぱいいてすごく歩きづらかった印象しかなくて、わたしには合わないなって思った。でもコンちゃんならあの人ごみもすいすい歩いて行っちゃうんだろうなって気がした。

 向かってくる川の流れを何気なく見つめながら、どうしてコンちゃんがわたしみたいな地味なやつに関わってくるのか考えてみることにした。

 コンちゃんは、いっつもにこにこしてるから友達もいっぱいいて、オシャレだから男の子にも人気がある。それも同学年の男の子たちだけじゃなくて、上級生の人たちからもだ。勉強もけっこうできるから先生たちの評判もいい。

 わたしとの接点なんて同じクラスってことくらい。いつも教室の隅でぼんやりしてる地味なわたしが、コンちゃんみたいな目立つ子と関わることは一生ないんだろうなって思っていた。

 でも今年の冬、わたしがまだ四年生だったとき、いつものように教室でぽけっとしていたら突然コンちゃんが話しかけてきて、なんだかよく分からないけど二人で帰ることになった。それからも、どうしてかわたしは、コンちゃんと一緒にいることが多くなった。

 休み時間は外の景色を眺める時間じゃなくてコンちゃんと話をする時間になった。休み時間のたびにコンちゃんと話していると、前までコンちゃんと仲の良かった子がうらめしそうにこっちを見てて、わたしは申しわけなくなって、いつもうつむきながら話をしてた。

 コンちゃんとの関係は、学年が上がった今でも変わらなかった。

 少しホッとしてるけど、やっぱりコンちゃんの考えが分からないから不安にもなる。

 わたしは話すのが苦手だから、だいたい聞き役になる。コンちゃんはいつも楽しそうにしてるけど、たまにすごくつまらなそうな顔になる。そして一番困るのが、コンちゃんが突然無言になるときだ。

 そんなときわたしはどうすればいいのか分からなくて、あの雲のかたちが何々に似てるとか、ほんとうにどうでもいい話題を持ち出して場をつなぐ。わたしの話の種なんて、お兄ちゃんと遊んだときのことくらいしかない。でもそれをそのまま話してお兄ちゃんっこだと思われてしまうのが少しはずかしくて、話すときはだいたい遠まわしな言い方になる。だから話はどうしてもアイマイになって、自分でもなにをしゃべってるのか分からなくなる。

 そんなわたしの話をコンちゃんは黙って聞いてくれるけど、そのときのコンちゃんは、わたしになにかを聞きたそうな目をしている。

 歩いていた道は川からはなれるようにして大きく左にそれていく。わたしは正面に向きなおって葉桜の並木がつくる下闇の道へと入る。額に浮いた小さい汗をハンカチでぬぐう。ちょうど向かい風が吹いてきて気持ちよかった。

 コンちゃんのことは嫌いってわけじゃない。きれいだし話すことも面白い。ときどきワガママでイジワルなことを言うけど、それはコンちゃんの個性だと思ってなれちゃえばそれほど気にはならない。

 でも、どうしてその相手にわたしが選ばれたのかが分からなくて、それが原因になって壁をつくってしまって心から彼女との交友を楽しめないでいる。それがとてもモドカシイ。自分からきいてみるのが一番いいかもって思うこともあるけど、その理由が目立たないわたしに同情してとか、罰ゲームで嫌々わたしと仲良くしてるとかだったら嫌だから、なかなか聞けずにいる。

 ちょっと歩きつかれたこともあって自然とため息がもれた。ため息をしても思った以上に胸の重さがとれなくて、つづけて二回ため息をはいた。

 それでも胸のもやもやが取れなくて、わたしは足元に転がっていた小石を思いっきり蹴った。石ころは海面を滑空するトビウオみたいに地面のすれすれを飛んで、落下したあとも勢いのまま二メートルくらい転がっていった。そして正面から歩いて来た人の靴にぶつかってようやく止まった。

顔を上げたわたしはその人のことをみて足を止めてしまった。目がチカチカするような金髪の人。わたしは、今学校で広まってるある噂を思い出して、「しまった」って心のなかでつぶやいた。

 金髪の人は靴にぶつかって止まった石に見下ろしてから、みるからに不機嫌そうな顔でわたしをにらんだ。


「す、すみません」


 とっさに謝ってみたものけどノドがうまく動かなくて、後半はほとんどなにをいっているのか分からない感じになってしまった。

 ヘビににらまれたカエルみたいになったわたしに、金髪の人は小さく舌打ちをして通りすぎていった。それでわたしの緊張がとけてストンと肩が落ちた。

 わたしは歩きだしながらそっと背後を振り返る。金髪の人は並木道の日陰から日が差したアスファルトの道へ移るところで、こめかみの辺りに手をやって斜めから射してくる太陽の光を防いでた。

 着ているシャツに太陽の光が降りそそいで、その人の周辺の空気がさっと薄まったかのように淡くなった。それが何だかとても哀しい後ろ姿にみえて、思わずお兄ちゃんと重ねてしまった。

 お兄ちゃんが学校に行かなくなってから、だいたい半年になる。

 たしか最初は、風邪を引いたから今日は学校に行きたくないって言って欠席した。でもそれが次の日も、その次の日も、そのその次の日もナメクジの汁みたいにずるずると一週間つづいた。お父さんとお母さんは、お兄ちゃんが重大な病気にかかっていて心配かけないよう必死にそれを隠してるんじゃないかって心配してなんども病院に行くことをすすめたけど、お兄ちゃんは「ダイジョウブ、ダイジョウブ」って笑いながら自室にこもりつづけた。

 わたしもすごく心配した。だって、あの誰よりも明るくて笑顔の似合うお兄ちゃんが突然家から一歩も出なくなるなんて思いもしなかったから。

 そしてそれは、お兄ちゃんが学校にいかなくなって二週間が経ったときのことだった。

 休み時間中にトイレへいったその帰り道。話しながら廊下を歩いていた上級生の人たちの口からお兄ちゃんの名前が突然出た。わたしはハンカチでふいていた手を止めて、その人たちの会話に耳をすませた。

 簡単に内容を説明してしまうと、お兄ちゃんはその人たちからいじめられていた。

 こういうとき、妹としてふつうはどういう反応をしめしたらいいんだろう。

 先生や両親にこの事実を報告する?

 その人たちの背後から殴りかかる?

 家に帰ってお兄ちゃんをはげます?

 わたしの対応はそのすべてに当てはまらなかった。

 わたしは、お兄ちゃんがいじめられたから登校拒否になっているっていう真実を誰にも話さなかった。

 そうしたのは、お兄ちゃんがいじめられているのを知られてしまうのが恥ずかしいからじゃなくて、わたしは誰よりも頼りにしていたお兄ちゃんが、いじめられたくらいで簡単に学校にいかなくなってしまったことにゲンメツしていたからだった。

 いじめくらいって言っちゃったけど、決していじめを軽くみているわけじゃない。もしかしたらわたしが想像もつかないくらいヒドいことを、お兄ちゃんはあの人たちからされていたのかもしれない。

 でも、どんなにヒドいことをされても、お兄ちゃんなら絶対に負けないってわたしは信じたかったんだと思う。それが裏切られたから、わたしはお兄ちゃんにゲンメツしてしまったんだと思う。

 だからその日の夕方、笑顔でゲームの進行具合を話すお兄ちゃんにわたしは言ってしまった。「お兄ちゃん、みそこなった」って。

 たぶんその一言だけで、わたしがお兄ちゃんの学校に行かない理由をしってしまったんだってことを、お兄ちゃんは気づいたと思う。読みすぎてべろべろになったゲームの攻略本をそっと閉じて、ぎこちなく笑って、「ごめん、瞳」って言って、自分の部屋に帰っていった。

 その部屋に引き返していく姿がさっき出会った金髪の人の後ろ姿と似てて、つい重ねちゃったんだと思う。

 葉桜の並木はとても涼しくて、ずっとこのままここにいたかった。

 こうしていれば、なにも進まないしなにも変わらない。そんな気になったけど、わたしがここで歩くのを止めたとしても地球は太陽の周りをずっと回ってて、明日になれば学校に行かなくちゃいけないし、家に帰ればお兄ちゃんは部屋に引きこもってる。

 はぁ、とまたため息。子どもの世界もいろいろと大変だって子どもながらに思う。

 なにを考えてるのか分からない友達のこと。ひきこもった兄への感情。宿題。宿題。エトセトラ。考えてるとまたため息。その繰り返し。

 だけど、いつまでもこうしてもいられない。宿題だってある。だから家に帰ろう。

 そう自分に言いきかせて、わたしは一歩一歩足をふみ出す。この一歩をつづけていればわたしもいつか大人になる。大人になるのは、楽しみだけど、それと同じくらいこわい。

 今はまだお父さんとお母さんとかいろんな大人の人に守ってもらってるけど、自分がその大人になったらそうもいかなくなって、怒られても誰もかばってくれないし、自分で考えて行動して、その行動にも責任を持たなくちゃいけなくなる。

 それが、こわい。

 誰もわたしを守ってくれなくなることが、こわい。

 将来のことを考えて歩くのが遅くなったわたしを後押しするかのように、木陰からセミが小さく鳴いた。

 夏本番にはまだ少し早くて、せっかちなのか早とちりなのか分からないけど、マヌケなやつだと思った。でも、あのセミが必死に鳴いていることをバカにはしちゃいけないと思った。

 あのセミもむかしは、やわらかくてあたたかい土に包まれたはずだ。でも今は、幼虫から成虫になって、守っていてくれていた土からはい出て木にへばり付いて、独りでがんばって鳴いてる。自分の声で鳴いてるんだ。

 セミは、幼虫からサナギにならずに成虫になる。だから中間地点みたいなものは存在しなくて、それは人が子どもから大人になるのとよく似てる。そう教えてくれたのもお兄ちゃんだ。

 葉桜のすきまからこぼれた太陽の光がきらきらと輝いて、たくさんのシャンデリアが木の葉の天井にぶら下がってるみたいだった。セミの声を聞きながらそれをみていると、夏休みになると毎日のようにお兄ちゃんと学校の裏山へセミを探しにいったことを思い出す。

 お兄ちゃんの肩には駄菓子屋さんで買った黄緑色の虫カゴ。右手には長い虫捕りアミ。空いている左手でわたしの手をしっかりと握ってくれていた。

 山に入ると右から左から聞こえてくるセミの声。うるさくてつい耳をふさぎたくなっちゃう。ビーチサンダルで土を踏むときのぶよぶよとした感触。背後から近寄ってきた虫捕りアミに驚いたセミが、大声で鳴きながらオシッコを飛ばして空へ逃げていく。そのセミのオシッコが顔にかかって泣きそになっているわたしを、お兄ちゃんは笑いながらハンカチでふいてくれた。

 捕まえられてカゴのなかに入れられたセミたちは、夕方くらいになるとギィギィって息もたえだえな感じで鳴いていた。それがちょっとかわいそうな気がした。

 よみがえった記憶のどれもがとても大事な思い出なのに、今のお兄ちゃんと比べてしまって、どうしても思い出すのがつらくなる。

 葉桜並木の途中から左に曲がって住宅地へ入る。日陰から出るすぐに太陽がわたしを見つけて焼けるような日差しを落としてきた。黒光りしたアスファルトの反射がまぶしくて目を細める。とまれの標示が薄くなって地面に張りついてる。空を分ける線みたいに黒い電線が何本もはしってる。あわてん坊のセミの声は住宅やブロック塀が壁になってもう聞こえない。

 セミ捕りのことを思い出してからなのか、わたしの足は家に帰る道から少しずつそれていって、住宅地の中心にある駄菓子屋の方向へ向かっていた。

 そのことに気づいたときには、もうわたしは駄菓子屋のある通りを歩いていた。

 ここまで来たら引き返すのもなんだったから、少しのぞいてみようってくらいの軽い気持ちで駄菓子屋の前を通りすぎることにした。

 換気のために薄い木戸は全開になってる。そこから目が痛くなるほどカラフルなお菓子の包装が自分勝手に並んでいる店内がみえた。お菓子だけじゃなくて銀鉄砲やプラスチックのコマ、縄跳び、虫かごと虫アミの採集セットとかがあって、もうなにメインで売りたいのかわからないくらいゴチャゴチャしてる。入り口脇にあるおっきなアイスボックスをのぞくと、まだ夏本番じゃないのにアイスがぎっしり詰められていた。

 久しぶりに寄ったものだから、なつかしさでつい店頭で足を止めてしまった。それがいけなかった。


「まいどありー」


 昔から変わらない店主のおじさんのやる気のない声が聞こえて、あ、誰かお客さんいたんだ、と思って色とりどりの店内に目をこらした。カウンターのほうから背の高い誰かがこちらへ向かって来ているのには分かったけど、暗い店内のせいでそれが誰なのか気付くのが遅れた。


「あれ? 瞳?」


 お兄ちゃんだった。




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