折り畳み式ワールドエンド(3)
そもそもの僕の目的は妄想の現実化だった。
だから呼んだ子が集まり世界の終わらせ方を話した時点で妄想の現実化は完遂したといえ、すべて計画したのが僕だと今更知られたところで痛手ではいないはずだった。そう分かっていても、最後の最後に重川嘉孝に見破られて妄想を円満に遂行できなかったことが、何よりも気に食わなかった。
結局僕は、妄想を実現化させるためと言いながら、ただ寂しいからあんなことをしたんじゃないかって年月を経て思うようになった。
夕景に沈む家路を一人たどりながら、重川嘉孝に訊きそびれてしまったことを思い出していた。重川嘉孝にとって、あの会合は切欠になりえたのかだろうか? 自分の世界を終わらせるための切欠に。
元々の色が分からなくなるほど夕日に焼かれた郵便ポストがひっそりと街角に佇んでいる。スーパーの袋を振り回すようにして急ぎ足で帰宅する主婦。もう何年も通っていない駄菓子屋の店主がガラガラと音を立てて店のシャッターを下ろす。
夜へと向かう街並みはどこか性急だ。その移ろいの速度は、今日あった数々の出来事からすぐさま逃げだしたいようにも、夜の静寂を待ち切れずに駆け出しているようにも見える。
街並みに合わせて僕の歩みもやや速くなる。急ぐとちょっとだけ景色が冷たくなる。
もし今日の出来事が切欠になったのなら、重川嘉孝は本当に父親を殺すだろうか?
排気ガスで汚れたガードレールに沿って歩きながら、僕はその光景を想像する。
本がいっぱいある部屋だといっていた。舞台は図書室のように天井近くまで背を伸ばした本棚の群れにしよう。そのなかから一際厚い一冊を引き抜いた重川嘉孝が棚の影から父親の様子をうかがう。父親は机に向かって何やら熱心に書き物をしている。物音で察知されないよう足音を殺して背後から忍び寄る。父親は手元に集中していて接近にはまったく気付いていない。重川嘉孝は意を決し、分厚い辞書をその後頭部へと叩き付けた。打撃音は地層のように堆積した紙束によって吸収されて響かない。殴打の果てに残ったのは、机上にうつ伏せになった父親。念のためもう一度書籍を叩き付ける。内出血で青く腫れあがった後頭部。仕上げは書籍による埋葬。部屋一面本の海。
その光景を想像して僕は興奮する。もし重川嘉孝が本当に実行したのなら、その引き金を引いたのは間違いなく僕で、僕がいなければ彼は今も父親に対する業火の思いを燃やし続けていたのだ。
眠る前の束の間の一時。僕は藍色の空に誘われるようにして枕から頭を上げ、カーテンの隙間から夜空をうかがった。
東京の夜空には星はない。あるのは食べこぼしのような星屑だけ。
少しでも小さな星をよく見ようとして窓を開け放つ。網戸の目を生温い夜風と本場に備えて喉を慣らすセミの声が抜ける。僕は瞬きをするが星は瞬かない。人目を避けるようにして小さな光を夜に散らせている。
僕が大人になる頃には、あの淡い星はさらに夜に薄まってしまうのだろう。
そうでもないよ、と僕は静かにまぶたを開けて窓の先の夜空を見つめる。星は弱弱しくもまだ夜空で輝いている。
先に輝きを止めるのは、どうやら僕のようだ。
そんなことを知らない当時の僕は、戸を閉めて再び枕へ頭を沈める。でも病的な星明りに毒された意識は眉根に集まるようにしてとどまって、脳の底へ一向に落ちる気配がない。
波状の光子が波を打つまぶたのなかで僕は思った。
もし、重川嘉孝が父親を殺すことができたとしたら、僕もできるだろうか。
毎朝胃を締め上げる痛みをぶち壊すことができるだろうか。
放課後とともに訪れる苦しみを消すことができるだろうか。
幾日も通りすぎてきた僕には分かっている。そんなことできはしない。僕はそのまま流されながら今夜に漂着する。
それでもそのときの僕はすがるような思いで信じていた。
浅い眠りの繰り返しから覚めた僕がしたことは、朝刊に目を通すことだった。テーブルの端に置かれた新聞を手に取って該当する死亡記事がないか探す。
活字を追っているうちに目が覚めてきてと、仮に事件が起きていたとしてもすぐに朝刊には載らないだろうと思い至り、新聞を元合った場所に返してニュースを映すテレビへと向かった。
真っ先に事件が報道されるとしたら新聞ではなくニュースだろうと思ったのだが、十分ほど眺めていてもそれらしいものは流れない。白髪頭のコメンテーターが昨今の政治について視聴者が白けてしまうほど熱くコメントしていた。
諦めがつかなかった僕は、今日は日直だと母に嘘を吐いていつもより早く家を発つ。
早朝の空気は日中の暑さを予感させるものだった。薄ピンク色のウェアに身を包んでランニングをする中年のおばさんや、飼い犬の散歩をするおじいさんに交じって僕も街中を闊歩する。目的はもちろん重川嘉孝の家を探すためだ。
住宅地を歩きながら昨夕の会話を思い出す。駅の周辺に重川嘉孝の家があると言っていたのは覚えていたので、手始めにここから十分ほどの場所にある駅へと向うことにした。
僕は平坦なアスファルトの舗装路を行く。脇にある三の字に並んだ団地の棟に黄色い朝日が斜めに掛かっている。その所為で壁面にある雨の汚れが照らし出され、老朽具合が浮き彫りにされていた。
そのうちの一棟からやつれたサラリーマンが駆け足で道路へと出てきて駅の方面へと向かっていく。彼に続くようにして、街のどこかからスーツ姿の会社員が現れて僕の隣を足早に抜けていった。
団地を過ぎると小さな栗の木林が出現する。誰が世話をしているのかは知らないが、木々は健康的な葉を青々と茂らせていた。その向こう側から眠気を覚ますような電車の音が響いてきた。唐突な轟音に栗の木は身を竦ませるようにして左右に傾げ、生臭い独特の香りがむわっと辺りに拡がった。その臭いが苦手な僕はむせ返り、歩く速度を速めた。
駅に近づいてくると少しずつ道には人影が増えてくる。ほとんどがサラリーマンか制服を着た学生で小学生の姿はまだない。駅に着いてからのどの方向を捜索しようか考えていると、数メートル先のT字路に立っているカーブミラーの鏡面を赤い輝きが滑るようにして通過したのが目に入った。
僕は一度ミラーを見上げて、それから鏡に映しだされている方面へと顔を向けた。
一戸建てが並んだ道路にパトカーが止まっていた。そのランプがミラーに映っていたようだ。何かあったのだろうか? そう思う前に、僕の足は意図せずにそちらへと歩んでいた。
接近するにつれて周辺の様子がはっきりしてくる。パトカーは全部で二台、救急車も一台停まっている。それら車両のすべてはある一軒家の前に密集していた。
登校中の学生や寝間着姿の野次馬が遠目に様子を見守っているなかを抜け、パトカーのすぐ横で足を止める。車中の無線で会話をしていた警察官が僕を一瞥したが注意はされなかった。家中の様子はブルーシートで巧みに覆われていてよく見えなかった。
赤いランプが顔の前を何度も往復し、その度に赤い稲光が瞳を通過して眩しかった。僕は深呼吸をしてから家の表札を確認する。
「旦那さんが亡くなったみたいよ」
「え、あの大学で教授をしている?」
「嘉孝くん、来年中学受験なのに大変よね」
離れた場所にいる野次馬が会話に花を咲かせている声が耳に届いた。僕は今にも震え出しそうな身体を懸命に堪えながらその場から歩き去った。
本当に、やったんだ。
薄闇の公園で父親の殺し方を淡々と話した重川嘉孝が脳裏によみがえる。記憶があまりにも鮮明すぎて、それが昨日のことだと思えなかった。
重川嘉孝の行動へ移る迅速さに僕は驚く。それは、塾を辞めたいという一言すら発することのできない僕には決してない決断力と行動力だった。
僕にはないものを持った同い年の彼に少なからず衝撃を受けながらも、学校へ向かう足取りは支柱のように確固としていた。重川嘉孝の行動の切欠をつくったのが僕であるということが優越感として足先まで伝わり、密かなる自信となって胸に留まっていた。
その思いを味わうようにして学校へとたどり着いたが、登校にはまだ早い時間帯で生徒の数は疎らだった。朝の静けさを満たした校舎を進み、自分の教室へと入る。
クラスメイトは誰一人としていなく、このクラスで僕が最初の登校者となった。
たったそれだけのことで僕は嬉しくなって、踊るようにして机の間を通り自席に着席した。
僕しかいない教室。たとえば今ここで狂態を演じようとも誰にも知られることはない。それを思うとまだ朝食を消化し終えていない胃袋の裏側から黒い何かが姿を現し、それを自覚した瞬間、ここにある机や椅子をすべてひっくり返して窓ガラスを叩き割り、教卓を黒板へと放り投げたい衝動が一息に皮膚の裏までやって来た。
やろう。
彼にもできたんだから、僕にもできる。
そう思って席を立ちかけると、折が悪いことに生徒が教室へと入って来た。
「あれ? 金田くん今日は早いね」
「なんだか、早起きしちゃってさ」
心中でそいつの頬を思いっきり殴りつける妄想をしながら、上げかけた腰を椅子に戻してそう返した。自分から訊ねてきたくせにその生徒は興味なさげに「へぇ、そうなんだ」と、自席に座るついでとばかりに口にしてそのまま会話を途切れさせた。
僕はすることがないので鞄から国語の教科書を取り出して開く。大好きな宮沢賢治の詩を読んでもその苛立ちが消えず、自然と舌打ちがこぼれた。でも、舌を打つだけじゃ憤りの累積はなくならない。膨張する腹立ちは行き場を失くし、机の下にある脚を小刻みに震えさせた。
生徒たちが続々と登校してきて、教室や廊下を埋めていく。もう完全に機を失ってしまったことに消沈していたが、その裏に息を殺すようにして隠れている安堵を見付けて唇を軽く噛む。生徒が現れて邪魔されたことにイラつきながら、僕は心のどこかで体の良い言い訳が現れたことにほっとしていたのだ。
仮にあの生徒が現れなかったとしても、動くのが億劫であるだとか、向かいの校舎からカラスがこちらを見ているだとか、そんな言い訳を見つけ出して結局何も行動をしなかったのだろう。
唇に鋭い痛みが奔る。唾液に少しだけ鉄の味が混じった。それよりも重川嘉孝のように決断し行動することができない自分が悔しかった。
僕自身の引き金を引くには、まだ力が足りないのだ。
漠然とした思いであったが、それ故に明々白々としていた。
ならどうして、さっき一人で教室にいたときにはあれほどまで気が満ちていたのだろう。あれは、人目がないというだけの理由じゃなかったはずだ。
記憶を探るまでもなく、僕を高めていたそれを発見することは夜空から月を見付けるよりも簡単なことだった。
世界を終わらせるために行動をした重川嘉孝。その切欠をつくったのが僕だという自信。それだけじゃない。同い年の彼の行動が僕でも自分を縛る物事に反抗することができるのだと何よりも勇気づけてくれた。
でも僕にはまだ足りない。足りないものは補充するしかない。
そう思った僕は、席を立って隣の教室へと向かった。
あのときの思考の中心を今の僕が説明するならば、周りが動けば自分も動き出せるという他人依存な考えだった。
重川嘉孝が世界を終わらせるために行動したことを他のものに知らせれば、他の彼らも動かざるを得なくなり、皆が動き出せばそれが勇気となって自分も行動できる。
生徒たちがたむろする廊下を行きながら、ふと思った。
僕が起こしたい行動ってなんだろう?
僕が抗いたいものって何だろう?
それをよく考えずに僕は癇癪のように現れる衝動に自分を任せていた。もっとよく考えていれば、自分の行動原理が本当に些細なものであったことに気付けただろう。
僕は塾を辞めたいと、中学受験などしたくないと、切欠や後押しがないとそんな言葉すら両親に伝えることができないほどの臆病者だった。
それは今も変わらない。浪人をしてまで名のある大学になんて入りたくない。もっと身の丈に合った場所を目指せばよかった。自分の進路なのだから自分で決めればいいのに、僕はいつでも両親の顔色をうかがいながら、したくもない高望みをしていた。
先の途絶えた軌条に立っている僕は後方にいる自分に叫ぶ。
今ならまだ引き返せるよ! 進んでいる軌条から横に踏み出して、先が見えなくて怖いかもしれないけど、襲いかかる困難は辛いかもしれないけど、示された場所でなく指針のない場所を進んだ方がいいよ!
未来から届いてきたその声は僕にはとどかなかった。友人のいる教室で森村和樹に聞こえるようにわざと声を張って言う。
「ニュースだよ、ニュース!」
森村和樹は、朝っぱらから馬鹿みたいな声を上げえて事件を伝えている人物が昨日の会合にいた僕だと気付いただろうか?
気付いたとして彼は何を思ったのだろう。さすがに他人の心中まで正確に計ることはできないけど、彼のなかでは焦燥と逡巡が渦巻いたはずだ。重川嘉孝の行動を知ったときの僕がそうだったから。
学校が終わると僕は矢野彰介の家に向かった。
「あら、また来てくれたの」
玄関先に立った彼の母親は、僕の来訪を率直に喜んでいた。僕は挨拶を早々に切り上げて、本人に直接伝える必要の用事があると口にする。息子とよく似た痩せた体型の母親は僕の言葉を疑うこともしないで、二階から矢野彰介を呼んできた。
来訪者が僕であることを知った矢野彰介はその驚きようを器用に顔で示した。そして僕が浮かべている神妙な表情から悟ったようだった。
母親の目を気にしたのだろう、「歩いて話そう」そう言ってよれよれの靴を突っかけて外へと出てきた。
「教授が父親を殺したって」
家から十メートルほど歩いたところで僕がそう伝えると、矢野彰介は細い腕の先にある拳をにわかに握り締めた。
「本当か?」
実際のところ僕だって現場を目にしたわけじゃないから、真実であるかなんて分からない。今朝のパトカーはもっと別の理由であそこに停まっていたのかも知れないし、あの家は別の重川さんの住宅の可能性だってある。それでも、前日に浮かべていた重川嘉孝の表情が、そのときの言葉の端々から感じられた覚悟の現れが、あそこで起きたことが僕の想像と相違ないと克明に伝えくる。
「うん」
僕が短く返答すると、矢野彰介がぼんやりとした声で言った。
「それがあいつなりの世界の終わらせ方だったのかな」
父親を殺すこと。
それで重川嘉孝の世界は終わる。
僕たちは沈鬱な気持ちを抱えたまま歩き続けた。道を直進して角を何度か折れる。まるで僕たちが歩いている道を避けているかのように誰ともすれ違うことはなく、空から響いてくる竿竹屋の声だけが、たしかに僕たちが人のいる街中を歩いていることを教えてくれた。
温度はまだ日中の暑さを保っていて、歩いているだけで脇腹にじんわりと汗が吹き出してきた。肌に張り付いたシャツを不快に思っていると、通りの向こうに懐かしい駄菓子屋が少しずつ軒を見せ始めた。
その前を通りかかると、何かを思い出したかのように矢野彰介は足を止め、軒先にぶら下げられた虫捕り網や縄跳びを懐かしそうに手に取った。
それからしばらくの間、矢野彰介はなかなか動き出そうとしなかった。僕がこのままここで別れを告げようと思ったときだった。
矢野彰介は虫捕り網の隣でぶら下がっていた黄緑色の虫かごに触れながら言った。
「俺さ、ずっと自分ならどんなことにも耐えられると思ってたんだ」
それは僕に話し掛けているものではなかった。まるで虫かごのなかにいる視認できない昆虫に心中を吐露しているかのように生気を欠いた話し声だった。
「でもそれは勘違いだったんだな。一度折れたらもう立ち直れなかった」
彼は苦笑いをして虫かごから手を放す。梁から紐でぶら下げられたプラスチック製のかごは心許なげに宙で揺れた。その寂しげな往復は次第に小さくなり、最後には空中でぴたりと停止した。
「また戻れるかな、俺」
彼が戻りたがっている場所は、学校じゃないような気がした。それは浮世にあるところではなく、もっと別の、ずっと大切にしている過去のような気がした。
「そのために、世界を終わらせるんじゃないの?」
その言葉が適しているのかどうか分からずに僕は言った。
「そうなのかなぁ」
矢野彰介は独り言のように呟き、今度は僕に向けて言葉を放った。
「俺、ちょっとここ寄ってくよ。君は……引き金はどうする?」
「……僕は帰るよ」
「そっか。じゃあ、ここでお別れだね」
頷いて道を行こうとした僕の背に矢野彰介の小さな声がとどいた。僕はその言葉から逃げるようにして角を曲がった。あのとき彼は、「じゃあね」と言っていた。
これからどうしようか考える。沼崎悠のことも気になったが、僕は彼の住所を知らなかったので家に帰る道しか僕には残っていなかった。
そう思って爪先を自宅の方角へと向けた。
すると、住宅を越えた一つ先の通りから犬の吠える鋭い声が聞こえ、先の通りを右から左へと犬が駆けて行った。
あれは街を徘徊している噂の犬だろうか? なにか咥えていたようだけどなんだろう?
続いてその犬を追いかけるようにして見覚えのある金髪の少年が走って行ったとき、知らず知らずのうちに僕も走り出していた。
彼らが抜けていった角を折れる。金髪を振り乱しながら疾駆している森村和樹の後ろ姿が三本先の電柱のところに見えた。
見失わないよう、僕も急いで彼を追い掛けた。
走りながら考えた。どうして森村和樹はあの犬を追っているのだろう? それが彼の世界を終わらせることと関係があるのだろうか? 疑問は次々に浮いてきたが、頭に回すための血液はすべて腕と脚に回していたので解答らしいものは出てこなかった。
二つ目の四つ辻を左に折れたとき、今日一日の疲れが突然膝に訪れた。このまま地面に座ってしまいたくなるような気分だったが、弱音は全部汗となって流れていった。僕は先行する森村和樹を無心で追いかけた。
もう何度目かの角を曲がったとき、追いかけていた森村和樹の姿が煙のように唐突に消えた。驚きながら周囲を見回していると、路の端で息苦しそうに喘いでいる人がいた。
その人の横顔が学校の友人であると分かり、僕は思わず「あっ」と声を上げてしまった。
声に反応した友人が顔を上げるのと同時に、僕は住宅の間の路地へと飛び込んだ。
僕はすぐに、ついこの間まで友人たちとしていた探偵ごっこのことを思い出した。
そうか。まだ性懲りもなく森村和樹の尾行をしていたのか。そっと顔をのぞかせてもう一人、尾行ごっこに参加していた友人の姿を探してみたが、辺りにそれらしい人影はなかった。
ずっと脱力していた友人は何かを察知したのか、正面の家へと覚束ない足取りで歩んで行った。
ジャングルのように無造作な生け垣に沿って進んでいった友人を見送り、僕は休憩がてら、しばらくこの場で様子をうかがうことにした。
動きがあるまで五分も待たなかった。
真っ青な顔で友人が引き返してきて、そのまま全速力で街中へと消えていった。
青ざめた友人の顔は、あの奥で何かが起きたことを明確に示していた。
僕は彼が進んだ生け垣に沿った道をそのままたどる。足場が一段高くなったところを上がると、生け垣の上から家の敷地がのぞけるようになった。
そこは日当たりが悪く湿気っぽい裏庭で、案山子のように突っ立っていた森村和樹の存在も景色の一部として巧みに隠していた。
そのため、森村和樹の姿を発見するのにしばらく時間が必要だった。
遅れて彼を発見した僕は、何をしているのか声を掛けようとも思った。が、その様子がどこかおかしいことに気付いて止めた。
金髪の下ある彼の顔は、この世のとも思えないほど蒼白だった。
地鳴りのような呻き声がし、僕は身体を傾けてさらに裏庭をのぞく。
そこにはあの街中を駆け回っていた犬がいた。犬は僕の存在に気付いているようで、牙を剥き出して警戒の唸りを上げていた。四本足に囲まれた地面には穴が空いているようであったが、そこを守るようにして跨っている犬によってよく見えなかった。
森村和樹は未だ僕の存在に気付かないで何事かぶつぶつと呟いていたが、やがて酔っぱらいのような足取りでその場を離れて家の表の方へと回っていった。
僕は先回りするため、来た道を急いで取って返す。
門扉の辺りで待ち構えていると、庭先の角から森村和樹が現れ、茫々と茂った庭芝に足を取られながら真っ直ぐこちらへと向かってきた。
彼は、家の前で待っていた僕を視界に入れると、背中を刃物で刺されたかのような驚きを示した。
「ここ、勝手に入っていいの?」
僕が訊ねると森村和樹はてんで違う返答をした。
「俺、あいつの世界はもう終わってるなって言ったじゃん」
あの会合の日に彼が口走っていた科白だということはすぐに分かった。でも何故、そのことを今話す必要があるのか分からなかった僕は曖昧な声で返事をした。
僕の困惑した心中を気にも止めずに森村直志は、
「あながち間違いじゃなかったんだなってさ、思った」
そう囁き、僕の横を通り抜けて敷地の外へと出て行った。
相変わらず言葉の真意が汲めない僕は、回答を求めて辺りを見回す。
好き放題に生長している庭の植物。辺りには割れた鉢植えや干上がったミミズのようなゴムホースなどのガラクタのようなものが散らかっている。家屋の窓には、昼間だというのに灰色のカーテンが掛かっており、その効果もあってか、この家は人の住んでいない廃屋のように思えた。
無遠慮にも人様の家にそんな感想を抱いていたそのとき、僕は、曇天のように窓を覆っていたカーテンの隙間から、血走った目の女が顔をのぞかせていることに気付いた。
いつから見られていたのかは分からなかった。
僕の胸では、心臓が見えない手に鷲掴みにされたかのようにぎこちなく伸び縮みしていたが、やがて落ち着いて状況を考えてみると、僕たちが勝手に敷地内に入っているのだから睨んでくるのは当たり前だと思った。
僕は怒られる前に敷地から駆け出る。生け垣に遮られた先から充血した女の視線をまだ感じながら、先に出て行った森村和樹の姿を探した。
彼は電柱の横で俯いて立っていた。近付くと顔を上げ、ぎこちなく笑ってから口を開いた。
「ってか、お前。同じ学校だったんだな」
「う、うん」
森村和樹は再び顔を伏せてしまい、気が重くなるような無言が続いた。やがて彼は浅い呼吸を繰り返し、足元で砕けていたアスファルトの凹凸を靴の爪先で蹴り飛ばして言った。
「あの偉そうにしてた眼鏡の奴が、自分の父親を殺したってのは本当なのか?」
うん、と僕は頷いた。
「今朝、彼の家まで行って直接見てきた」
言ってから口を滑らせてしまったことに気付いた。設定ではこのことを朝に出会った塾の友だちから聞いたことになっていたのだ。しかし僕の懸念を森村和樹は詰まらなそうな相槌で流して喋り出した。
「よく分かんねんだけど、父親を殺すってのがあいつなりの世界の終わらせ方だったのか? あいつにとっての世界ってのは父親のことなのか?」
「それは……」
父親を殺すための切欠が欲しかった。重川嘉孝の言葉を思い出す。彼にとって世界は父親のことだったのだろうか?
「分からないよ」
「だよな。――ま、子どもにとって親ってのは一つの世界ではあるよな。親が正しいと言えば、それが間違いでも子どもは正解だと思っちまう」
森村和樹のその科白は、未だに僕の記憶に鮮明だ。
親が正しいと言えば、それはすべて正解になる。
その理論が通用するのは、精々、小学生くらいまでだろう。
「これから、どうするの?」
「俺はあいつみてぇな度胸ねぇからなー。……ま、好きにするわ」
「好きに?」
「自由に生きるってこと」
はにかむように笑い、森村和樹は電柱から離れて歩いていった。僕は徐々に距離が広がっていく彼の背に向けて何も言葉を放つことができなかった。たぶん、森村和樹はこれから自分の世界を終わらせるために何か行動を起こすのだ。
彼だけじゃない。
矢野彰介も、あの様子ならきっと行動するはずだ。
僕は……。
手のなかが汗ばんでいた。
喉の奥が引っ付いて上手く唾を呑み込めない。
視線が反復横跳びをしているみたいに左右する。
背後からけたたましい車のクラクションが鳴らされた。驚きながら振り向くと、僕が邪魔になって自動車が通行できないようで、僕は慌てて道の端に避けた。排気ガスを吐き出して走り去って行った車と交差するようにして、鳥影が地面を横切っていった。一瞬のうちに通過していった影に触発されて、僕は忘れていたあることを思い出した。
今日は月に一度ある塾の定期テストの日だ。
もし休んだら結果の通知が白紙になってしまう。
そしたら親にズル休みをしていたことを知られてしまう。
頭を過ぎった言い分に夢中になってしがみ付いた。
まだ間に合うだろうか? たぶん、大丈夫。遅れたとしても、体調が悪かったって言えば居残りで受けられなかった分のテストをやらせてくれるはずだ。
僕は急いで駅前の塾へと駆けて行く。とにかく急がなきゃ。アスファルトを強く蹴って走る。急がなきゃ。急がなきゃ。急がなきゃ。そうやって夢中で走っているうちは何もかも忘れられた。
駅へと到着し、呼吸を荒げながら塾が入っている雑居ビルまで向かう。狭い路地には自転車がごちゃごちゃになって停まっている。このほとんどが塾に通っている子の持ち物だ。
ビルの前で息を整える。塾がある三階に顔を上げると、塾の青い看板が太陽の光を反射して白く光っていた。
こんなことしてる場合じゃない! 早くテスト受けに行かないと!
顔を戻してビルの入り口に駆け足で向かう。そのとき、看板に反射していた陽光が目を掠め、僕は眩しくてまぶたを閉じた。
次にこの瞳を開いたとき、何かの偶然で僕の性格が見違えるように変化していないかな?
そんな期待をこめ、薄く目を開くと足先の感覚がもうなかった。
寒かった。
あたま、痛い。
眠い。
軽い。
あ、月がきれい。
終末の蜘蛛糸のように伸びきった意識。
途切れるその瞬間、まぶたの裏に淡い光が映った。
僕は春の目覚めのようにまぶたを持ち上げる。
星座も描けないほどの微かな星空。
僕は最期に淡い星の光を取り入れようとして、目一杯まぶたを持ち上げる。
けれどまぶたは痙攣して、少しも上がらなかった。
そんな僕を憐れんで、夜空に爛れた星はなけなしの光を振り絞り、点滴のような明かりを瞳に落としてくれた。
ああ、ありがとう。
それだけでもう十分だよ。
僕は静かにまぶたを畳む。
丁寧に、ひたすら丁寧に。
僕は、世界を折り畳んでいく。
これとは別の連載を今週末から投稿する予定です。そちらもよろしくお願いします。
感想、意見、アドバイス等ありましたら是非お願いします。




