折り畳み式ワールドエンド(1)
有体な家庭だった。
公務員で朝早くに家を出て夕方に帰宅する父。晩酌は決まってビールで、怒るどころか滅多に喋ることがなかった。母は大体家にいたが、近所のスーパーマーケットへ週に三日ほどパートに出ていて、寡黙で温厚な父との帳尻を合わせるかのように何かと口うるさかったが、暴力を振うなどの度を越えるようなことはなかった。
今振り返ってみてもごく有り触れた家庭だったと思う。家に帰れば当然のようにご飯があって、休日は示し合せたかのように行楽に出かけ、夜更かしをしていると怒られ、そして、当たり前のように子どもに期待する。
自分の子どもを持ったことがない僕には分からないのだけれど、親というものは自分の子が周囲にいる子よりもどこか勝っているように思えるものなのかも知れない。たとえそれが見つからない愚鈍な子だとしても、我が子であるだけでその凡俗さは愛らしさへと昇華されてしまうのかも知れない。
僕は取り立てて勉強ができるわけでもなかったのだが、一人っ子であったため親の期待を一身に背負ってしまい小学校五年生の頃から塾へと通わされていた。それも難関校への進学を目指す進学塾に、だ。
影すらも薄める昼光色の電灯に照らし出された室内で同年代の子がペンを走らせている光景は、畝から芽を出した植物たちが大成を目指してひたむきに陽光を集めているようでもあった。僕もその芽の一つとして懸命に光を吸収していたのかというと、決してそうじゃなかった。
日々、進展する授業の速度に僕はついていけてなかった。
早口な講師が次々とホワイトボードを切り換え、授業の終わりには気が滅入るような宿題を出される。それが五教科分。通っていたのは週に三日で、塾のある日は朝から気が重かった。風邪でもないのに頭が痛くなったし、歩いていると眩暈がした。塾の教室で笑っている生徒たちが何で笑えているのか理解できなかった。入り立ての頃がもっとも気塞さで苦痛だった。塾で勉強したことが脳みそからあふれ出して、肺や胃に不純物として溜まっていっているようだった。その不純物は僕を終始苛立たせ、それをどうすればいいのかも分からずに、僕は通い続けていた。
端的に結末を述べると僕は中学受験に失敗した。
といっても、第一志望の学校に落ちて第二志望に合格したから、失敗というよりは妥協の方がしっくりくるかもしれない。
呼び方はどうであれ、僕が両親の期待に応えられなかったことには間違いはなかった。僕はそう思ったけど、両親はそう思わなかった。人生に失敗はつきものだと、失敗のない人生に成功はないのだと、志望校に落ちたその日、両親は甘い口調で落ち込む僕を励ました。
実際のところそうなのだろう。人はどこかで挫けておかないと危機感がなくなってしまう。成功の味しか知らないものは、この世のすべてのものが美徳に満ちた風味しかないのだと勘違いしてしまう。どこかで苦みを味合わなければ、時としてこの世に潜んでいる辛辣で不条理な出来事を警戒しなくなり、突如として出くわす不意打ちを諸に食らい、それが致命傷となって二度と立ち上がることができなくなってしまう。
苦い失敗はしておいた方がいい。それも早いうちに。
両親はそれを僕に伝えたかったのだろうけど、それなら現状の僕はどうだろう。
T大に入るために二浪もしている僕は、中学受験の失敗から何も学べていないということにはならないだろうか?
自分でそう思って胸が重くなったが、そんなこと死んでしまう僕にはもう関係ないのだ。安心した途端、急激な眠気がまぶたを襲い意識が飛び飛びになる。僕はその度に一瞬の夢を何度も見る。内容は今まで僕が歩んで来た人生の断片。でもそのほとんどが味気のないもので、順序も脈絡もなく浮き出しては、あぶくのようにすぐさま消えていった。
僕はまた目覚め、脱力して椅子の背もたれに体重を預ける。先ほど電灯を落としたので部屋は暗い。正面の窓ガラスから染み入った月明かりが淡く光りながら机上へと降りかかり、雲の通過と合わせて水面のように揺れている。机の端に置かれた時計からは気忙しい秒針の音。それが風になびいた波の音に聞こえなくもない。
この日のためにリサイクル店を駆け回って買ってきた中古の石油ヒーターから癖のある臭気を含んだ熱風が吐き出され、部屋を巡回している。そのにおいはどこか懐かしさを伴って鼻を抜け肺へと落下していく。僕はその香りに陶然とし、机上にできた月光の泉へと手を浸す。月の光が手の甲の静脈を青く浮き上がらせ、苗木のような産毛に養分を与えて細かに光らせた。
窓辺から見える夜空には冬の寒さに凍えた星々が力なく光の輪を広げている。それぞれが干渉を拒んでいるかのように光は薄弱として夜闇へと滲み、そこから零れた白々しい星明りが地上へと落下する。
僕は夜空から焦点を変え、常闇が隈なく覆った窓へと向ける。
黒い窓に映るにやけた顔。でも瞳はちっとも笑ってない。白面に穿たれた二つの瞳は白夜に浮いた黒点のように落ち窪み、窓ガラスを境界にして僕を見つめている。空気が混入しないように窓の隙間をガムテープで厚く目張りしたので、なんだか額縁に収められた自画像を見ているような気分だ。
僕は僕と見つめあったまま深呼吸をする。重い空気が肺の底へと落ち込んで、鉛が血管を流れているかのような怠さが肩や腕はおろか指先にまで感じた。
胸が重い。まるで鉄の箱が詰められたかのようだ。
そう、胸のなかの鉄の箱。
僕はあの日からずっと、そのなかで暮らしていた。
重川嘉孝。同じ塾に通っている特進クラスの生徒。
矢野彰介。同じクラスながら未だ登校していない不登校児。
沼崎悠。学校に併設されている特別学級の生徒。
森村和樹。この前、転校生してきた金髪の生徒。
彼らをこの公園に集めたのは僕だった。
『世界の終わらせ方を一緒に考えませんか?』
そんな文面とともに日時と場所を記した便箋を彼らの手に渡るように僕は、この五日間、学校と塾の合間を縫って方々を駆け回っていた。
重川嘉孝へは、彼が塾の休憩時間に用を足しに行っている隙を衝いて彼の鞄へとさり気なく忍ばせた。矢野彰介へは、学校のプリントと称して直接彼の家を訪ねて彼の母親に手渡した。沼崎悠は本来この場所にいない。彼は僕のミスによってこの場へとやって来た。森村和樹の下駄箱に便箋を仕込んだとき、予備のものを僕はどこかに落としてしまった。彼がそれを拾ったのだ。
僕がどうしてこんなことをしたのか。その理由は文面通りではなくて、もっと単純な理由によって引き起こされたものだ。
何もかも吐き出したかった。
それだけだ。
はっとして目を覚ます。
僕はまた記憶の断片を見ていた。
その断片は他のものと違ってしつこく意識にへばり付いている。断片の鋭利な角によって裂傷を作り出された意識から、当時の状況や感情が次々とあふれ出してきて脳内を占有していく。その発露を止める余力はもう僕には残されていない。
塾に通い続けて一年が経ち、六年生になった僕はまだ塾の空気に馴染むことができていなかった。毎回出される宿題。月に一度の実力テスト。とにかく威勢の良い講師。来年の受験に備えて一日増えた塾の日。僕は受験なんてしたくなかったし、今すぐにでも塾を辞めたかった。それでも両親の期待を裏切るようなことはしたくなかった。
違う、そんな綺麗な理由じゃない。
僕は両親に塾を辞めたいと言って叱られるのが嫌だった。
六年生になり、ずっとクラスが同じで仲の良かった友人たちとクラスが別々になってしまったことで僕の気鬱は増長した。自分でもまさかそんなことで憂鬱に苛まれるとは思いもしていなかった。自分のクラスに喋る人がいなかったということでもないのだけど、朝のホームルームが終わり自然と友人たちのいる隣の教室へと向かう自分に気が付いて、自分がどれほど彼らに依存していたのかを知ってしまった。知ってしまうとますます自分の教室に居づらくなった。
毎日、休み時間の毎にやって来る僕を友人たちが気に掛けていることは言外の態度から分かっていた。が、その友人たちの同情的な眼差しが彼らとの間に隔たりを感じさせる原因になった。それが悔しかった。そしてそれ以上に、事あるごとに彼らの元を訪ねてしまう自分自身が情けなかった。
平日の塾は夕方五時から八時の三時間。新たに追加された日曜日は、午前十時から夜の七時までだった。
休日だというのに室内に箱詰めにされて勉強をする。何のための休日なのかよく分からなくなった。でも塾に通う子たちは悠々とそれをこなしている。そんな場所にいると休日は休むものだと思い込んでいた僕の方が異常なんじゃないかって気がしてきた。
学校にも塾にも馴染めない僕が、心のよりどころを渇望するようになったのは当然の帰結だった。そしてそのよりどころというのも、結局は自分のなかにしか見つけられなかった。
僕は鬱憤のやり場をノートの余白に求めた。
欄外のそのスペースに僕は、頭のなかで展開する妄想を教師や塾講師の目を盗んで書き殴った。学校の授業中の教室に武装したテロリストが突然現れて、逃げ出す生徒たちを次々に打ち殺していく子供にありがちな想像。塾では自分が授業中に拳銃を取り出して教師の頭をぶち抜いてホワイトボードを赤く濡らす妄想。
頭中で繰り広げられる妄想では常に僕は優位な立場にいて、散弾の雨のなかでただ一人生き残っていたし、塾講師を銃殺しても警察に掴まることはなかった。
授業が終わると、ノートは講義の内容をそっちのけにして空想であふれ返っていて、就寝前にもう一度そのノートを開いて読み直すのが僕の日課になっていた。
刺激を追い求めるようにして僕の妄想は日増しに残酷に凄惨になっていったが、それを外へ漏らすようなヘマはしなかったはずだ。前よりも意識して笑うように努めて、まったく面白い内容でなくても微笑むように心掛けていた。
あれこれ悩んでいた頃よりも精神の状態は遥かに安定していたけれど、僕の心のどこかではノートの余白以外の場所に鬱屈の発露を熱望していて、それは紛れもなく外へと向けられていた。家で宿題をやっているときに無意識にカッターナイフで消しゴムを切り刻んでいたり、誰も見ていない路地で野良猫に石を投げつけたり。とにかく僕は、体中に充満しているスモッグのようなヘドロのようなものを、何らかの形で外界に解き放ちたい衝動を堪えていた。
金髪の彼が転校してきたのはそんなタイミングのときだった。
星空で小さく瞬く金色の星が最初に目に飛び込んだ。
金髪の森村和樹の登場が僕に与えた影響はどれほどのものだったのだろう。当時は衝撃的だったような気がしたけど、今になってはあの小星のように些細なもののように思える。
休み時間の度に隣の教室へと足を運ぶ僕のことを笑う奴がいた。一昔前のマンガに出てくるガキ大将のような奴だ。いつでも取り巻きを引き連れているそいつに笑われるのはとても心外で、子分を引き連れているお前も同じじゃないか、と叫びたかったがそれはできなかった。
そいつが四月の始業式が過ぎても空席のままの机を指差しながら、「ここの席のやつ生意気だったから、少しシメてやったら不登校になっちまった」と新しい子分に自慢げに言っているのを耳に挟んでしまったからだ。僕は彼らに目を付けられるよう、なるべく大人しくして関わり合いを避けていた。
金色の小星から遥か右方にある星の一帯が格子のように夜空に掛かっている。
矢野彰介が学校に来ない理由はときどき耳にしたが、本当にそれが真実であったのか僕は知らない。
それは休日の昼時だった。僕は朝から授業を受けていた席で、母から受け取った弁当を食べていた。そのなかに入っていた狐色の唐揚げを真っ先に箸で摘まみ口へと運ぶ。一噛みすると、熱々の肉汁が口内に散った。鋭敏な口内には火傷してしまいそうなほどの温度だけど、肉の旨味や胡椒の香りがその感覚すら美味しさへと変えてくれる。
大切に味わうようにして咀嚼しながら、ふいと教室の一角に目をやった。そこには塾の定期テストでいつも上位にいる、僕と同い年の子がいて、彼も昼食を取っていた。
背に隠れて断定することはできなかったが、彼が食べていたのはコンビニで買ってきたらしい唐揚げ弁当のようだった。
塾で食事をする子の大半は、彼のようにコンビニで買ってきた弁当やパンを取るのが多いようで、僕のように弁当持参の子の方が少なかった。だから僕は、唐揚げ弁当を食べる彼を見てもこれといって何も思わずに、そのまま何ともなしに彼の後ろ姿を眺めながら食事を続けていた。
僕より先に食べ終えた彼は、机に置いた空の容器に向かって綺麗に両手を合わせた。コンビニ弁当に対してもそこまで礼節を重んじるのか、と僕は多少驚いたのだが、それから彼が行った動作がさらに僕を仰天させた。
彼は、拝んだ弁当の容器を横の椅子に置かれた鞄へと仕舞おうとしたのである。
コンビニ弁当の容器を持ちかえろうとする突飛な行動に、僕は思わず声を上げてしまった。蚊が鳴くほどの小さな声であったと思ったが彼は僕の驚きの声に反応して動きを止めた。上体を動かさず首だけで背後を振り返る。僕はとっさに弁当箱へと顔を向け、食事に勤しんでいるように振る舞った。
静止した星空のなかを飛行機が赤く明滅しながら通過していった。
重川嘉孝について僕はそれほどのことを知らない。だからこそ僕は、牢獄のように感じる塾のなかで独歩する彼をどこか憧憬の対象として見ていた。
「おい、あれ」
友人が声を潜めて廊下の先へ目線を送った。僕はその後を追って廊下に目をやると、そこには母親に連れられて職員室横の教室に入る生徒がいた。
「あの子かわいそうだね」
僕はよく考えもせずに流されるままに頷いた。
月の暈に融け込むようにしてぽっつりと浮いた星が一つ。
沼崎悠のことは校内でも何度か見かけたことがあったから、公園に呼んでいない彼が現れたとき最初は混乱したものの、昨日の便箋の喪失などからすぐに彼がここに来た経緯を想像することができた。
それよりそのときは、彼が文字を理解することができることに驚いた気がする。それは蔑みや卑下ではなく、特別学級に通う彼の知能は自分たちよりも劣ったものだと僕たちは疑いもせずに認識していたのであった。
『世界の終わらせ方を一緒に考えませんか?』
それはいつもの妄想の最中にたまたま思い付いた文面だった。
僕は自室の机の前で、メモ用紙に書いたその文字の羅列へ満足げに視線を流す。文字に起こすことでその文章は、僕自身が思い付いたことではなく誰かから言われた言葉のようだった。
一度目をつむり改めて目を通した僕の頭のなかで新たなイメージが湧いた。それは、いつもの拳銃で教師の頭を撃つような非現実的なものとは違い、現実味のあるもののように思えた。
これなら――この妄想なら実現できるだろうか?
椅子の背もたれに背中を預けて僕は考える。
謎の手紙に書かれた意味深な文章。それを受け取ったものたちが一堂に集う……。ゲームやマンガで使い古された設定の単純な改変に過ぎないのだが、僕は踊り出した鼓動を止められそうになかった。
世界の終わらせ方なんて大それたことを掲げているけど、真剣にそんなことを話し合うなんて、テロリストじゃあるまいし馬鹿らしすぎる。これはただ、妄想を現実化するための大義名分にすぎない。
妄想の現実化――そうだ。
僕は、体中に溜まっているヘドロのような感情をどうにかして排出したいんだ。でもいつもしている凄惨な妄想はとてもじゃないけど実現できない。だから少しでもできそうなこの妄想を代替として実行することで、少しでもこの気鬱を晴らしたいんだ。
机の天板に置かれたメモ用紙へと視線を落とす。そこには先ほど僕が書いた文字が実現を訴えかけるようにして並んでいる。
実際にやってみるとしても、問題はどんな人を集めるかということだ。少なくとも、この文章に共感してくれるような子じゃないとまず興味も示さないだろう。こんな紙切れ丸めて捨てられてしまって終わりだ。
背もたれに体重を乗せてのけ反るようにして天井を眺める。僕はどんな思いでこの文章を生み出したのだろう? 天井を見つめる僕の瞳には、今までしてきた数々の妄想が奔る。そのなかでもっとも多かった光景は血みどろになった塾の教室だった。
僕は、塾が嫌で仕方がなくてあんな妄想ばかりしていた。
僕と同じような気持ちを抱えている子。自分の現状を恨んでいて、それをどうにかしたいと思っている子なら、この文章に興味を引かれるだろうか?
僕がまず思い浮かべたのは、虐められているという不登校児の矢野彰介。彼なら共感してくれるだろうか?
次に浮かんだのは、重川嘉孝だった。
彼が自分の現状を不満に思っているかは定かではないが、コンビニ弁当の容器を鞄に仕舞おうとした彼の奇妙な行動がどうしても頭の隅に引っ掛かっていた。
あふれ出してくる記憶が次第に統一性を持ち始めたような気がして、あの頃に抱いていた想いが次々に胸を満たしていく。そして、苦しかった想い、懐かしい想いが交ぜに胸に充満して、吐き気となって喉元まで駆け上がってくる。
このまま嘔吐物で喉を詰まらせて窒息してもよかった。しかし、その思いに反して僕の意識はまだ生きることを望んでいるようだった。
腹筋と喉に力を入れて顎を引く。すると沸騰水のように熱いゲロが舌の上を滑り落ち、膝にボトボトと落下していった。
鼻の奥がツンとした。口内には夕ご飯に食べた唐揚げの残骸を感じ、舌には苦みが付着している。僕は再び窓の先の星空を見上げる。ああ綺麗だなって、この星を見るためだけにまだ生きていてもいいかなって少しだけ思う。でも今更引き返す気はない。星空だけを楽しみに生きていけるほど、僕はもう澄んではいない。けれどもう少し、せめてこの胸のなかの想いをすべて吐き出すまでの間、生きようとしている意識に身を委ね、よみがえる記憶を眺めていようと思った。
いつも通り、休み時間に友人の教室に行ったらやけに騒がしく、理由を質してみたら髪の毛を金髪に染めた転校生がやって来たということだった。
金髪から僕が連想したものは、狂気だった。
短絡的な思考ではあったけれど、何よりも妄想のなかで何度も登場していたテロリストの髪色と同色であることが、金髪と狂気を固く結びつけた。
その日の塾での妄想には、まだ見ぬ金髪の転校生を登場させた。
子どもを洗脳しようとしている進学塾の一室に、突如として金髪の少年が飛び込んでくる。彼を手引きしたのはあらかじめ内部に潜入していた僕だ。
金髪の彼は即座に塾講師の頭を弾丸でぶち抜き、僕に黒い拳銃を投げて渡す。僕の愛銃でもあるコルト・パイソンだ。それを宙で華麗にキャッチした僕は、ざわめいた教室を静めるために重い撃鉄を起こして引き金に指をかける。生徒たちの息を呑む音が鼓膜にべっとりと張り付いた。みんなが僕の挙動に注目している。蛇のように鋭い目付きで室内を見渡していると、金髪の彼が入って来た扉とは別のところから剽軽な顔をした塾講師が入って来る。僕は慣れた手つきで眉間に照準を合わせて、その講師が叫び声を上げる暇もなく引き金を引いた。
ベッドでそれを読み返すと僕の胸はまた激しく脈動した。まるで本当に体験した事実を思い返しているかのようだった。体中の神経が皮膚から剥き出しになったかのように敏感になっていて、シーツの肌触りは体表を滴る血液の滑らかさだった。僕の興奮は夜中の三時を過ぎても収まることを知らず、目は夜空に咲く月のように冴え冴えとしていた。それから僕が眠りに落ちることはなかった。
翌日、堂島先生に怒られたというのに金髪の彼は髪を直さずに登校してきたと、滋田直志から聞かされた。その大人に反抗的な彼の態度は、僕を興奮で震え上がらせた。
僕にとって転校生の彼は、親や教師、塾講師といった大人たちへの反抗の象徴として祭り上げられたが、友人が続けた言葉に一抹の不安を拭えなかった。
「堂島のやつ、森村のことを見た瞬間に鬼のような形相で、森村を職員室に連れて行ってたぜ。あれには俺もちょっとビビったわ」
職員室へ連行されてしまったらもう終わりだ。あそこは大人のテリトリー。いくら彼でも一方的にやられてしまう。そんなふうにして、象徴として輝きを発していた彼の幻想はすぐに砕けていった。
「あれ、森村じゃねぇの?」
滋田直志がそう言い、校庭の隅を指さしたので僕は窓辺によって見下ろした。
「うおっ、髪真っ黒じゃん」
もう一人の友人、島山明弘は嬉しそうにそう言ったけど、僕は彼が大人の力に屈服してしまったことに暗澹としていた。それが何だか悔しかった。だから僕は嘘を吐いた。
「もう聞いた? 森村くんって、前の学校で飼ってたウサギをぜんぶ殺したって話」
これも何回か妄想した――学校で飼われていたウサギを夜中のうちに学校へ忍び込んで惨殺し、切り取った耳を釘で校門に張り付ける――うちの一つだった。
さすがに突飛過ぎただろうか、友人たちは僕の発言に目を丸くして驚いていた。嘘と見抜かれることを恐れた僕は、「あくまでも噂だよ」と付け加えて友人たちの様子をうかがった。島山明弘は信じ切っていたようだが、滋田直志はまだ怪訝そうな顔をしていた。焦った僕がもっと何か言い添えようとすると、僕が発源となった噂を周囲にいた他の生徒たちが早くも話題にしていた。その勢いに友人も押されて納得してくれることを願ったが、
「もしそんな事件を本当に起こしているんならよ、テレビで問い立たされるだろうし、何より転校だけで済ますようなことはしないんじゃねえの? 更正させるためにどっかの施設に入れるとか――なんか処置がされるはずだろ」
その理路整然とした言葉に僕はどきりとした。いつもはふざけたことしかしないこの友人がこんな聡明さを隠し持っていたなんて、と一種の裏切りにあったかのような心情に駆られた。
そしてそれ以上に僕は怯えていた。
もし、この身も蓋もない噂を作り出した張本人が僕であると友人が何らかの形で感づいてしまった場合、友人たちは僕をどんなふうに思うのだろう? 笑い話で済ませてくれればいいのだが、万が一、軽蔑されるような事態になってしまったら、僕は塾やクラスだけでなく、学校のどこにも居場所がなくなってしまうかもしれないのだ。
軽はずみな自分の発言を僕は呪った。クラスだけならともかく、学校でも一人ぼっちになってしまうようなことだけは惨めに思えて回避したかった。だから何としても、噂の源が僕であることを知られないように振る舞わなくてはならなくなった。
出来ることならすぐに生徒たちの記憶から消え、忘れ去られることを願ったのに、噂は湖に大石を放り投げて生まれた波紋のように素早く、一日で学校中に広まってしまい、僕の心労となった。
その日の塾中は、どうしてもそれが気掛かりになって講義はもちろん妄想にも身が入らなかった。
次の日、僕は友人から二つのことを聞かされた。
一つ目は、金髪の転校生――森村和樹の髪色が金色に戻っていて、何故かそのことに担任の堂島先生が触れなかったこと。この理由は、放課後になって友人から真実を聞かされたのですぐに解決した。
そして続けて友人が口にした二つ目に僕は動揺した。友人は森村和樹のウサギ殺しの噂の真相を調べてみようというのであった。
昨日の杞憂が現実のものとなりかけていることに僕は焦った。もし、嘘を吐いたことがバレたら、僕は学校での居場所もなくなる。僕は友人の発案を渋り、どうにかして中止にしたかった。そんな僕の心中を知らず、友人はどうにかして僕を納得させたいらしく、それらしい言い分を並べ立てた。
友人の物言いを聞いているうちに、彼は本当に噂の真相を知りたいのではなく、ただ尾行という行為をして探偵ごっこがしたいだけなのが分かった。
僕は迷った。噂の作り手が自分であることが知られないようにするには、なるべく渦中から引き離した方がいい。でも、あまりにも頑なに拒み続けていたら逆に怪しまれるのではないか。そう思って結局僕は、友人の発案に乗ることにした。それによくよく考えれば、尾行から噂の発源者へと繋がることもないだろうと思った。




