あの世山、始まり
「な、なんで?」
目の前の黒髪の女の子。
セミロングの髪、黒い双眸。泣きボクロも加えその顔立ちから何まで、見覚えがあった。
「眞里?」
思わず、その名を呼んでいた。
その女の子は、私が知っている女性に似ていた。
幼馴染で、私が片思いしている女性に。
名前を椎名眞里という、その女性に。
しかし、その容貌は違う。
今の彼女は、私と同じ大学生、つまり少なく見積もっても18歳以上であるということ。
だが、目の前の、眞里に似ている女の子の姿はどう見ても、小学生低学年ぐらいにしか見えない。服装は、昔の小さい子が着そうな、白いブラウスに赤いスカート。それだけ。
そこから察するに、眞里の小学生時代の姿に酷似しているということ。
「あははは、お兄ちゃん。何、驚いてるの?」
にっこりと、可愛い笑顔で笑う。その笑い声はついさっきまでこの山に不気味に聞こえて
いた笑い声と同じだった。
急な温度変化のためか、体が震えた。
(夢でも見ているのか)
ここまで似ている人間がいるとは思えない。よく自分と同じ容姿の人間は二人以上はいるといわれている。だが、それすら私は信じていない。そんな事があるわけがない。
落ち着くために、深呼吸を一回。
「どこから来たの? 名前は?」
迷子だ。
心の中でそう願う。
分かっている、迷子では無い事ぐらい。この山に立ち入る、おかしな人はいない。
この山は、変な言い伝えもある上に、近くに住む人には忌み嫌われているのだから。
まるで迷宮にいるみたいな気分になった。
「迷子だよ?」
私の問いには答えず、そう言った。
「は?」
体から、力という力全てが抜けていくのが分かった。
跪いて、もう一度頭の中で女の子の言葉を反芻する。
「ま、い、ご?」
「うん、そうだよ。あははは」
何だ。
本当にただの迷子。この不気味で、人が近寄らない山に入ってきた、徒の変な女の子。
それだけ、の事。
幽霊と思いかけた自分が恥ずかしい。
きっと似ているのも、偶然だ。
自分の記憶に少し自信が無い。もしかしたら、この子とは似ていないのかもしれない。
眞里の姿に自分の記憶が美化をしているのかもしれない。
そうだ、そうに違いない。
この子の姿に、私が眞里に似ていると誤解したのだ。
寒い風が吹きつける。
そう思った瞬間、気持ちが楽になっていた。
「お兄ちゃん?」
両手に付いた泥を払い、今度こそ落ち着いて女の子に向き直る。
「大丈夫なのかい?一人で帰れるのかい?」
心配して優しく言ってみた。
「あはははは、面白いことを言うんだね、お兄ちゃん。お兄ちゃんこそ一人で帰れるの?」
子供らしい、憎たらしい答えだ。
私も笑って、女の子の頭をなでる。
「大丈夫だよ、お兄ちゃんは。迷うわけが無いよ」
「ほんと?」
「本当だよ。」
「そうなんだ、お兄ちゃんスゴイね」
同い年だったら、馬鹿にされている台詞だ。
「早く、帰ったほうがいいよ。お母さん、心配しているんじゃないかな?」
それは嘘だ。まだ朝だ。徒の言い訳だ。
少し考えるしぐさをして、女の子はにっこりと笑う。
「うん、そうする。また遇おうね、お兄ちゃん」
赤いスカートが波打つ。そのまま、こちらも振り向かず、走って立ち去っていった。
見送った後、ジャンバーのポケットに手を入れる。
迷惑な女の子だ。だが、なんとなく眞里に似ているせいか、思うように憎めない自分が恥ずかしかった。
十一月に相応しい寒空だった。
山を降りる。
もう、日は昇り、近所の住民が、目を覚ます時間帯だ。
時刻は8時半。
ポケットの中をまさぐり、煙草をさがす。が、見つけた煙草の中身は空っぽだった。
ぐしゃり、とそれを握りつぶして、投げ捨てる。
楽になった気持ちと、あのときの言い知れない恐怖がまだ残っていた。
そのせいか、むしゃくしゃして、気分が悪い。
朝露に濡れている草、草、草を踏み潰す。
歩く先に一筋の光。出口。
「あの世山」の入り口のすぐ目の前は国道222号。近所では、蛇道と呼ばれているほどの、蛇行が続く山間の道だ。
砂利道の嫌な音を聞きながら、出口を目指す。
家に帰ったら、何をすべきかを模索してみた。が、何も無かった。
私が住む家は、ここから十五分歩いた先にある、平屋がそうである。生まれて以来、この田舎から出た事は無い。大学も幸いにこの近くに存在する私立があった。
何も不便など無い。
国道222号の前を一台の車が通る。ここからでは一瞬しか見えないが、車が通るのは珍しい。通過音だけがむなしく響いた。
そういえば、今日は大学の授業が一限からあったことを思い出す。
がしがしと頭を掻きながら、今日の授業を憎んだ。
正直、面倒くさい。
出口を抜け、国道に出る。その途端、静寂に包まれていた「あの世山」とは違い、様々な音色が聞こえてくる。車の走る音、鳥などの存在感、人々の音色。
なんとなく自分の住むべき世界に戻ってきた感じがした。
ほっとして、ポケットから携帯電話を取り出す。
時刻は9時、15分前。
その時間をみて、走り出す。時間的に一限に間に合わない時間だ。仕方なく、家までの道のり、十五分間走り続ける羽目となった。
気付いていないね。まだ。
その携帯の待ち受け画面の時間に。時刻は8時45分。
だけど日付が、12月になっていることを。
お兄ちゃん、気付いて?
――いい?始まりだよ。 ようこそ、まだ見たことも無い世界へ。