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「声が大きくて淑女らしくない」と婚約破棄されたので、百年に一人の声を買われて竜騎士団の号令係になりました

掲載日:2026/07/03

「アデラ。君との婚約は白紙に戻す」


王宮の中庭で、エドガー様はそう告げた。


三年間、婚約者だった方である。


春の花が咲き、噴水の水音が涼しげに響いている。お茶会に招かれた令嬢たちは、聞いていないふりをしながら扇の陰でこちらをうかがっていた。


私は、理由を待った。


家同士の事情か。私の不始末か。あるいは、隣に立つ桃色のドレスの子爵令嬢が関わっているのか。


けれどエドガー様は、少し唇を曲げて言った。


「君は声が大きすぎる。淑女らしくないんだ」


「……今、なんとおっしゃいましたの!?」


びり、と中庭の窓が震えた。


噴水のそばにいた白鳩が飛び立ち、給仕の少年が盆の上のカップを慌てて押さえる。


エドガー様は、ほら見ろと言わんばかりに顔をしかめた。


「そういうところだ」


「婚約破棄の理由が、声、ですの?」


「普通の令嬢はそんな声を出さない」


「普通の殿方は、婚約破棄の理由にもう少し中身を用意なさいますわ」


「その物言いも含めてだ。君はいつも強すぎる」


強すぎる。


声が大きいではなく、今度は強すぎるらしい。


エドガー様の隣にいたミレーヌ様が、扇で口元を隠した。淡い桃色のドレスに、鈴を転がすような小さな声。たしかに、エドガー様の理想には近いのだろう。


「アデラ様は、いつもお元気でいらっしゃいますものね」


言葉は柔らかい。


けれど、柔らかい布で針を包んでも、針は針である。


エドガー様はミレーヌ様の肩に手を置いた。


「僕は、式典でも舞踏会でも、隣に立つ女性には慎ましくいてほしい。去年の春の式典を覚えているだろう?」


もちろん覚えている。


祝辞の途中で、エドガー様が文面を飛ばして黙り込んだ日だ。壇上で汗を浮かべる彼に気づき、私は客席から助け舟を出した。


彼だけに聞こえる程度のつもりだった。


「次は三行目、王国の繁栄を願うところですわ!」


あとから、会場の後ろにいた伯爵夫人にも聞こえたと知った。


けれど、彼は祝辞を続けられた。拍手も受けた。それで済んだはずだった。


「僕は恥をかかされたんだ」


エドガー様は、あの時と同じ顔で言った。


私は少しだけ黙った。


腹が立ったというより、何かが胸の奥で静かにほどけていく感じがした。三年間、大事にしていた結び目が、思ったより簡単にほどけていく。


「承知しました」


私は背筋を伸ばす。


「婚約破棄をお受けいたします」


エドガー様が目を瞬いた。


「ずいぶんあっさりしているな」


「声だけでなく、決断もはっきりしておりますので」


ミレーヌ様の扇が、わずかに揺れた。


エドガー様は不快そうに眉を寄せる。


「最後まで品がない」


「最後まで見る目がありませんでしたわね」


また窓が震えた。


今度は少しだけ、わざとだった。


王宮を出ると、空がやけに広く見えた。


侍女は呼ばなかった。一人で歩きたかった。


小さく話しなさい。控えめに笑いなさい。驚いても声を上げてはいけません。人前で目立つのは、よほど必要な時だけにしなさい。


令嬢教育で、何度もそう言われた。


けれど私は、声を出すこと自体が嫌いだったわけではない。


遠くの人を呼べる。迷子の子に気づいてもらえる。馬車が迫っていると叫べば、誰かの足が止まる。


届く声は、悪いものではない。


そう思っていた。


王都の大広場に着いたころには、商人たちの声があちこちから飛んでいた。


焼き菓子売りが客を呼び、花売りの少女が花籠を掲げ、荷運び人が道を空けるよう怒鳴っている。広場の端では旅芸人が玉を投げ、子どもたちが笑い声を上げていた。


みんな、自分の声で生きている。


なのに私は、淑女らしくないらしい。


「……もう、知りませんわ」


空を見上げると、竜騎士団の訓練竜が五頭、王都の上を旋回していた。


銀の竜。赤銅色の竜。黒竜。黄色い小型竜。青い翼を持つ竜。


王国の誇りと呼ばれる姿は、遠目にも美しかった。婚約を破棄されたばかりの侯爵令嬢には、あまりに遠い空だ。


けれど、その時の私は少しだけ壊れていた。


広場の真ん中で、胸いっぱいに息を吸う。


「もう、わたくしの人生は、わたくしが決めますわーーーーー!」


広場が止まった。


焼き菓子売りの手が止まり、荷車の車輪が石畳の上で軋む。旅芸人の玉が一つ、ぽとりと落ちた。


そして、空の竜たちが動きを変えた。


五頭の翼が、ぴたりとそろう。


先頭の銀竜が高度を落とし、赤銅色の竜がその後ろにつく。黒、黄、青。間隔は寸分違わず、まるで見えない糸で引かれたようだった。


広場の人々が、ぽかんと空を見上げる。


「竜が整列したぞ」


「今の合図、どこからだ?」


「緊急集合笛か?」


違います。


失恋です。


竜たちは広場の上を一周し、石畳へ降りてきた。翼の風で髪が乱れ、ドレスの裾がばさばさと揺れる。


巨大な爪が地面を叩いた。


五頭の竜が、私の前に並ぶ。


そして、きちんと座った。


犬のように。


王国最強の竜たちが。


私はしばらく、目の前の光景を見つめるしかなかった。


先頭の銀竜から、一人の騎士が飛び降りる。


長身の男性だった。黒髪に濃紺の騎士服。肩の銀章は、竜騎士団長のものだ。青い瞳が、驚きと警戒を隠さずに私を見ている。


彼は胸に手を当て、礼を取った。


「突然の無礼をお許しください。王国竜騎士団長、レオンハルト・グレイヴです」


「アデラ・フォン・ラングレーです」


「ラングレー侯爵家のご令嬢でしたか」


「つい先ほど、婚約破棄されたばかりの令嬢でもあります」


言ってから、少し後悔した。


初対面の竜騎士団長に、何を説明しているのか。


だがレオンハルト様は笑わなかった。竜たちを一瞥し、私に視線を戻す。


「それで、五頭がここへ」


「わたくしにも分かりません」


「あなたの声に反応した可能性があります」


「声に?」


「竜は音の高さだけでなく、響きの芯を聞きます。笛や太鼓だけではなく、人の号令に反応することもある。もっとも、ここまで正確にそろうのは見たことがありません」


彼は少し迷ってから、言葉を選ぶように続けた。


「無礼を承知でお願いします。もう一度、命じていただけますか」


「何をです?」


「立て、と」


「竜に?」


「はい」


侯爵令嬢の教育に、竜への号令は含まれていない。


けれど、五頭の竜と広場中の視線を前に、今さら無関係ですとは言いづらかった。


私は一歩前へ出る。


赤銅色の竜がこちらを見る。大きな目。鋭い牙。ごつごつした鱗。正直に言えば、かなり怖い。


でも、その目に敵意はなかった。


私は背筋を伸ばす。


「立ちなさい!」


赤銅色の竜が、すっと立った。


広場にどよめきが走る。


竜騎士たちの何人かが、信じられないものを見る顔になった。


レオンハルト様の目つきも変わる。


「では、座れ、と」


「座りなさい」


どすん。


竜が座った。


尻尾まで綺麗に丸めて。


見物人の子どもが拍手し、つられて大人も手を叩いた。赤銅色の竜は、どこか得意げに鼻を鳴らす。


竜騎士の一人が、乾いた声で言った。


「団長……俺、そいつに三年無視されています」


「私も最初の年は噛まれた」


「今、少しだけ自信を失いました」


「後にしろ」


私は赤銅色の竜を見上げた。


「あなた、お名前は?」


竜が喉を鳴らす。


「ガルドです」


レオンハルト様が教えてくれた。


「ガルド。よくできました」


鼻先に手を伸ばすと、ガルドはゆっくり頭を下げた。鱗は硬く、思ったより温かい。喉の奥で、ごろごろと低い音が鳴る。


大きな猫。


いや、竜。


竜である。


背後で、年配の竜騎士が息を呑んだ。


「団長。これは、まさか……竜律声では」


周囲の空気が変わった。


竜律声。


聞いたことのない言葉だった。


レオンハルト様はすぐには答えず、ガルドと私を見比べた。


「可能性はある。建国戦争の号令官以来、記録上は現れていないはずだが」


「竜が人を選んだのなら、見過ごせません」


年配の騎士は、もう令嬢を見る目ではなかった。危険物か、宝物か、その両方か。そんな目だった。


レオンハルト様が、改めて私に向き直る。


「アデラ嬢。竜騎士団に来ていただけませんか」


「……はい?」


「号令係としてです。飛行訓練、整列、暴走抑止、式典誘導。あなたの声なら、竜に届く」


「わたくしが、竜騎士団で働くのですか」


「侯爵家のご令嬢に無茶を申し上げている自覚はあります。ですが、あなたの声は大きいだけではありません。竜の律動に乗っている」


さっきまで、淑女らしくないと言われた声。


それに、別の名前がついた。


竜律声。


建国戦争の号令官以来の声。


私は少し黙った。


侯爵令嬢が竜騎士団で働くなど、普通ならありえない。父は卒倒するかもしれないし、社交界ではしばらく笑われるだろう。


でも、エドガー様の冷たい声が耳に残っていた。


声が大きすぎる。


淑女らしくない。


恥をかかされた。


それなら。


その声で、別の場所へ行ってやる。


「採用試験はありますの?」


レオンハルト様が目を瞬いた。


「受けてくださるのですか」


「拾われるだけでは面白くありませんもの」


彼は初めて、少し笑った。


「では、明朝。竜騎士団訓練場へ」


翌日、私は竜騎士団の訓練場にいた。


父は予想通り卒倒しかけた。


母は意外にも強かった。


「あら、いいではありませんか。エドガー様の隣で声を殺すより、竜の隣で声を張る方がアデラらしいわ」


母は偉大である。


父は三時間ほど反対したが、王国竜騎士団長の正式な要請書と、王太子殿下の許可印を前に黙った。


最後に言えたのは、これだけだった。


「くれぐれも、侯爵家の品位を忘れるな」


「はい、お父様!」


「声」


「はい」


「まだ大きい」


訓練場には十頭の竜が並んでいた。


昨日のガルドもいる。黄色い小型竜は、私を見るなり翼をぱたぱた動かした。大きな瞳がきらきらしている。


かわいい。


だが、試験中だ。気を抜いてはいけない。


レオンハルト様が説明する。


「試験は三つ。整列、停止、そして暴走抑止です」


「暴走?」


「訓練用の軽い興奮状態です。危険は抑えてあります」


抑えてある。


ない、ではない。


嫌な言い方ですわね、と思った直後、竜舎の奥で扉が砕ける音がした。


黒竜が飛び出してくる。


「バルクが出たぞ!」


「昼寝を起こされた!」


「またか!」


黒竜バルクは鼻から煙を吐き、訓練場を大股で走り回った。足音が地面を揺らし、柵の杭が何本か抜ける。竜騎士たちが手綱を持って追うが、近づけない。


レオンハルト様が剣に手をかけた。


私は、その前に出た。


怖くないわけではない。手袋の中で、指先が冷えている。


それでも、バルクの目が見えた。


怒っている。けれど、それだけではない。驚いて、困って、自分でも止まりどころを見失っている目だった。


私は腹の底から声を出す。


「バルク!」


黒竜の目がこちらを向く。


「止まりなさい!」


前足が石畳を削った。


土煙が上がる。


バルクの巨体が、ぎりぎりで止まった。


「息を吸って」


竜に深呼吸が通じるのかは知らない。


だがバルクは、大きく息を吸った。


そして、煙を吐いた。


多い。


「吐きすぎです」


バルクがしょんぼりした。


団員たちが、言葉を忘れたように立っている。


私は一歩近づいた。


「こちらへ。ゆっくり。爪を立てない」


黒竜はのそのそ歩いてきて、大きな頭を下げた。鼻先に触れると熱い。けれど、さっきほど暴れた熱ではない。


「起こされて腹が立ったのですね。でも、扉を壊してはいけません」


バルクが小さく鳴く。


「聞こえています。謝るなら、あちらの扉にも謝りなさい」


竜騎士たちの誰かが吹き出しかけて、咳払いでごまかした。


レオンハルト様は剣から手を離していた。


「合格です」


「まだ一つ目では?」


「今ので三つとも確認できました」


「雑ですわね」


「竜騎士団は実戦主義です」


こうして、私は竜騎士団の号令係になった。


仕事は、想像していたより忙しかった。


朝は点呼から始まる。


白銀のヴァイスは礼儀正しいが、褒められるまで首を下げたまま動かない。ガルドは私を見ると尻尾を振りたがる。柵が危ない。黄色い小型竜ミモザは、訓練前から菓子袋の匂いを探している。


バルクは寝起きが悪い。


非常に悪い。


「バルク、朝ですわよ」


竜舎の奥で、どん、と何かが天井にぶつかった。


騎士たちが肩を震わせる。


「笑っている場合ではありません。点呼は竜にも騎士にも必要です」


「はい!」


なぜか騎士たちまで背筋を伸ばした。


最初のうちは遠巻きに見られていたが、三日目には団員たちが相談に来るようになった。


「アデラ嬢、ガルドが今日に限って俺の命令だけ聞きません」


「昨日、爪磨きをさぼりました?」


「なぜ分かるんですか.....」


ガルドが深くうなずいた。


団員はその場で謝った。


竜たちは分かりやすい。


褒めると喜び、叱ると落ち込む。機嫌が悪いと尻尾で柵を折るが、納得すれば同じ失敗はあまり繰り返さない。


人間より素直かもしれない。


レオンハルト様は、私の仕事をよく見ていた。


口数は多くない。褒める時も、どこか業務報告に近い。


「アデラ嬢。今日の点呼は、昨日より二拍早く全竜が反応しました」


「それは褒めていますの?」


「褒めています」


「業務評価に聞こえますわ」


「申し訳ありません。女性への褒め方は騎士団の訓練項目にありませんでした」


真顔で言うので、私は笑ってしまった。


この人は竜には強い。


けれど、女性には少し不器用らしい。


「では、次はもう少し普通に褒めてくださいませ」


「普通に」


「たとえば、今日も見事でした、とか」


レオンハルト様は少し考えたあと、真剣な顔でうなずいた。


数日後、王宮から春の観閲式への参加要請が届いた。


竜騎士団が王族と貴族の前で飛行演習を披露する、大きな式典である。


そして、そこにはエドガー様も出席するらしい。


新しい婚約者のミレーヌ様と共に。


団員の一人が、気まずそうに言った。


「嫌なら、団長に相談してもいいと思う」


「なぜです?」


「元婚約者がいるんだろう」


「いますわね」


「平気なのか?」


平気、と即答するには少し早かった。


観閲式用の白手袋をはめる時、指先がわずかにこわばったからだ。


でも、逃げたいほどではない。


私はもう、王宮の中庭で声を否定されていた令嬢ではない。竜騎士団の号令係だ。


それに、私がいなければ困る竜がいる。


寝起きの悪い子。列を外れたがる子。褒められるまで動かない子。


竜は優秀だ。


ただ、優秀な子ほど、扱う側の指示が、声が大事になる。


「仕事ですから」


そう答えると、団員たちは黙った。


レオンハルト様だけが、静かにうなずく。


「任せます」


観閲式当日。


王宮前の大広場には、貴族たちが集まっていた。


華やかなドレス、宝石、香水、扇の音。


少し前まで、私はあちら側にいるはずだった。


今日は違う。


濃紺の制服。白い手袋。腰には号令笛。髪は高くまとめた。


鏡で見た時、自分でも思った。


悪くない。


来賓席にはエドガー様がいた。隣にはミレーヌ様。私を見るなり、二人とも分かりやすく目を丸くした。


「アデラ。本当に竜騎士団に入ったのか」


「はい」


「侯爵令嬢が、そのような格好を」


「動きやすくて便利ですわ」


ミレーヌ様が小さく笑う。


「式典では、お声を控えめになさった方がよろしいのでは? また誰かに恥をかかせてしまいますもの」


私は笑顔で返した。


「本日のわたくしの仕事は、控えないことです」


エドガー様が眉を寄せる。


「君はまだ分かっていないな。貴族社会では、目立ちすぎる女は嫌われる」


「竜は見失わずに済みますわ」


「竜ではなく、人の話をしているんだ」


「では、人を見る目も鍛えた方がよろしいかと」


エドガー様の顔が赤くなったところで、太鼓が鳴った。


観閲式が始まる。


合図台へ向かうと、レオンハルト様が待っていた。


「緊張はされていませんね」


「緊張してたら困ります。今日は観閲式ですもの」


「今日も見事です」


私は思わず彼を見た。


「まだ何もしておりませんわ」


「使いどころを間違えましたか」


「少し」


レオンハルト様は、真剣に反省した顔をした。


十頭の竜が空へ舞い上がる。


歓声が広場を満たした。


最初は旋回飛行。次に二列編成。最後に王宮上空での大円陣。


訓練通りなら、美しく終わる。


ただし竜は生き物だ。


風も匂いも気分もある。


私は旗を握り、空を見た。


「第一小隊、右旋回!」


竜たちが翼を傾ける。


「第二小隊、高度を上げなさい!」


二列目が滑らかに上昇した。


歓声が大きくなる。


よし。


そこまでは順調だった。


次の瞬間、式典用の祝砲魔石が予定より低い位置で破裂した。


乾いた音ではない。


腹の底を叩くような、重い魔力の衝撃だった。


それが王宮の尖塔に反響し、上から落ちてきた風とぶつかる。


黒竜バルクの翼が、大きく乱れた。


バルクは音に敏感だ。しかも、さきほどまで眠そうにしていた。


騎士が手綱を引く。


だが、巨体は来賓席側へ流される。


悲鳴が上がった。


貴族たちが席を立ち、扇や帽子が落ちる。


その中で、エドガー様がミレーヌ様の後ろへ下がった。


逆ですわ。


本当に逆ですわ。


ミレーヌ様もそれに気づいたのだろう。彼女の横顔から、すっと熱が消えた。


天幕が大きく揺れる。


このままでは、バルクが突っ込む。


私は息を吸った。


胸が痛くなるほど深く。


「バルク!」


広場全体が震えた。


黒竜の目がこちらを向く。


「止まりなさい!」


バルクの翼が大きく開く。


巨体が空中で制動した。


だが、まだ流されている。


「爪を出さない。尾を下げて、風を逃がして!」


バルクが尾を下げる。


体勢がわずかに戻った。


「ガルド、前へ!」


赤銅の竜が滑り込む。


「ヴァイス、左を支えて!」


白銀の竜が翼で風を切った。


「第二小隊、上空で待機。乱れない!」


竜たちが動く。


乱れかけた隊列が、再び形を取り戻していく。


バルクは来賓席の手前で、どすんと着地した。


天幕は倒れない。


誰も怪我をしていない。


広場が静まり返る。


私は合図台を降り、バルクの前へ歩いた。


周囲から声が飛ぶ。


「危ない!」


「下がってください!」


けれど、レオンハルト様は止めなかった。


バルクの鼻先に手を置く。


大きな体が震えていた。


やはり、怖かったのだ。


「よく止まりました」


バルクが小さく鳴く。


「でも次は、もっと早くわたくしの声を聞きなさい」


「グゥ」


「よろしい」


その時、広場のどこかで拍手が起きた。


一つ。


二つ。


やがて、大きな波になった。


王太子殿下が立ち上がり、拍手している。竜騎士たちは剣を掲げた。


レオンハルト様が私の隣に来る。


「見事でした」


「職務です」


「王都中に響く職務でした」


「それは褒めていますの?」


「間違いなく」


なら、よし。


式典の後、私は王太子殿下から声をかけられた。


「アデラ嬢。君の号令がなければ、今日は事故になっていた」


「もったいないお言葉です」


「竜律声の使い手として、王国竜騎士団付の特別号令官に任じたい。式典だけではなく、有事の竜害対応にも君の声が必要になる」


周囲の貴族たちがざわめく。


特別号令官。


竜害対応。


ただ珍しい声だと褒められたのではない。


王国に必要な役割として認められたのだ。


扇の向こうで、令嬢たちが目を丸くしている。


王太子殿下は穏やかに続けた。


「竜騎士団は、得難い人材を得た。王国としても喜ばしい」


その視線の先に、エドガー様がいた。


顔色が悪い。


ミレーヌ様は扇で口元を隠しているが、目は笑っていなかった。


王太子殿下は、あくまでにこやかに言う。


「ところで、エドガー。君は以前、祝辞で言葉に詰まった時、アデラ嬢に助けられたそうだな」


エドガー様の肩が跳ねる。


「そ、それは……」


「その助け舟を、恥と呼んだとも聞いた」


広場の空気が変わった。


王太子殿下の声は穏やかだ。


穏やかだからこそ、逃げ場がない。


「自分を助けた声を、体面を傷つけたものとしか受け取れない。そういう者に、民の声が正しく届くか。少し心配になるな」


エドガー様は真っ青になった。


「殿下、私は決して……」


「責めてはいない。見る目は人それぞれだ」


その一言で、周囲の貴族たちはもう笑わなくなった。


代わりに、ひそひそと囁きが生まれる。


「あれがラングレー嬢を捨てた方?」


「助けてもらって、恥と?」


「先ほど、ミレーヌ嬢の後ろに下がっていなかったか?」


「まあ。ずいぶん慎ましい殿方ですこと」


声は小さい。


けれど、私には聞こえた。


たぶん、エドガー様にも。


彼の顔が、青から赤へ変わる。


「ミレーヌ、今のは違う。君を守ろうとして……」


「わたくしの後ろで?」


「位置が、たまたま」


ミレーヌ様は、鈴のような声で言った。


「わたくし、静かな殿方は嫌いではありません。でも、危機の時まで静かな方は少し……」


エドガー様が固まる。


「ミレーヌ?」


「それに、アデラ様の声がなければ、先ほどわたくしも危なかったのですよね」


「それは……」


「その声を笑った方と婚約していると思うと……わたくし、少し恥ずかしくなってしまいますわ」


少し意地が悪い。


でも、完璧なタイミングだった。


そこへ王太子殿下が、さらに優しく刺した。


「そういえば、エドガーには次の地方視察の随行候補に名前が挙がっていたな」


エドガー様の顔に、わずかな希望が戻る。


「は、はい。ありがたく……」


王太子殿下は、しばらく黙って噴水のあたりを眺めていた。それから、思い出したように付け加える。


「見直そう。竜の前で婚約者の後ろに下がる者を、辺境の竜害地へ連れていくのは、少し不安だ」


今度こそ、エドガー様の顔から血の気が引いた。


囁きはさらに広がる。


「随行候補、外されるんじゃないか」


「婚約もこの調子だと……」


誰かがそう囁くのが、切れ切れに耳へ届いた。


助けられていた男、という言葉だけが、やけにはっきり聞こえた。


もう十分だった。


エドガー様が私に近づいてくる。


「アデラ。その……僕は君を誤解していた」


「そうですか」


「君の声は、役に立つのだな」


役に立つ。


その程度の言葉しか出ないのなら、やはり十分だ。


私は微笑んだ。


「エドガー様。わたくしの声は、あなたのお役に立つためにあるのではありません」


彼は何も言えなかった。


「では、失礼いたします。竜たちを褒めなければなりませんので」


私は背を向けた。


不思議と、もう胸は痛まなかった。


過去の婚約者より、今はバルクの機嫌の方が大事だ。


竜は繊細なのだ。


夕方。


式典を終えた竜騎士団の庭園は、少しだけ静かだった。


竜たちは餌をもらい、満足そうにしている。ガルドは私を見るたび尻尾を振りそうになる。


「ガルド」


ぴたり。


柵が守られた。


レオンハルト様が隣に立つ。


「今日は助かりました」


「団長が止めなかったからです」


「あの場で、あなたを止める理由がありませんでした」


「危険でしたわよ」


「危険でした。ですが、あなたはバルクが怯えていると見ていた」


私は彼を見た。


そこまで分かっていたのか。


「怒っているだけではありませんでした」


「ええ。だから任せました」


レオンハルト様は、竜たちの方へ視線を向ける。


「あなたが来てから、団は変わりました。竜の動きだけではなく、騎士たちの見方も」


「見方?」


「以前は、従わせようとしていました。今は、聞こうとしている」


庭園に、竜の寝息が低く響いていた。


「号令とは、命令だけではないのですね」


その言い方が、妙に胸に残った。


この人は、私が捨てられた理由を、何度も別の価値に変えてしまう。


困る。柄にもなく、頬のあたりが熱い。


「それで、相談があります」


「はい」


「あなたに、生涯契約を申し込みたい」


私は固まった。


「……今、なんと?」


「生涯契約です」


「竜の契約ですの?」


「いえ。結婚を前提とした申し込みです」


「言い方」


レオンハルト様は真顔だった。


本気で悪気がない。


竜騎士団長としては優秀なのに、女性への言葉選びが絶望的である。


「申し訳ありません。求婚の訓練は受けていません」


「普通は受けませんわ」


「では、やり直します」


彼は姿勢を正した。


少し緊張している。


王国最強の竜騎士団長が。


竜の暴走にも動じない男が。


私の前で、ほんの少しだけ息を整えている。


「アデラ嬢」


「はい」


「私は、あなたを一人の女性として慕っています」


庭園の風が、ふと静かになった。


遠くで竜が翼を動かす音だけが聞こえる。


「婚約破棄の直後であることは分かっています。返事を急がせるつもりはありません。ただ、あなたの声を、誰より近くで聞き続けたいと思いました」


なんですの、その言い方。


声が大きいという理由で捨てられた女に向かって、それを言うのはずるくありませんこと。


でも、ここで流されるのは違う。


私は今日、過去を振り切ったばかりだ。


誰かの隣に立つ前に、まず自分の足で立ちたい。


だから私は、咳払いをした。


「レオンハルト様」


「はい」


「わたくしに号令を求めるのですね?」


「はい」


「では、まず求婚は跪いてからです」


レオンハルト様は迷わなかった。


その場に片膝をつく。


動きが綺麗すぎて、少し腹が立つほどだった。


物陰から、竜騎士たちの息をのむ気配がする。


ガルドが興奮して尻尾を振りかけた。


「ガルド、待て」


ぴたり。

ガルドは不服そうだったが、大人しく従った。


私はレオンハルト様に向き直る。


「大事な求婚ですもの。声ははっきり、腹から出してくださいませ」


彼は一瞬だけ笑った。


それから、真剣な声で言う。


「アデラ・フォン・ラングレー嬢」


「はい」


「あなたの声を、強さを、優しさを、誰より近くで聞き続けたい」


竜舎が静まり返る。


団員たちが物陰から見ている。


竜たちも見ている。


「私に、あなたへ求婚する許可をください」


私は黙って彼を見た。


すぐに、はいとは言わない。


けれど、嫌ではない。


むしろ、困るくらい嬉しい。


だから私は、胸いっぱいに息を吸った。


昔なら、ここで声を抑えようとした。


誰かに嫌われないように。上品に見えるように。静かで、慎ましく、邪魔にならない女でいるために。


でも、もうやめた。


私の声は、私のものだ。


欠点ではない。


誰かに届く力だ。


「では、レオンハルト様!」


竜舎の窓が震えた。


レオンハルト様が、まっすぐ私を見る。


「まず一年、わたくしの声を一番近くで聞く覚悟を証明なさい!」


レオンハルト様は一拍置いて、深くうなずいた。


「承知しました」


「もう少し腹から」


「承知しました!」


竜騎士たちが吹き出した。


ガルドが咆哮し、ミモザが驚いて餌を落とす。


レオンハルト様は立ち上がり、私の手を取った。


「では、一年後に改めて求婚します」


「気が早いですわ」


「早いでしょうか」


「早いです」


「では、月ごとに確認を」


「しなくてよろしい」


「善処します」


それは、確認する気ですわね。


その後、王都ではしばらく噂になった。


声が大きすぎて婚約破棄された侯爵令嬢が、竜騎士団の号令係になったこと。


観閲式で、暴走しかけた黒竜を止めたこと。


王国最強の竜騎士団長から、求婚の許可を求められたこと。


ついでに、元婚約者エドガー様は地方視察の随行候補から外されたらしい。


ミレーヌ様との婚約も、少し雲行きが怪しいとか。


理由は単純。


「助けてくれた声を恥としか思えない男に、人の上に立つ器があるのか」


王太子殿下が、そうおっしゃったとか。


十分ですわ。


今でも私は、竜騎士団で号令を出している。


「第一小隊、出発!」


竜たちが空へ舞う。


「ガルド、前を見なさい」


ガルドが慌てて向き直る。


「ミモザ、餌は訓練後」


黄色い翼が少し下がる。


「バルク、寝ない」


黒竜がびくっと起きる。


そして最後に、私は空の上のレオンハルト様へ声を張る。


「レオンハルト様!」


彼が振り返る。


私は笑って命じた。


「本日も、無事に帰ってきなさい!」


レオンハルト様は空の上で敬礼した。


「承知した、我が号令係」


竜たちが青空へ昇っていく。


私の声は、今日も王都の空によく響く。


もう誰にも、淑女らしくないなんて言わせない。


言われたとしても、構いませんわ。


だってこの声で、私は竜も、騎士団も、未来の旦那様候補も動かしているのだから。


ただし、一年の試用期間つきですけれど。

最後まで読んでくださり、ありがとうございました。


声が大きいことを理由に婚約破棄されたアデラが、その声で竜たちを動かし、自分の居場所まで見つけるお話でした。


アデラはこれからも、王都の空によく響く声で竜騎士団をびしびし整えていくと思います。


面白かった、アデラと竜たちをもう少し見てみたいと思っていただけましたら、評価・いいね・ブックマークなどで応援していただけると嬉しいです。


星をいただけると、アデラの号令もさらに王都の空へ響くかもしれません。

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― 新着の感想 ―
適材適所で収まる所に収まった形とは思いますが、重要な情報は与えられそうにないなと感じました。 本人にその気はなくとも、極秘の内容も全部筒抜けになりそう。
内輪の会議ならまだしも式典で同じことされたら王太子も恥かかされた!ってなると思う 笑 動物相手にはいいかもだけど人間の世界では普通にノンデリだよね 笑
お話大変面白かったです。ありがとうございます。 よく通る声の大きな号令で指揮統率ができる人ってかっこいいですよね。しかも竜!騎士服だと尚更! しかしながらこのお話、声が大きいというより声量を抑えられ…
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