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0泊2日の地獄旅行

作者: 雨待草
掲載日:2026/05/03

義務教育を終えた3月下旬、まだまだ教室の中はお別れが寂しいですよ〜、写真撮ろ〜、という空気である。というかそういう声が実際聞こえてくる。まあこんなクソみたいなクラスメイトとクソみたいな3年間に私は思い入れの一つもないので。

さっさと卒業証書だけ受け取って帰るつもりだった。周りの邪魔をしないよう、静かに後ろのスライド式のドアを開けて廊下へ出る。3年生の教室が一階であることくらいしか、この学校の美点を私は知らない。靴で埋まっている下駄箱から、一足分のローファーを抜く。さあ、ようやく地獄のような3年間からおさらばだ!!


「こっちゃん!!もー、なんで先に帰っちゃうかなぁ」

「いや帰るでしょ、むしろ八坂は残りなよ」


清々しさに身を包んだまま、昇降口を潜ろうとした時、後ろから声をかけられた。女性の中でもややオクターブの高い、可愛らしいソプラノが、やや大袈裟に不満を口にする。男性にしては高すぎる、女性にしては低すぎる、私の声とは大違い。そんな弾んだ声には聞き覚えしかなかった。

振り向いて見れば、予想通り、国が傾く絶世の美女、八坂美琴だった。身長170cm前半、陽キャ一軍女子の仲間で、黒髪ストレートの長髪は絡まるという言葉を知らない。切れ長の二重を持ちスラリと伸びた足を黒タイツが覆い隠す、陰キャにも優しいギャルときた。私とははるかに縁遠い存在であるはずの彼女は、なぜか私と友達という関係を築いていた。

謎ではあるが友達であることに間違いはない、と私は思っている。八坂を置いて帰ってしまうことは良くあることなのに、毎回学習せずにこうやって引き止められている。その優しさは嬉しいけれど、ぜひ他のお友達に使ってあげて欲しい。だって私は早く帰りたいんだもの。


「私ね、天使になるんだって」

「......厨二病は卒業したでしょ」


教室から走ってきただろうに、彼女は息一つ切らしていない。ブレザーと、学生リュック。卒業式らしい、最低限の荷物だけを持って、八坂は目を伏せて笑った。逆光が黒髪を照らして、顔が見えない。

八坂の冗談には慣れている。それこそ、よく狼男を見ただとか、白馬に乗った王子様に告白された、だとか。そういう作り話。いつもそういう話は無駄にディティールが凝られていて、その話を聞くことを楽しみにしている自分がいた。けれど、今回のそれはいつものものと違うような気がしてならなくて、一蹴するに留めた。


「んでさ、私がいなかったらこっちゃんって友達いないじゃん?」

「流石に言い過ぎだけど一旦聞くわ」

「だからさ、一緒に逃げようよ」


私の動揺を知ってか知らずか、滔々と紡がれる言葉に迷いはない。でもそれが、どこか芝居めいていて。まるで田舎町のコテージの上で初めて演技をする新米演者のような緊張と震えを孕んでいたから。止めることができなかった。


「ねえ、お願い。今日だけでいいから、ねぇ」


らしくない、弱々しい物言い。握りしめているスカートのプリーツが、グシャリと歪む。調子を崩されてしまった。だって彼女は、私にとって無視できるような、他人だと割り切れるような、周りの奴らとは違う域に入れてしまったものだから。


「いいよ、行こう」

「、え」

「どこがいい?どうせなら東京とか行っちゃおうよ。海外は無理だけどさ、もうJKだよ私たち。どこにだって行けるよ」


私の即答が相当予想外だったようで、八坂は目を瞬かせる。風に靡くスカートと、似合いすぎている黒髪がどこか儚くて、桜にさらわれてしまうんじゃないかと不安に駆られた。

そいつがどこにも行けないように、どこにだって渡さないために、無理やり手首を掴んだ。綺麗に整頓されている靴箱に、二つ分の穴を開ける。反論させる隙なんて与えてやらない。絶対に。手と手は繋いだまま、お祝いムードの中学校を抜け出す。半ば引き摺るようにして歩いているから、これじゃあいつもと立場が逆じゃんね、なんて思った。最低限の荷物しか持ってきていないけれど、財布とスマホがあればなんでもできる時代になったんだ。どうにだってなる。


「......ありがと」


若干鼻声のそいつの事情に触れてやることができないのは、私の罪だ。人より細い手首も、夏だろうが長袖に黒タイツであることにも、触れてやることのできなかった私への罰だ。

いつだって世の中はそうなんだ。弱者はいつだって、強者同士で固まって、弱者を虐げることでしか自分を生成できない奴らの、自己顕示欲を満たすための傀儡。逆らうことも、波風を立てることすらも許せえない、いることが仕事のエキストラ。そこに私情を持ち込んで仕舞えば、私たちに存在理由は存在しない。そんなクソみたいな世界なんだ。

だからいつも、こいつみたいな、クソ優しい弱者は甘い蜜の甘さすら知らない。泥水を啜ってきた奴らに、甘さを感じられる味覚は残っちゃいない。だからせめて、このモラトリアムくらいは、甘さを知らせることくらいは許されて然るべきなんだ。


「行こう、0泊2日地獄旅行、なんちゃって」


2人して昇降口を一番に潜る。卒業式のパネル付近にも、今は人っ子一人いない。でも、そんな静寂の、なんたる心地良さか。1人で帰ろうと思っていた時より、今の方がずっと清々しい。うっかり駆け出してしまいそうなくらいには。はやる気持ちを抑えてこちとら歩いているのに、おぼつかない足取りでついてきていたはずの八坂に、思い切り腕を引っ張られた。


「......ついてきてくれて、本当にありがとう!!」

「こちらこそ、だよ」


花のように笑う八坂に連れられて、気のゆくままに走り出す。その顔に危うさが消えたかと言われたら否だけれど、彼女が幸せと、今思ってくれているのならそれでいい。八坂に釣られて、口元を抑えて控えめに笑う。背中を押してくれた春風は、けれど確かに冬の気配を知らしめていた。

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