深化!
スキル深化の回です。派手なことは何も起きません。でも、この話が好きです。じんわり来ます。たぶん。来てほしい。
その夜の夢は、やけに明るかった。
光、というよりも——温度があった。どこかわからない場所に立っていて、足元が見えなくて、でも不思議と怖くなかった。カエデはそういう夢に覚えがあった。以前にも、こういう場所に来たことがある。
「あー、いたいた」
声がした。
のんびりとした声だった。重要なことを今から言おうとしているとは到底思えない声だった。振り返ると、そこに女神がいた。アルテミア。ドデカい谷間を惜しげもなくさらした豪快な女神が、なぜか片手に湯気の立つカップを持って立っていた。
「お茶、飲んでたんですか」
「いいじゃないの別に。夢の中でもお茶くらい飲むわよ」
「何の用ですか」
「用があるから来たわけじゃなくて——」アルテミアはカップを揺らして、どこかばつが悪そうに笑った。「溜まったみたい」
「……何が」
「世界貢献ポイント。前に説明したやつ。あなたのポイント、思ったよりずっと早く溜まったわよ~。てっきりもっとかかると思ってたんだけど、まあ——」女神は肩をすくめた。「あなたらしいっていえばあなたらしいのかな。子どものためにぬいぐるみ作って、専門家のおじさんの質問に夕方まで付き合って、そういうことが全部ちゃんと積み重なるから」
カエデはしばらく、黙っていた。
「……それで、何が起きるんですか」
「深化。精霊との親和性が、もう一段深まる。具体的にどう変わるかは——」アルテミアはにっこり笑った。「起きてからのお楽しみ」
「また後出しですか」
「違う違う、今回はちゃんと事前に言いに来たでしょ。成長したでしょ私」
言い返す言葉が見つからなかった。確かに今回は事前だった。それだけは認める。
夢の端のどこかに、気配があった。
カエデが振り向くと、しろがいた。いつもの場所ではなく——夢の中に、ただ立っていた。アルテミアを静かに見ている。アルテミアが「ひっ」と小声で言って、カップを両手で持ち直した。
「……あなたって、どこにでも入ってくるのね」
しろは答えなかった。ただカエデの方を一度見て、それから目を閉じた。そのまま、そこにいた。
「大丈夫ですよ」とカエデは言った。「しろは怖くないので」
「わかってる。わかってるけど、なんか緊張するのよね」
女神が緊張している。その事実を飲み込む前に、夢が薄れ始めた。
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目が覚めたのは、夜明け前だった。
部屋がまだ薄暗い。カエデはしばらく天井を見ていた。夢の内容は覚えている。珍しいことだった。夢というのはたいてい起きた瞬間に溶けるのに、今回はくっきりしていた。
懐を確認すると、しろがいた。
目が合った。
しろの目は、いつもと変わらない。金色の、静かな目。でも——カエデは首を傾けた。何かが、違う気がした。うまく言葉にできない。体の温度とか、重さとか、そういう物理的なことではない。もっと、内側の何か。しろがそこにいる、ということの密度、とでも言えばいいのか。繋がりがひとつ深くなったような、根が一本増えたような感覚だった。
「……おはよう、しろ」
「……おはよう」
カエデは固まった。
しろが——おはようと言った。返した。カエデの言葉に、自分の言葉で答えた。以前も会話はできていた。でもあれは短い言葉で、こちらの問いに応じるような形だった。今のは違う。朝の挨拶を、挨拶として返した。
肩の上でぽぽが「ぽっ!」と鳴いた。続いて「おはよー!」と言った。
カエデはぽぽを見た。ぽぽを見てから、しろを見た。しろを見てから、また天井を見た。
「……ふたりとも、しゃべれた」
「前からしゃべれてたぞ」とぽぽが言った。「今日はもっとしゃべれる感じがする」
「……そうだな」としろが言った。
「これ以上うるさくなっても大変ですわ!」やっぱりあたりが強いホークであった。
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朝食の後、ルーチェが「ガルドさんから手紙来てるよ」と持ってきた。
定期便の船に乗ったらしい。いつもより少し厚い封筒だった。本文はいつも通り短かった。エルミナの近況、市場の話、リリアさんが新しい薬草の仕入れ先を開拓したこと。読み慣れた文字で、読み慣れた淡々とした文体だった。
追伸が、二つあった。
追伸の一つ目。「つきが今朝、突然前触れもなく動き出した。エリが腰を抜かしていた。つきは今エリの頭の上に乗っている。エリは泣きながら笑っていた」
カエデは、そこで手紙を持つ手が止まった。
追伸の二つ目。「距離の制限が解けたらしい。エリが言うには夜明け前から動いていたそうだ。今は台所の窓から外を見ている。どこかを見ている」
夜明け前。
カエデがアルテミアの夢を見ていた、あの時間だ。
しばらく、動けなかった。手紙を持ったまま、ただそこに座っていた。泣くとか笑うとかそういう感情が来る前に、胸の中に何か大きいものがあって、それがまだ言葉にならなかった。
つきが動いた。
つきが、エリの頭の上に乗っている。
エリが泣きながら笑っていた。
「カエデ?」
ルーチェの声がした。カエデはゆっくり顔を上げた。
「……つきが、動いたって」
ルーチェは手紙を覗き込んで、それから「そっか」と言った。柔らかい声だった。「つきちゃん、元気なんだ」
懐の中で、しろが動いた。顔だけ出して、カエデの顔を見た。何も言わなかった。でも、ずっとそこにいた。
ぽぽが肩の上で「ぽっ……」と小さく一声鳴いて、それから黙った。珍しいことだった。ぽぽがあれこれ言わずに黙っているのは、本当に珍しかった。
ホークが窓の近くで羽を広げ、それからそっと折り畳んだ。「……おめでとうございますわ」と静かに言った。
何がおめでとうなのか、正確にはわからなかった。でも、カエデには伝わった気がした。
のんびりスローライフ……と思いかけて、でも今日はその言葉が浮かばなかった。代わりに浮かんだのは、エルミナの港の風景だった。ガルドが立っていた桟橋。リリアさんの花屋。石畳。あの街が、まだそこにある。つきが窓から外を見ている。どこかを見ている。
カエデはもう一度手紙を読んだ。追伸の、最後の一行をもう一度読んだ。
「どこかを見ている」——それはきっと、ここだと思った。根拠はない。でも、そう思った。
つきちゃんが動き出しました。エリが泣きながら笑ってた、という一文を書いた瞬間、私も少しそうなりました。ガルドさんの文体が好きです。




