こんにちは侯爵様!
侯爵の「複雑」を一言で表現するのが難しかった回です。感謝しているのに何か言いたい、というのが父親らしくて。
侯爵と会ったのは、到着した翌朝のことだった。
昨夜は邸の客室に通された。馬鹿みたいに部屋が広かいし天井が高かった。クロードが「お休みください」と言って出ていき、楓は三秒でどこに何があるかを諦めて、荷物を適当に置いて寝た。しろが足元で丸まっていた。ぽぽが枕の横で「ぽっ……」と静かに言った。感嘆符がなかった。昨日から圧倒され続けていて、まだ回復していないらしかった。
翌朝、目が覚めたらクロードがすでに朝食を手配していた。
「いつ手配したんですか」と楓が聞くと、「昨夜のうちに」とクロードが言った。当然の顔をしていた。この人はいつもそういう顔をしている。
食後、クロードに案内されて応接間に向かった。
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アルウィン侯爵は、五十代の男性だった。
体格がよくて、白髪交じりの髪を丁寧に整えていて、礼服の仕立てが良かった。セレナに顔立ちが少し似ていた。目の形が特に。ただ、その目が今、なかなか複雑な色をしていた。
「カエデ殿」と侯爵が言った。「先日よりお噂は伺っておりました」
「あ、はい。山田楓と申します。人形師をしています」
「……人形師」
侯爵が少し間を置いた。それは「人形師がセレアの命を救った」という文脈で言っているのか「人形師ごときがセレアをエルミナに連れ去った」という文脈で言っているのか、楓には判断がつかなかった。たぶん両方だった。
しろが懐から少し顔を出した。侯爵がそちらを見た。しろと目が合った。しろが戻った。
侯爵が「……これが」と言った。
「しろです。ぬいぐるみです。精霊が宿っています」
「宿って、いる」
「はい」
侯爵がもう一度間を置いた。それから「セレアがずいぶん世話になったようで」と言った。「セレア」という呼び方が、公の場でのアルウィン家のご令嬢でも王都の令嬢でもなく、ただ娘に対する呼び方だった。
「こちらこそ、お世話になっています」と楓は言った。「エルミナでも、今回も」
「エルミナでお世話に」と侯爵が繰り返した。「つまり、セレアがあなたのそばで暮らしていた、ということですね」
「ご近所でした」
「近所」
侯爵の顔が、また複雑な色になった。感謝と、困惑と、何か父親にしかわからないものが混ざっているようだった。楓はそれに気づいていたが、特にどうしようとも思わなかった。自分はこういう話し方しかできなかった。
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お茶が出てきた。クロードが淹れた。
一口飲んだら、いつもの味だった。場所が変わってもクロードのお茶はクロードのお茶だった。少し安心した。
ルーチェが「おいしいですね」と正直に言った。クロードが「恐縮です」と言った。侯爵がクロードを見て、何かを言いかけて、やめた。
しばらく当たり障りのない話をした。エルミナはどういう街か、楓はどういう仕事をしているか、いつ頃から人形師をしているか。侯爵は丁寧に聞いた。楓は丁寧に答えた。ルーチェが横から「カエデさんのぬいぐるみ、本当に上手なんですよ」と言った。侯爵が少し表情を緩めた。
「セレアが……つきと申しましたか、あのぬいぐるみをずいぶん気に入っていたようで」
「ありがとうございます。あの子、どっしりしてるので」
「どっしり」
「なんかそういう子なんです」
侯爵がまた少し複雑な顔をした。娘が懐いたぬいぐるみを作った人間がこういう話し方をする、ということへの戸惑いが滲んでいた。楓はそれに気づいていたが、特にどうしようとも思わなかった。
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問題が起きたのは、お茶が二杯目に差し掛かった頃だった。
侯爵が「ところで」と言った。「セレアをエルミナに連れ去ったのも、こちらに戻ることになったのも、結局のところカエデ殿のぬいぐるみが原因なわけですが」
「そうですね」と楓は言った。事実だったので頷いた。
「あなたには、感謝しています」と侯爵が続けた。「セレアの体が回復したことは、本当に。ただ」
「ただ」
「娘が王都を離れて一年以上、ずいぶん心配をしました」
「それは……すみません」
「謝罪を求めているわけではありません」侯爵が少し言葉を選んだ。「ただ、複雑なのです。感謝しているのに、何か言いたい気もして」
「父親って、そういうものなんですか」
侯爵が少し目を細めた。「そういうものなのかもしれません」
ちょうどそこに、セレナが戻ってきた。荷物の確認に席を外していたのだった。
部屋の雰囲気を一瞬で読んで、「父上、カエデさんに何か言いましたか」と言った。
「いや、何も」
「嘘をついています」
「嘘ではない。複雑だと言っただけだ」
「それが問題です」セレナが静かに言った。「カエデさんは父上の複雑さに付き合う義務はありません」
「わかっている」
「わかっているなら」
「わかっているが、複雑なのだ」
父と娘が静かに視線を交わした。楓はお茶を飲んだ。クロードが新しいお茶を注いだ。ルーチェが「えっと」と言いかけてやめた。ぽぽが「ぽっ」と小さく言った。
今日初めて感嘆符が戻った。
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その日の夕方、楓が廊下を歩いていると、後ろから侯爵に声をかけられた。
「カエデ殿」
振り返ると、侯爵が立っていた。礼服ではなく、少しくだけた格好だった。少しだけ、昼間より人間に近い雰囲気がした。
「はい」
「セレナを……よろしくお願いします」
「こちらこそ、よろしくお願いします」と楓は言った。「お世話になります」
「……あなたは本当に、あの子を連れ去った人形師に見えないですね」
「連れ去ったというより、会いに来てくれた、という気がしてるんですが」
侯爵がしばらく黙った。それから「そういえばそうですな」と言って、少し笑った。
その顔が、少しだけセレナに似ていた。即断するときの目の形が同じだった。
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夜、セレナから「父上に何を言いましたか」と聞かれた。
「連れ去ったんじゃなくて会いに来てくれたと思ってるって言っただけです」
「……父が少し笑っていました」
「笑ってましたね」
「父があんなふうに笑うのは」とセレナが少し間を置いた。「久しぶりに見た気がします」
「それはよかったです」
セレナが「カエデさんは」と言いかけて、やめた。
「なんですか」
「いいえ。おやすみなさい」
「おやすみなさい」
ぽぽが「ぽっ!」と言った。今日初めてちゃんとした感嘆符が一個戻ってきた。
「連れ去ったんじゃなくて会いに来てくれた」という楓の一言で侯爵が少し笑う場面、書けてよかった。セレナの「久しぶりに見た気がします」が今話で一番好きな台詞です。楽しんでいただけたら、ブックマークや高評価をいただけると次を書く力になります。よろしくお願いします!




