潮風に誘われて
ついに!目が覚めましたよー!
最初に気づいたのは、においだった。
潮の香りと、焼いた魚の煙と、木材と、なんか香辛料っぽいものと、馬と、その他もろもろが全部まとめて鼻に飛び込んできた。
「……っ、くさ」
思わず呟いてから、楓はぱちりと目を開けた。
石畳だった。
頬に石畳の冷たさを感じながら、楓はしばらく状況を把握しようとした。
青い空。白い雲。どこかで鳥が鳴いている。
視界の端に、石造りの建物の壁が見えた。壁の隙間から植物が顔を出していて、赤い花をぽつぽつと咲かせている。遠くで誰かが大声で何かを叫んでいて、それに別の誰かが怒鳴り返している。ガラガラと荷車が転がる音。子どもの笑い声。
「……生きてる」
正確には「生まれ変わってる」なのだが、まあだいたい似たようなものだろう。
楓はゆっくりと身体を起こした。両手を見る。小さい。指が細くて、関節の節がつるつるしている。会社のコピー機に毎日酷使されていたあの手とは全然違う、みずみずしい子供の手だった。
「……十歳くらい?」
立ち上がってみると、視界の高さがずいぶん低い。これはこれで不思議な感覚だった。二十八年間ずっと同じ目線で生きてきたのに、急に十センチ以上下から世界を見ている。なんか、でかいな、世界。
あと足元の石畳がでこぼこしていて、革靴もどきを履いた足がちょっと痛い。これもちゃんと感じる。痛みも、潮の香りも、石畳の冷たさも、全部リアルだ。夢じゃない。夢にしては細部がちゃんとしすぎている。
「……本当に異世界、来ちゃったんだ」
口に出してみると、じわじわと実感がわいてきた。
と同時に、ものすごい勢いで視覚情報が流れ込んできた。
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楓が転生したのは、路地裏だった。
路地裏を抜けると、そこには港があった。
海だ、と思った瞬間、楓は思わず足を止めた。
大きかった。当たり前だが、海はでかい。水平線がずっと向こうまで続いていて、朝の光を受けてきらきらと輝いている。港には何隻もの船が停まっていて、漁師らしき人たちが威勢よく荷物を下ろしている。大きな魚が木箱に山積みになっていて、競りでもやっているのか、髭もじゃの男たちが大声で言い合いをしていた。
港に続く大通りには、もう朝から市場が立っていた。
色とりどりの布地が風にはためき、野菜や果物が木箱に積まれ、香辛料が小瓶に並び、干した魚が紐に吊るされている。どこかのお店からパンを焼く匂いが漂ってきて、楓のお腹がぐうと鳴った。
「すごい……」
思わず声が出た。
これだ、と思った。活気ある街で、料理人や鍛冶師や漁師や大工が、それぞれの仕事に誇りを持って生きている、あの世界の空気感。目の前の光景はまさにそれだった。
大工らしき男が木材を担いで歩いている。
魚師が朝の水揚げを声高らかに叫んでいる。
薬師らしきおばあさんが店先に薬草を並べている。
裁縫師の工房の窓から、色鮮やかな布が覗いている。
みんなが、それぞれの仕事を持って、それぞれの朝を過ごしている。誰かの機嫌バロメーターになる必要も、コピー機の守護神をする必要も、何一つない。
楓は大きく息を吸って、ゆっくりと吐いた。
「……ここで、生きていこう」
わりとあっさり決まった。
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問題は、何一つ持っていないことだった。
お金なし、知り合いなし、住む場所なし。あるのは前世の記憶と、針と糸への異常な愛着だけである。
「言語はわかるって言ってたな……」
女神は「自然とわかるようにしといたげる」と言っていた。試しに市場のお姉さんが「いらっしゃい! 今日は新鮮なタコがあるよ!」と叫んでいる声を聞いたら、ちゃんと意味がわかった。タコという概念は異世界にもあるらしい。それはそれで感慨深い。
言葉が通じるなら、あとはなんとかなるだろう、と楓は思った。楽観的かもしれないが、なんとかなってきたのが人類の歴史というものだ。たぶん。
ひとまず、お腹が減っていた。
パンの匂いにつられて大通りをふらふら歩いていると、路地の角に小さな花屋があった。店先に色とりどりの花が並んでいて、赤や黄色や紫が風に揺れている。入口に木の椅子が出してあって、そこに四十代くらいの女性が座って花の手入れをしていた。
その女性が、顔を上げた。
楓と目が合う。
女性は楓の姿を見て、一瞬きょとんとした表情をして、それからにっこりと笑った。
「あら、どうしたの? 迷子?」
「……あ、えっと」
楓は少し考えた。正直に言うべきかどうか。でも嘘をつく準備もしていない。
「身寄りがなくて、困ってます」
簡潔に言うと、女性はまたきょとんとして、それから「そう」と頷いた。深くは聞かなかった。
「うちに来る? ご飯あるよ」
「……いいんですか」
「子供が困ってたら助けるでしょ、普通」
普通、と言った。その言葉がなんだかとても温かかった。
女性の名前はリリアといった。花屋を営んでいて、この街に長く住んでいるらしい。詮索しない、押しつけない、でもちゃんと気にかけてくれる、そういう人だった。
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リリアの家は花屋の奥にあった。
石造りのこぢんまりとした家で、台所には常に何かの煮込みの匂いがしていた。一階に花屋と台所と居間、二階に寝室と屋根裏部屋。その屋根裏部屋に毛布と枕が運ばれてきて、楓の当面の住処になった。
「狭いけど、しばらくここにいていいよ」
「ありがとうございます」
「あと、うちの娘がうるさくても許してね」
娘? と思った瞬間、ドタドタと階段を駆け上がってくる音がして、屋根裏部屋の扉がばあんと開いた。
同い年くらいの女の子が立っていた。栗色の髪を二つに結んで、目がくりっとしていて、頬に小さなそばかすがある。手にはなぜかパンを持っていた。
女の子は楓を見て、楓を上から下まで眺めて、それから開口一番に言った。
「あなたがママの拾った変な子ね!どこから来たの?」
開口一番変な子とは失礼な奴め...
「……遠くからきたの」
「どこ?」
「すごーく遠く」
女の子はしばらく楓の顔を見ていた。それから「ふーん」と言って、持っていたパンを半分ちぎって楓に差し出した。
「食べる? お腹減ってそうな顔してる」
楓は少し驚いた。それから、パンを受け取った。
「ありがとう」
「ルーチェ。あなたは?」
「楓。カエデ」
「カエデ。変な名前」
「そっちの方が変な名前だと思うけど」
「そう?」
ルーチェは全然気にしていない様子で、楓の隣にどかっと座った。
「何するひと?」
「え?」
「この街、みんな何かの仕事持ってるじゃん。ママは花屋で、お向かいのおじさんは大工で、坂の上のおばあさんは薬師で。カエデは?」
楓は少し考えた。この世界でどう生きていくか、まだちゃんと考えていなかった。でも答えは、わりとすぐに出た。
手があれば生きていける。針と糸があれば。ぬいぐるみを作れば。
「人形師、やろうと思ってる」
「にんぎょうし?」
「ぬいぐるみを作るの。布と糸と綿で、動物とか、いろんな形の人形を」
ルーチェは首を傾げた。あまりピンときていない顔だった。
「……それ、売れるの?」
「売れるといいなと思ってる」
「ふーん」
ルーチェはもう一度「ふーん」と言って、パンをかじった。
「まあ、頑張れば」
応援なのかどうなのかよくわからないエールだったが、楓にはなぜか悪くなかった。
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その夜、楓は屋根裏部屋の小さな窓から外を眺めた。
街の灯りが遠くまで続いている。港の方では船の灯りがゆらゆらと揺れていて、どこかで酒場のにぎやかな声がした。石畳の上を猫が一匹、ぺたぺたと歩いて、路地の暗がりに消えていった。
やることはたくさんある。道具を揃えなければ。素材を探さなければ。お金を稼がなければ。この街のことを知らなければ。
でも今夜は、まずここにいる、ということだけでいい気がした。
「のんびりスローライフするんだ」
誰に言うわけでもなく、そう呟いた。
窓の外で、潮風が静かに吹いていた。
やっぱり少し潮くさかったけれど、もう悪くないなと思えた。
人形師になるらしいですよ!かわいいがあふれてますね!




