不穏な気配...
しろがついに喋った。「北の外れ」の三文字、しゃべり慣れてないしろが言葉少なで、でもそれがちょうどよくて。
その日の朝、何かがおかしかった。
おかしい、というほどでもない。ただ、しろがずっと窓の外を見ていた。
いつもなら朝ごはんのスープの匂いがすると膝に来るのに、今日は来なかった。窓際に座って、港の方を向いて、じっとしていた。目は開いているが、何を見ているのかわからない。
「しろ?」
耳がぴこ、と動いた。でも振り向かなかった。
楓はしばらくそれを眺めてから、先にスープを飲むことにした。貝がうまかった。しろが気になることがあるときは、大体しばらくして自分で戻ってくる。こっちが急かすと耳を後ろに向けることも覚えた。
ルーチェが来たのは午前の半ばだった。
「しろ、なんか変じゃない?」
「さっきからずっと窓向いてる」
「どこ見てるんだろう」
ルーチェがしろの横に座って、同じ方向を向いた。港。海。その先の、どこか。
「……何か感じるの?」
しろは答えなかった。ぽぽが「ぽっ!」と言いながらしろの横に割り込んだ。しろが耳を一度だけ後ろに向けた。うるさい、という意味だとわかった。
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午後、しろが戻ってきた。
楓が仕事をしている手元に、ゆっくりと近づいてきて、膝の上に乗った。
「おかえり」
しろが楓を見た。いつもの目だった。青くて、静かで、落ち着いた目。
でも、何かが少し違う気がした。
うまく言えない。しろの目の色が、少しだけ濃くなった気がした。あるいは、こちらを見る角度が変わった気がした。ずっとそばにいて、それでも気づかなかった何かが、今日だけは少し浮き上がって見えた。
「……何か、あった?」
しろは答えなかった。
でも今日は、いつもよりずっと長く楓のことを見ていた。
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問題が起きたのは夕方だった。
といっても問題という感じでもなかった。ただ、起きた。
楓が針を動かしながら、ぽんやり独り言を言っていた。次の一体のことを考えていて、素材の組み合わせを声に出していた。魔石の破片と、あの樹皮の欠片と、それから繊維を少し——
「北の外れ」
静かな声だった。
低くも高くもない。温かくも冷たくもない。ただ、確かに聞こえた声だった。
楓は針を止めた。
部屋に一人しかいない。ルーチェはもう帰った。リリアは一階にいる。ぽぽはさっきから楓の肩で眠っていた。
しろを見た。
しろは膝の上で、楓を見ていた。
「……今、喋った?」
しろの耳が、ぴこ、と動いた。
「しろが、喋ったの?」
しろはしばらく黙っていた。それから、また言った。
「北の外れ」
声は小さかった。かすれていた。ずっと使っていなかったものを初めて動かしたような、そういう声だった。でも確かに聞こえた。
楓はしばらく動けなかった。
膝の上のしろが、楓を見ている。青い目で。いつもの目で。でも今日は、その目の奥に何かがある気がした。ずっとそこにあったのに、今まで届かなかった何かが。
「……北の外れ、が、どうしたの」
しろが少し間を置いた。
「変な、気配」
そっけない言い方だった。情報だけを渡すような言い方だった。でも楓はその三文字を聞いて、今朝のしろが窓の外をじっと見ていたことを思い出した。港の方を向いて、動かなかったこと。
「……今朝から、ずっと感じてたの?」
しろの耳が一度動いた。たぶん、肯定だった。
「教えてくれてありがとう」
しろがまた黙った。
しろはしゃべることに慣れていない、と楓は思った。慣れていないというより、必要を感じていなかったのかもしれない。精霊に言葉は要らない。ただ感じて、動く。でも今日は、言葉にしないと伝わらないと思って、言葉にした。
それだけのことが、なんか、すごく大事な気がした。
「もしまた何かあったら、言って。私には感じないから」
しろが、ほんの少しだけ、体を楓の方に寄せた。
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翌日、ガルドに話した。
「しろが喋りました」
「精霊が」
「はい。北の外れに変な気配がある、と」
ガルドが少し黙った。それから机の上で手を組んだ。
「精霊が言葉を使うというのは、聞いたことがある。精霊親和が進むと、意思疎通できるようになるらしい」
「そういうものなんですか」
「稀な話だが」ガルドが楓を見た。「お前が稀な体質なのは、今さら驚かんだろう」
「……まあ、そうですね」
「北の外れというのは」ガルドが地図を広げた。「街の外れ、古い倉庫が並んでいる区画だ。最近使われていないものも多い」
「何かあるんでしょうか」
「わからん。だが精霊が気配を感じると言うなら、ただ事ではないかもしれない」ガルドが地図を畳んだ。「調べさせる。お前は今日は街の中にいろ」
「はい」
「しろに、よく伝えたと言っておけ」
楓は少し驚いた。ガルドが精霊に言葉を送るのは初めて聞いた。ガルドは気配を感じる人だ、と思った。
「伝えます」
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花屋に戻ると、ルーチェが待っていた。
「しろ、喋ったって本当?」
「ギルドにも言ってないのになんで知ってるの」
「お母さんが聞いた」
「速すぎる」
ルーチェが楓の横に座って、しろを見た。しろは楓の膝の上で丸まっていた。
「しろ、また喋る?」
しろは答えなかった。ぽぽが「ぽっ!」と代わりに答えた。
「ぽぽが喋ったわけじゃないんだよね」とルーチェが言った。
「ぽぽはあれが全部の語彙だと思う」
「ぽっ!」
「ね」
しろが少しだけ目を開けて、ルーチェを見た。それからまた閉じた。ルーチェが「なんか、ちょっとうれしい」と言った。
「しろが喋ったのが?」
「しろが私のことも見てくれた気がして」
楓はそれを聞いて、何も言わなかった。でも、わかる気がした。しろがずっとそばにいる。見えているけど遠かった何かが、少しずつ近づいてくる感じ。
夕方になって、ガルドから伝言が来た。
北の外れの古い倉庫の一つに、見慣れない荷物が持ち込まれている形跡がある、と。
詳しくはまた明日、と。
楓はそれを読んで、しろを見た。しろは窓の外を見ていた。今日は少し違う方向だった。北の外れ、のある方を向いていた。
「……やっぱりまだ気になってる?」
しろが振り向いた。
「少し」
二文字だったが、今日二回目の言葉だった。楓は「わかった」と言って、しろの頭に手を置いた。しろが耳をぴこ、と動かした。
港の方から夕方の風が来て、花屋の花がさわさわと揺れた。
ぽぽの語彙が「ぽっ」しかない話をルーチェと確認するシーン、好きです。次回から少しずつ物語が動き始めます。お楽しみに!




